犬も食わない恋
僕のご主人は、家族や周囲の人から変子と呼ばれている。
僕の住む家は市街地から少し離れた緑豊かな町だ。町には動物病院も人間の病院もある。スーパーも100円ショップもある。少し寂びれた町だが、県の中心部へは車で1時間なので変子の家族はそれ程不便には思っていないようだ。その辺が変子の家族、という感じもする。
家は石垣の上にあり、玄関までの緩い坂が僕は好きだ。昔ながらの家で土間もあるし庭も広く、僕の家だけがなぜあんななのかがよくわからない。前に変子がお母さんと言っていたのは、不器用なお父さんが張り切り過ぎて空回りして親指を鋸で切り落としそうになり、金槌で親指を骨折しながら僕の為に製作したらしい。だから、僕は壁の板と板が大幅に離れていようが気にしないことにした。そこから家にいる家族の顔が見えるので結果的にいい、と言い聞かせている。
僕にはいい町で、舗装された道路より未舗装の農道が多く、草が茂った道に電信柱より低木が多い。夏になると、田んぼの畦道を散歩中に挽かれた蛙がたくさんいて変子は避けるのに苦労する。昆虫や鹿、兎、たまに放送で熊が出没と放送されるが山が近い分、危険も多い。
僕は変子の熊五郎しかみたことはないが、熊は危ないらしい。
熊五郎は変子の大切にしている白熊のぬいぐるみで、幼少期に動物園で買ってもらったらしい。変子は今年23歳になるので、もう15年も前のものだ。何度も繕った跡のある熊五郎はなぜ熊五郎と名前がついたのか、変子が言っていたことがある。
「熊は冬眠から目覚めた5月、6月、冬眠する前の10月ぐらいが1番危ないんだって。 だから熊五郎。 熊六郎はゴロが悪いし、熊十郎は柔道家みたいでしょ?」
仁王立ちで自信たっぷりにキラキラした目でそれを言った変子に、家族が絶妙に変な顔をして首を傾げていた。熊六郎はないにしても熊五郎も十分、柔道家みたいだ。
変子は当然ながら本名ではない。変子の本名は、朝倉 小百合という。
200m離れた場所に家族と住む変子家族のご近所さん、朝倉 由朗さん(67)宅に1年前に拾われたジョンは、周囲の人間が皆、変子と呼ぶので変子を、小百合、と呼ぶご主人を呆けていると思っていたらしい。夏は白いタンクトップに色褪せたズボンスタイルの由郎さんは恰幅のいい日焼けした爺さんで、ジョンを拾う前も拾った後もよく竹輪を半分に千切ってくれる。半分は由郎さんが食べ、半分は僕のもの。でも、ジョンが来てから竹輪は3分の1になった。量は減ったが竹輪は増々美味しくなった。
変子は自転車で30分の距離にある大学の獣医学科の学生で同級生からも変子と親しみをもって呼ばれている。僕は変子について何度か大学に行ったことがある。その大学には犬の試験があって、難しいがそれに合格すると大学内の山の斜面に造られたドックランで変子が授業を受けている時も待っていることが出来る。たまに学生が僕達を捕まえる訓練をしたり、実習で口の中を見られたり耳のにおいを嗅がれたりする。僕はこの試験で一発合格したが、なぜか変子が2度落ちた。犬の試験なのに飼い主が落ちるのは初だ、と変子のゼミの樫瓦先生が笑っていた。大物だ。
変子はかわいい、らしい。
変子の女子高時代からの友達・瀬野 実ちゃん、通称ミノルは、小柄な体格、傷みのない黒髪、長い睫に大きな目、小顔にピンクの頬っぺた、持ってるものかなりいい、と絶賛していた。けれど、変子はいつも鳥の巣みたいな髪を無造作にポーニーテールにして、顔を洗って、上半身を胸に名字の刺繍された高校時代の赤ジャージ、下半身を青いハーフパンツ、ママチャリに乗り登校する。なぜか顔だけは日焼け対策をして、大阪のおばちゃんがつけるような黒いフェイスカバーをつけ、バイクのヘルメットの様に格好よく下し自転車に跨るのだ。眉間に皺を寄せ困惑したお母さんがフェイスカバーをなぜつけるのか、と尋ねると変子は口元を引き上げて嬉しそうに笑って言った。
「サングラスより見た目が怖くならない」
見た目が怖くならないのは元々だし、怖いよりかなり怪しい。いつか通報されるんじゃないか、と犬の僕が毎日心配している。犬の心、飼い主知らず、だ。
「にまめー、ごはんだよー!」
ドックランで物思いに耽っていると変子がフェンスに寄り掛り手を振っていた。
にまめ、それが僕の名前だ。
