一頁:血塗れエリカ
透き通った月明かりに浸る古びた図書館が一つある。
耐震強度の問題から建て直しが決まっているが、まだ本棚から本は降ろされていない。
童話コーナーの赤い絨毯は、生臭く湿っている。
その上にあるのは、女の裸体だ。けれど首から上がない。
傷口は、左回りにねじれており、尋常の力による所業でない事をうかがわせた。
瑞々しい傷口から赤く甘美な芳香が立ち上り、隣で朽ちるもう一人の女の身体を包み込んでいる。
こちらも頭部を喪失しており、年の頃は分からないが、両名共に身体つきの張りの良さを考えると相応に若そうだ。
古めかしい人形のように打ち捨てられた二つの亡骸から昇る死の匂いを断ち切って、赤黒い群れが駆け抜ける。
常人の知覚では稲妻と見紛うそれは、鮮血の色に染められた無数のイバラであった。
淡々とした光を纏った女が一人、愉悦に任せて一階から三階までが吹き抜けとなっている天井の中空を円舞曲のようにイバラの追跡を逃れる。
その面立ちは、額に蟻。頬に蜂。舌に蜘蛛。顎に蜥蜴。瞼に蛇。これら虫や爬虫類の腐れた亡骸が皮の剥がれた女の顔に張り付いている。
青いドレスは虫喰い穴に犯され、不浄に煮立った赤い肉の泡がぽつぽつと零れ落ちている。
女が黒くただれた唇を嬉々として歪め、眼下に目をやると、絨毯を突き破る赤黒いイバラの群れがその身を縛り上げた。
空中に貼り付けとなった女に一人の男が駆け寄っていく。
精悍な面立ちだが、飄々とした気配を纏っていた。
百八十センチを超える長身で、身体つきは鍛えられて引き締まっている。
髪型は、七三で分けているがボサボサとした癖毛のせいで全体としては軽薄そうな印象だ。
服装は、白いシャツに黒いネクタイを緩く締め、黒のスラックスと焦げ茶の革のショートブーツを履いている。
男の風貌で一番目を引くのは、袖を肘までまくった朱色のミリタリージャケットだ。
男は、ジャケットの右ポケットから特殊警棒を取り出して、本棚とイバラを足場に空中へと駆け上がった。
「取った!」
男が警棒を打ち下ろした瞬間、イバラに縛られていた女は霧散し、獲物から伝わるはずの手応えは空気を切るばかりであった。
舌を打ちながら着地した如月正太郎は、先程まで異形の女が居た吹き抜けの虚空をじっと見つめている。
「さすが主演級のワード。俺のグリムハンズじゃ仕留めきれねぇな」
正太郎は、苦笑すると、覚悟を決めたかのように頷き、
「やっぱり、あいつを引き込むしかねぇか」
嘆息交じりに夜の図書館を後にした。
――――――
もっとも古い記憶は、真っ赤な血溜まりだった。
血に塗れた私は、一人泣いていた。
こうなる前に何があったのだろうか?
