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私と私

作者: 天方龍一

素人の処女作ですが、短編ですので気軽にお読み下さい。今後の作品にも活かせると思いますので、出来ましたらご感想をお寄せ頂けたら幸いです。

寒空の下、身体を丸めながら足早に駅へと向かう人々の群れ。い つもの日常が人々の吐く白い息と共に流れている。

京子は駅のホームから朧気な表情でそうした光景を眺めて溜め息を洩らす。そんな日々の繰り返しである。

今年三十四歳。無事に本厄、後厄を乗り切ったが、京子は寧ろ厄年に何らかの変化がある事を期待していたのかも知れない。未だ独身ではあるが、その事を京都の両親から咎められる時以外は、結婚を意識する事もなくなっていた。いや、恐らくは結婚に対する憧れの気持ちや、理想の男性を思い浮かべ、胸を熱くするような十代の時に味わった思いを、心の奥底に漆黒のヴェールで覆い隠してしまっているのだ。

身長は結して高い訳ではないが、女性らしい身体のラインと、美しく長い黒髪は併せ持っている。後ろ姿を見れば、戎橋辺りでも男性から普通に声を掛けられる筈である。ただ、前からすれ違い様に声を掛けられる事は京子の人生の中で一度もなかった。しかし、自分が女性である事を忘れている訳ではない。通勤電車では女性専用車両を利用し、家ではきっちりと家事もこなし、ファッションにも興味がある。だが、自分に全く自信を持てずに三十四年という歳月を過ごして来たのだった。

今は京阪沿線の街でアパートを借り、独り暮しを始め、両親から咎められる事もすっかりなくなっていた。

ホームに特急列車が滑り込んで来た。相変わらず車内は押し込まれたように乗客で埋め尽くされている。

今日は週末の金曜日という事もあってか、車内の周りのOL達の姿が華やいで見える。京子はいつもと変わらない自分が他人の目にどう映っているのか少し気にはなったが、明日の旅行の事で既に頭が一杯であった。京子の唯一の趣味が目的を持たずに旅をする事であり、明日から一泊の予定で南信州へ旅行する予定になっている。

列車は京橋駅に到着した。周りの華やかなOL達はドアが開くのと同時に我先にと会社へ急ぐ。京橋駅から終点の淀屋橋駅の間は、大手企業のOL達が次々とホームの人混みの中に消えていくのである。

京子は次の天満橋駅で地下鉄谷町線に乗り換え、谷町四丁目駅で再び乗り換えて、近鉄けいはんな線の荒本駅に向かう。そこから徒歩で十分程の所に京子が働く会社が在る。先程のOL達が通っているであろう大手企業とは違い、京子の勤める会社は従業員が四十名余りの小さな会社ではあるが、東大阪市一帯はそうした会社が犇めき合いながら、大阪の経済の屋台骨の一端を担っている。

坂下京子と書かれたタイムカードをラックから取り出し、レコーダーへ通すと、「ギジギジギジ」という耳障りな印字音が仕事の始まりを告げる。そして、デスクに向かい、深い溜め息と共にデスクの上のノートパソコンを開く。『あーあ、始めるか』と、心の中で囁き、表計算ソフトを立ち上げる。月曜日は憂鬱で仕方がないが金曜日はまだましだ。しかも、明日は旅行であるから、その事を考えるだけで救われる気分になれた。

経理を担当している京子は、この経理の仕事が好きであった。無心で機械の如く数字を打ち込んでいると、あっという間に時間が経過し、一日という時間を短く感じる事ができたからだ。人間の感覚というものは大したもので、どんなに無心でパソコンと向き合っていても、『そろそろお昼休みかな?』と、目の前の壁に掛けられた時計を確認すると、時計は必ず昼を告げようとしている。京子はそれを一人遊びのようにして楽しんでいる。

京子がいつものように目の前の壁にふと目をやると、時計の針は十一時五十分を少し回ったところだった。『うわっ、まだ十分前だ』と、少し損をした気分を味わっていると背後から京子を呼ぶ声が聞こえて来た。