なぜ、にまめというのかというと、僕は黒胡麻色の柴犬で目の上に平安貴族の眉毛のような白い模様がある。普通なら、マロ、タロウ、ヤマト、そんなところだろうか。変子が空豆を剥いていて思いついたらしい。その時丁度、料理番組で煮豆の回だったことから変子は、天啓だ、と喜んだそうだ。目の上の模様が2つあるから、2つの豆でにまめ。僕は気に入っているが、みのるや他の変子の友達からは眉をへの字にされた。
僕が貰われる前に居た都会の動物病院では柴犬には大抵の場合、日本的な名前が付けられていた。
僕は小さいときに兄弟と一緒に動物病院で保護された。段ボールに入れられ、その病院の前に捨てられていたそうだ。もう捨て主の声や顔は覚えていないけれど、たくさんの他の犬のにおいがしたのだけは覚えている。動物病院の先生は優しくて僕達を無料で診察して、嫌だったけど注射もしてくれた。でも、6匹いたうち2匹の兄弟は死んでしまった。それから、先生は僕達に新しい飼い主を見つけてくれようとした。僕達は人気でたくさんの人が飼い主になりたがったが、先生の審査は厳しかった。それでも他の兄弟は比較的はやく自分に合う飼い主の元に旅立って行った。僕は少し攻撃的だったからかもしれないが、なかなか合う飼い主に巡り合えなかった。先生のもとで他の兄弟が旅立ってから2カ月を過ごしたある日、変子の家族がやってきた。変子はその時から変で、僕は変子から色んなにおいがして、大人しく抱かれていた変子の腕にいきなり噛み付いた。噛み付いた、といっても強くではない。それでも痛かった、と思う。お父さんとお母さんは驚いて目を丸くしていたが、変子は笑って僕を下すと僕の自慢の歯をみようと歯茎を出した。
「お前、立派な歯をしてるね。 干し肉をあげようか?」
変子は僕に笑いかけて、先生に聞いてからジップロックに入った干した鹿肉を裂いて食べさせてくれた。僕は何度もにおいを嗅いで、少しだけ食べてみた。驚くほど美味しくて思わず尻尾を扇風機みたいに振った。僕は変子が一気に好きになった。
「どうだい、変子ちゃん」
先生は顎を撫でて嬉しそうに変子に聞いた。
「うーん、この子がいいならいいですよ」
僕は干し肉を食べた後も変子の指を舐めていた。それから3日後、僕は変子の家に旅立った。
「にまめー! 今日は干し肉あるよー!」
干し肉、その言葉に僕は変子へと一直線に駆けた。ドックランの入口までいくと二重の扉を開けて変子が中に入ってきた。リードをつけてドックランの外に僕を連れていくとすぐ近くにある芝生に置かれた古びたベンチに腰掛けた。そこは楠が影をつくってくれるので僕に嬉しい。
変子は鞄から携帯用の水飲み皿と食事皿を出して僕の昼食の用意してくれた。
「はい、お食べ」
僕が食べ始めるのを穏やかな眼で見ると変子は鞄から文庫本サイズの本を取り出して見始めた。
それからすぐに僕が食事を食べていると、1歩進んでは2歩下がる。そんな奇妙な足音に気が付いた。僕はこの足音を知っている。横にいる僕より大きな真っ白な紀州犬が迷惑そうに飼い主を見上げている姿が目に浮かんだ。
「あれ? ぐ、偶然ですね」
絶対偶然じゃない。僕はそれも知っている。
「こんにちはー」
変子は本から視線を上げて無邪気に珍しく畏まったスーツ姿の彼奴に笑い掛けた。
彼奴は青いリードを短く持って紀州犬を僕の前まで連れてくると座らせて携帯用の水飲み皿に水を入れた。それからベンチから落ちるんじゃないか、と思うくらい端に座り大きな身体を丸めていた。
「あっ、すいません」
変子は横に置いていた鞄を膝の上に引き上げて彼奴に頭を軽く下げた。
「いえいえいえいえ!」
額に汗を浮かべた飼い主が必死に胸の前で手を振るのに紀州犬は実に慣れたもので大欠伸をして僕を見た。食べ終わった僕は2日ぶりに見た紀州犬・白熊さんに挨拶をした。白熊さんは名前の正式名称が白熊さん、なので丁寧に言うと、白熊さんさん、になる。
「あ、あの朝倉さん」
彼奴は変子を呼んだが、変子は白熊さんを夢中で見詰めていた。
「白熊さんに干し肉あげてもいいですか?」
「どうぞ。 あ、あの、朝倉さん?」
鶏を抱え白衣を着た学生の集団が通り過ぎた、と思ったら一斉に彼奴に振り向いた。