私の家の天井をぷかぷかと浮かびながら、青くてきれいなドレスを着た少女が踊っている。
きっと彼女は、おとぎ話に出てくるお姫様なんだと信じていた。
母と一緒に読む絵本が好きだったから、そうなら素敵だと思ったのだ。
お気に入りのビー玉を持ってはしゃぐ私の傍に、タバコを持った父が近付いて来て母に叱られる。
いつもなら、それで終わり。
けれどその日は違った。
父が私に近付いた瞬間、視界は紅と眩い煌めきに埋め尽くされた。
目も眩む煌めきが収まると、一人の少女が全てを飲み干す血煙の中を泳ぐように踊り、嬉々として空へ舞い上がっていく。
そして私は、一人になった。
伯母夫婦は、とてもよく出来た人で、惨劇を生き延びた私を快く引き取ってくれた。
実の子供達と分け隔てなく接してくれて、傷ついた私の心は癒された。
私の誕生日には、町のケーキ屋さんで一番大きなケーキを買ってくれた事と。あの日なくしたお気に入りのビー玉と同じものをプレゼントしてくれた事が本当に嬉しかった。
七本のろうそくが灯り、吹き消そうとした時、あの青いドレスの少女が現れて、また視界は輝きと生臭い赤に染まっていく。
また行き場を無くして私は、児童保護施設に引き取られた。
不自由なく暮らしていたし、施設の人も同じ境遇の仲間もみんな優しくて、ここでならきっと幸せになれると思った。
やがて九歳の誕生日を迎えたあの日、皆とおはじきで遊んでいると、また青いドレスの少女が宙で踊っている。
結果は、言うまでもなかった。
大切なものは、みんな粉々に砕かれて、鮮血となって私の頭上に降り注いだ。
怖い人達に数日もかけて怒鳴られて、生き延びた友達から――と呼ばれて、いつしか居場所はなくなり、一人になっていた。
あの時、何と呼ばれたのだろうか?
どうしても思い出せない。
あの時、みんな私の事をなんと――。
「化け物!!」
劈くような不快な音が自分の悲鳴であると沙月エリカが気付いたのは、見慣れたしみだらけの天井が目に入り、過去を夢に見たのだと理解したからだ。
壊れかけた座卓とリサイクルショップで買ったタダ同然のテレビ、壁のハンガーに掛けられた真新しい茶のブレザーしかない六畳間。
唯一得られた居場所に自分が居ると分かり、エリカは安堵していた。
けれど幸せだった頃とは、夢の中でしか出会えないと思い知らされる。
――ああ、まただ。
こんな朝は、いつも涙ばかりが頬を伝う。
無駄と分かっていても、血に塗れる前のあの頃に帰りたいと願いながら。
――――――
彩桜市は、人口百三十万人が暮らす政令指定都市である。
首都圏でも有数のベットタウンであり、全国的に見ても高所得者の多い地域だ。
彩桜市は、合計十一の区で分けられており、市の最南端である上谷区・県立彩桜高校に通う沙月エリカは、一年C組の教室に着くなり、無言で最後列の窓際の席についた。
いつものように窓から外の景色を眺める。
教室を支配するクラスメイトの喧騒が酷くうっとうしかった。
彼等を賑やかしているのは、二週間前から上谷区を騒がせる連続失踪事件だ。
失踪者は全員専業主婦の女性で、年齢層は二十代から四十代と幅広い。
既に七名が姿を消しているが、いずれも発見に至っておらず、同じ区内での連続失踪という事もあって、連日テレビのワイドショーやSNS上を賑わせていた。
「一昨日も失踪した人、出たんだってな」
「変態にさらわれたんだよ。間違いねぇって」
「こわいねー」
「被害者は、全員結婚して子供の居る女性だって」
「お前も狙われるかも」
「私、主婦って程、ババアじゃねぇし!! つか子供居ねぇし!!」
身近で得体のしれない何かが起こっている。
しかし自らがその餌食になる不安は、微塵もない。
安全な所から人の不幸を肴に、都合のいい恐怖に酔っているだけ。
そんなクラスメイト達が不愉快だった。
エリカが机に掛けていた鞄を取って立ち上がると、隣の席に座る女生徒が声を掛けてきた。
「沙月さん。どうしたの?」
――誰だっけ?
