書の中のスズちゃん4
「イレーナ?今、イレーナとおっしゃられましたか?」
アミスさんが質問している途中、こんな場面で聞くとは思わなかった名前にたまらず反応してしまった。失礼に違いない行為だったが、アミスさんは特別気にした様子でなかったのが救いでしょうか。
私の言葉にリゲル・イレーナと名乗った青年はこちらへと顔を一瞬向けてギョッとし、少し忌々しそうにアミスさんへと視線を投げかける。
「なぜこの子がここにいるのですか、アミス様。この子は現代のイレーナと共に生きている娘の筈」
「そうも睨むでない、リゲルとやら。今回のケースは中々に特殊な上、その子はワシの意思とは関係ないところで招かれた、上客じゃ」
どういう訳だかわからないが、リゲルさんは私の事と、それからキルヴィ様の事も知っているようだった。表情的には尚もアミスさんへ言及しようと口を開いた感じだったが、その言葉を飲み込んだように一拍あけてから此方へと微笑みを向けてきた。
「君、確かスズちゃんって名前だったか?先代イレーナのアンジュは私の末裔だよ。現代イレーナ……キルヴィの心の中を聞いた時、君の事も出てきてね」
アンジュ様がアードナーの末裔とは驚いた。普通の人だと思っていたのだけれど……
それに心聞といったか、さっきアミスさんが使ったあの技をリゲルさんも使えるらしい。そしてこちらを見たまま顎に手を当てて「ほほう」とさらに笑みを深めた。
「どうやら私との会合の後に仲が進展したようで。おめでとう、と言っておくべきかな?」
「なっ、おぬし!聞こえたとしてもそういうのは黙っていてあげる事じゃろ!」
デリカシーってものが欠けておるのか!とアミスさんが憤るものの、そう言えるって事は当然アミスさんにも筒抜けっていう事で。なんだか急に恥ずかしくなってきました。
「いやいや、ふふふ。自分の名を継いでくれている子の伴侶、になるかも知れない存在ならば気にかけるのも致し方ないでしょう?」
悪戯が成功したみたいに笑っているリゲルさんの姿に、アンジュ様の姿が重なって見えたのはきっと偶然ではないのでしょう。それにしても伴侶とは、気が早すぎます……いえ、凄く魅力的な響きですけども。
コホン、と咳払いをしてアミスさんが口を開く。
「……さて、本筋から脱線しまくりじゃからそろそろ話を戻そう。おぬしはワシを知っておるようじゃが、ワシはおぬしの事を知らぬ。何やら敬われておるようじゃが、その理由もわからぬのじゃが?」
「アミス様といえばジペト末期に生きたアードナーで知らないものはいないですよ。通り名も数知れず。狭間の大賢者、境界の魔女、断界の悪魔なんてのもありましたかね」
アミスさんってそんなすごい有名人だったのですか。なんだかそんな風には見えなかったので意外でした。というよりも、当の本人も眉間に皺を寄せながら首を傾げてみせているのですが。
「なんじゃその、物騒にも思える数々の異名は。ワシ、なんでそんなに知れ渡っとるのかの?」
「冗談はおやめ下さいな、大賢者。この世界のように、世界から自分の世界を切り分ける術を見つけ、誰よりも自在に行使したのは貴女でしょう?まぁ、でもやっぱり一番なのは「ヒトを選んだ慈愛の使徒」ですかね」
ギチリ、と空間が軋んだ音が聞こえた気がした。チリチリと首の後ろに痛みを覚える。なんだろうと手を伸ばそうとして、身体を動かせない事に気がついた。かろうじて動く目線を2人へと走らせると、リゲルさんの周りの空間が、リゲルさんを中心にひび割れているのが見えた。
「今のは、話の流れから致し方ないと判断するから、赦す。じゃがその呼び方だけは、ワシを使徒なんぞに揶揄されるそれだけは看過出来ぬ。その呼び名をしたが最後、次はないと思え」
アミスさんから先程までのコロコロと表情を変える明るい人という様子はなりを潜め、表情が抜け落ち声すらも冷たく鋭いものへと変わっていた。リゲルさんはボタボタと冷汗を滴らし、顔を青くしながらも「ああ、どうも気に障ったみたいで」と軽口を叩きながらどうにか頭を下げる。
「でじゃな、おぬしはジペト暦とベルスト暦を跨って生きたと踏んでおるのじゃが」
先程まで感じていた緊迫感が一気に薄れて、自分の身体に主導権が戻ってきた。何事もなかった、そんな風に振る舞うアミスさんに少し遅れて恐れを感じる。
「ええまあ、仰る通り。ついでにルベストを街から国へと発足させた1人でもあります」
イレーナは元々名家である、と聞いたのはアンジュ様か、それともツムジさんからだっただろさしうか。その名家の創始者こそが、今私の目の前にいるのだ。
「そうか……おぬしが。ジペトとベルストの暦にはどんな差があるのじゃ?」
「大きな差としては、一つの月にかかる日数の一律化ですかね。ジペトは夏と冬の月が長く、春と秋については短めに設定されてましたがそれを廃しました。まぁでも、浸透するのには結構かかりましたけどね」
「ああ、あれは確かにまどろっこしかったからのぅ。じゃが、それで日数がずれていったりはせんのか?」
「100年に1日くらいズレるだけって提唱した奴は言ってましたがね、そこまで誤差を抑えられるなら許容範囲でしょう」
なんだか難しい事を言っている。というよりも単に名前が違うだけだと思っていた暦の内容は、結構違うらしい。
「不思議そうな顔をしておるな。あるのが当たり前だと思っているのじゃろうが暦はれっきとした人の発明、発見なんじゃぞ?」
そう言うととても楽しそうにアミスさんは笑ったのであった。