変子は僕と白熊さんに干し肉を1本ずつくれた。僕達は伏せをして干し肉を味わった。その干し肉は変子の猟師のじぃちゃんが仕留め、変子が捌いて、ばぁちゃんが干してくれたものだ。変子のじぃちゃんは、伝説の猟師だが少し変子に似ている。僕が初めてじぃちゃんにジッと目を見詰められ、軽自動車に乗せられて不満げな変子と山に連れて行かれたと思ったらリードを外され、突然猪に出くわした。僕は驚いて必死に吠えた。猪も驚いて逃げて行った先にじぃちゃんが鉄砲を構えていた。銃声はすぐに聞こえた。じぃちゃんはご満悦で僕を褒めてくれたが、変子は2度とさせないと憤慨していた。
変子には内緒だが変子が大学に行っている時にたまにじぃちゃんに山に連れて行かれる。慣れたのか本能なのか、僕は追い詰めるのが上手い、らしい。ご褒美の肉も美味しいので今の所不満はない。
「あのっ!」
嬉しそうに僕らを見詰め、何度読んでも返事をしない変子に業を煮やした彼奴が大きな声をだした。その途端に近くにいた犬が一斉に吠えた。彼奴は首から頭が落ちてしまうんじゃないかと思うような勢いで周囲に頭を下げて焦っていた。僕がいい気味だ、と笑うと困ったように白熊さんが僕の背中に重い頭を乗せ僕を窘めた。
「あ、朝倉は私か」
そんな最中にも変子はマイペースにハッとして声を出した。
変子は本名を朝倉 小百合というが、皆が変子、と呼ぶのでたまに自分の名前を忘れる。獣医学科の教授達も変子を変子と呼ぶのだ。しかし、試験では本名を書かなければならないので、ある教授が、いつも誰かと思い首を捻る、実に迷惑、とぼやいていた。
「なんですか?」
変子はきょとんとして彼奴を見詰めた。
「あ、あのこれを」
彼奴は内ポケットから2枚の長方形の紙を取り出し変子に1枚を差し出した。紙が震えているのは彼奴が緊張しているからだろう。
「水族館?」
「朝倉さん、水獣にも興味がおありだとこの前おっしゃっていたので……」
変子はジッとチケットを見詰めてから、座っていた場所からズイッと彼奴に近づいた。
「サカマタさん、以前からお願いしていると思うんですけど。 サカマタさんの方が年上ですし、敬語はやめてください。 あと、私の事は変子でいいですよ? この学校の3分1が朝倉ですし」
変子はいつもの柔和な笑顔で言った。彼奴はその笑顔を見るとカチンコチンに凍った氷のように固まる。真っ赤に燃えた火のような肌でよく溶けないものだ、と僕はいつも思う。
「じゃぁ、変子ちゃん、どうかな?」
「うーん」
旗色の良くない変子の表情にサカマタは慌てて言った。
「そ、それか、家くる!? 実家でボルゾイを飼い始めたんだ」
「行きます!」
「いいの!?」
いいのか、変子。サカマタの実家だぞ。僕は驚いて変子を見上げた。
変子は過去6回、デートの誘いを断っている。本当に予定があったから断っているのだが、サカマタはめげない。愛犬家の変子に対して有効な手立てだ。学習したな、サカマタ。
言い忘れたが、誰が見ても変子に惚れている彼奴の名はサカマタではない。これは変子がつけた渾名で、本名は神保 尚貴という。それほど奇抜な名前でもないが、変子が彼奴と出会ったとき、三つ揃いの黒スーツに色白の肌、真四角の黒フレーム眼鏡、叫んだ時に覗いた通常より尖った犬歯を見て、後日、サカマタの承諾の元決められた渾名だ。サカマタは、シャチの日本名でサカマタの姿を見たときに閃いたらしい。
大学には付属動物医療センターが併設されている。サカマタと変子はその診察室で出会い、白熊さんをサカマタに託したのは変子だ。
サカマタはその時、長年連れ添った中型犬・弥助さん(15)を夜間救急に連れてやってきた、らしい。らしい、というのは僕はその時、家にいて変子から後で聞いた話だからだ。
弥助さんは以前から、長くはない、と言われていたらしく、サカマタも覚悟を決めていたのだろう。弥助さんが亡くなった時、サカマタは泣かなかった。霊安室に棺がわりの小箱に入った弥助さんを見詰めていたサカマタが、変子には不思議でならなかった。
変子の悪い癖に、思ったことがすぐ口から出る、というのがある。
それで、ついサカマタに泣かない理由を聞いてしまった。それを尋ねた途端、怒涛の勢いでサカマタは捲し立てた。きょとん、とした眼でそれを黙って聞いていた変子は、バッと霊安室を飛び出して、捨て犬が産んだ子犬の白熊さんを抱えて戻ってきたかと思えば、子犬をサカマタに渡した。1度は白熊さんを拒否したサカマタだったが、結局、変子におしきられ白熊さんを飼い始めた。