入学してから一ヶ月半。
クラスメイトの名前は、誰一人として覚えていない。
隣の席の彼女ですら例外ではなかった。
エリカの物覚えが悪いわけではない。
ただ面倒なのだ。
どうせ名前を覚えても意味がないのだから。
「具合悪いから帰る。悪いけど先生来たら、そう伝えてくれる?」
「分かった。送ろうか?」
心からそう言ってくれているようだった。
昔なら友達になる事もありえたのだろうが、それは抱くだけ無駄な希望なのだと学んだ。
「大丈夫。ありがと」
素っ気なくエリカが教室を出て行くと、教室を支配していた話題の矛先がエリカへと変じた。
「また早退かよ」
「あいつ変わってるよな」
「入学式の時は、めっちゃ可愛いとか喜んでたじゃん」
作ったように左右対称で通った鼻筋。
整った二重瞼にカラコンを入れたような黒目がちな瞳がはまっている。
肌も一切化粧っ気がなく、朝露のように瑞々しく透き通っていた。
背中まで無造作に伸びたボサついた髪でありながら尚、覆い隠せない美貌。
入学当初、沙月エリカは男子の羨望と女子の嫉妬を集めた。
しかし今では――。
「可愛くてもあれじゃな。おまけにあいつ殺人の前科があるって噂だぜ?」
「マジかよ!」
「私も聞いた事ある。中学では血塗れエリカって呼ばれてたって」
「こえー」
「あの子暗いもん。やりそうー」
「そういうのやめなよ!」
エリカの隣に座る女生徒の一喝で、教室を支配している残酷な好奇心が集束していった。
壁越しに自分の噂話を聞いていたエリカは、隣席の彼女の優しさに苦笑を浮かべる。
何故なら彼等の語る噂は、《《真実》》なのだから。
幼い頃から人の死には縁があった。
四歳の頃、エリカの住んでいたマンションで殺人事件が起き、両親が殺害される。
母は首をねじ切られて即死。父親は遺体の形が残らず、壁の染みになった。
三DKの部屋が全面血で染め上げられ、家具の一切合財も粉々に破壊された凄惨な事件であり、猟奇殺人事件として当時のマスコミを賑わせた。
次は七歳の時。エリカを引き取ってくれた母親の姉である伯母夫婦だ。
エリカを除く一家五人が何者かに襲われ、全員死亡。
伯母は首をねじ切られ、それ以外の家族は遺体の形が残らず、犯行現場は前回と同様、壊滅的な状況であった。
その次は九歳の頃、児童保護施設。
施設長の四十二歳の女性の首を切断され、他の職員や子供たちなどを合わせて七人が犠牲となる。
現場となった食堂は、テーブルや調理器具はおろか、天井や壁に至るまで、部屋の中で竜巻が暴れでもしたかのように破壊され尽くしていた。
警察は、三度の猟奇殺人事件を生き延びた上、どの事件でも被害者達の大量の返り血を浴びていたエリカに疑惑の目を向けた。
二年程、警察署と精神病院を往復する日々を過ごしたが、証拠不十分で起訴には至らず。
以来最寄りの上谷駅から徒歩三十分。エリカ以外の入居者が居らず、大家も別宅に住んでいる築四十年のアパートで独り暮らしの日々。
あの日の事は、よく思い出せない。
犯人の顔も。
事件の詳細も。
覚えているのは、青いドレスの少女と自分が人を殺してしまった罪悪感。
大切な人達を手に掛けるはずがないのに、脱ぎ切れない罪の意識と命を奪った確信。
友達と呼べる存在が出来ても、身の上を知られると一斉に離れていく。
それでも責める気にはなれなかった。
エリカが彼等の立場だったら同じようにしていたはずだから。
唯一友人と呼べるのは、彩桜高校の校舎裏に住みついている三毛の野良猫。
学校には、野良猫に餌をやって頭を撫でさせてもらうために来ているようなものだ。
エリカが猫用の缶詰を開けて地面に置くと、生垣の中から悠然とした足並みで、三毛猫が姿を現した。
野良の割には毛艶が良い。エリカの与えているのがペットショップで買える最高級品だからだろう。
後見人を務める父方の親戚は、エリカの両親の遺産を管理して仕送りしてくれている。さらに住んでいるアパートの家賃は激安。
欲しい物がないエリカにとって、唯一金を贅沢に使えるのが野良猫の餌代だった。
「ようエリカ」
そんな至福の時間に、時折割り込んでくる男が居る。
「如月先生」
それが如月正太郎であった。