そして、それが実るまで長い時間を要する恋の始まりだったのだ、と犬の僕でさえ気付いている。
「あ、あの本当にいいの?」
「え? 見せてくれないんですか?」
「いやいやいやいや、僕はいいけど……」
大きな身体をさらに丸め、変子を慎重に窺い見るサカマタはとても成熟した大人で医者には見えない。サカマタの職業は人間の医者で、外科医、というものをしていて、白熊さんもその病院でセラピードックとして働いている。その病院は都会にありサカマタ達も普段はマンション暮らしだそうだ。それでも、最低でも2週間に1度は大学にやってくるのだから、付き合う白熊さんも大変だ。
たまたまサカマタと変子が一緒に歩いているとことを見た変子の両親の反応は見事に分かれた。お母さんが言っていたが、サカマタは人間的に冷たいところがあるという噂だけど名医で成熟した大人であり、変子がサカマタでいいなら任せられる、という。お父さんは、サカマタの話を変子がする度に苦虫を噛み潰したような顔をしている。
僕はサカマタでも誰でも変子が好きになればそれでいいが、残念なことに変子が恋をしたことはない。本当に残念だ。
人間以外になら頻繁に好きだ、愛してる、といっているが、6割が犬で残り4割が野生動物だ。人間との恋は程遠い。
「いつにしますか?」
「……変子ちゃん、いつもと違ってすごい乗り気だね」
「ボルゾイなんてこの辺で見たことないですよ!」
変子は興奮して鼻息が荒くなっていた。
「あの、来週の土曜日はどう?」
「土曜日ですか……」
「その日、両親が外出していてね。 変子ちゃんも気兼ねなくゆっくり犬と遊べると思うんだけど」
僕は目を丸くしてサカマタを見上げた。サカマタは眼鏡をキラリと反射させた。その口元に浮かんでいる薄ら笑みが腹立たしいが、白熊さんが背中に乗っているので身体の身動きが取れない。変子は頻繁に目をキョロキョロと動かし、困惑した表情で僕を見詰める。
「うーん……」
「散歩もさせないといけないし、もしよかったらにまめも一緒に」
「にまめも?」
変子がサカマタを見て首を傾げた。
「ち、近くに、実家の近くに犬のレストランが出来たんだ。 いろんな犬が来るし、もちろん人間も食事が一緒に食べられるからお昼はそこで」
サカマタ、チャンスを逃すまいと必死だな。
「うーん」
変子は眉の間がなくなるんじゃないかと思うほど寄せてうなった。
「いいですよ。そうしましょう」
悩んでいた割にあっさりと了承した変子は、立ち上がるとサカマタに向き直った。
「私、これからミノルとデートなんです」
ミノルとデート、というのは、正式にはミノルの飼っているフェレット(2)と毛布を使って遊ぶ、ということと同意語だ。
変子はポケットを探り、ぐちゃぐちゃした白い紙を広げ、胸ポケットに刺さっていたアヒルのボールペンでその紙にすらすらと何やら書いた。白い紙は僕が見た所、コンビニのレシートで、変子は何でもポケットに突っ込む癖があるから間違いない。
立ったまま掌を机の様にして書いた変子はその紙をサカマタに渡し、にっこりと笑った。
「それ私の番号です。 次にいつ会えるかわかりませんから、電話してくださいますか?」
「は、はいっ!」
今まで聞けなかった携帯番号を変子から渡してもらえるなんて、ラッキーだな、サカマタ。
サカマタは紙を大事そうに包むと嬉しそうに笑った。
「それじゃぁ、また」
「また」
変子は僕を連れて行き、振り返るとサカマタは白熊さんが呆れるほど嬉しそうに顔を崩していた。
「って、デ、デート!? 変子さん!?」
遠くからサカマタの悲鳴に似た声が聞こえた。気付くのが遅いぞ、サカマタ。
「にまめ、サカマタさん、いい人だよね? シャチみたいに愛の深い感じがしない?」
サカマタが見えなくなり、校舎の扉に手をかけて変子はピンク色にした頬っぺたを上げて、嬉しそうに笑った。
犬の僕が言うのもなんだが、そんな顔をするなら犬も食わない恋なんかしてないで、さっさと番になればいいのに。自覚がないってこわいな。
後日、サカマタは無事に変子とデートをすることになるのだが、実を男と勘違いしたり、両親のいない家で体調を崩したボルゾイの為に変子がお泊りすることになるのだが、それはまた次の機会に話すことにする。
ありがとうございました。
参照:Wikipedia シャチ 柴犬 紀州犬