「坂下君、君の実家は京都だったよね?」

突然の社長の質問に一瞬戸惑ったが、何を今更と思いつつ答えた。

「はい。そうですが・・・」

社長は右手の中指で必死にマウスを動かしている。

「私の実家は信州なんだけど、小さな町でねぇ・・・。観光資源も乏しいし、若い人は次々と都会へ出て行って、住んでるのは年寄りばかりだよ・・・。」

「坂下君ちょっといい?」社長が手招きをしている。

京子は、『もう何?面倒臭いなぁ』と、心の中で呟きながらも社長のデスクに歩み寄って行った。

「はい。何ですか?」京子は眉を顰めたままデスクの脇に立った。

「ねぇ、これ見てよ。」

社長は自分のパソコン画面を京子に見せようと向きを変えた。京子は全く興味がなかったが、社長の言われるがまま画面を覗き込んだ。そこにはどこかの商店街らしき画像があった。人通りもなく、車が行き交う様子も写し出されておらず、ただ時間が止まっているような殺風景な写真で、多くの店舗はシャッターが閉ざされている。都市部でさえ郊外に次々と建設される大型ショッピングモールの台頭で、閉店を余儀なくされる小売店が後を絶たない。ましてや、信州の小さな町であれば尚更である。

「これが私の故郷の現状。昔は人口もそれなりに多くて、活気のある商店街だったんだよなぁ」と、ぼやきながら両手を頭の上で組み椅子の背もたれにもたれ掛かり、どこか遠くを眺めているようでもあったし、昔の活気ある商店街の映像を現実のものとして眺めているようでもあった。京子はそんな社長を尻目に商店街の写真を眺めていた。すると、そこに一軒だけシャッターが閉ざされず、営業していると思われる店舗が在った。ただ、写真では何を販売しているのか、店の名前も確認する事ができなかった。

「社長、この店は営業しているようですが、何を売っているのですか?」と、尋ねると、社長は眼鏡の奥の細い目をより一層細くさせ、顔を画面に近付けるようにした。

「んー、恐らく・・・竹山洋品店かな?」と、自信なさげに答えた。

「勿論、坂下君が切るような服は売ってないと思うよ。」と、開いているか分からない目の尻を下げ冗談混じりで言ったが、京子は「そうですね。」と、真顔で答えるだけだった。

間もなく、昼休みを知らせるチャイムがスピーカーから流れ、周りの社員達は食堂へ向かうため席を立って行った。

「所で坂下君、今夜空いてたら飲みにでも行かんか?」と、社長に誘われたが、「すみません。明日予定があって朝早いので・・・」と、社長の誘いを断った。元々京子は社内の飲み会に参加する事が少なく、年に一回の忘年会と、新入社員の歓迎会に顔を出す程度だったため、社長も断られる事を分かっていながら挨拶代わりに声を掛けただけである。

昼休みに、京子はスマートフォンを取り出し、先程の竹山洋品店の事を調べてみたが、小さな町の洋品店がホームページやSNSを利用している筈もなく、何の情報も得られなかった。明日旅行する予定の経路には社長の故郷が在り、自分のブログのネタになるのでは、との考えから興味本意で調べたものの、帰宅する頃にはすっかり忘れてしまっていた。

帰宅した京子は明日に備え早めにベッドに入ったが、興奮で中々寝付く事ができなかった。


翌朝、セットしておいた目覚まし時計が時間通りに鳴り響き、京子はベッドから起き上がった。カーテン越しに感じる外の様子はまだ夜が明けきっておらず、暗闇に包まれているようだった。

今回の旅行は、京都から新幹線に乗り、愛知県の豊橋駅で降り、そこから飯田線を使って飯田市まで行き、昼神温泉郷で一泊する予定である。その他の事は何も決まっていない気ままな一人旅である。豊橋駅発の特急は午前と午後の各一本しかなく、午前十時八分発の特急を逃すと次の特急は十八時台になってしまう。

アパートを出たのは六時半を少し回った頃だった。土曜日の早朝だけあって辺りは静けさに包まれ、自分の歩く足音と、鳥の囀りだけが静寂の中に鳴り響き、特別な時間の始まりを感じ興奮を覚える。誰にも邪魔される事のないこの一瞬を楽しみながら駅へと向かった。

京阪電車で東福寺駅へ向かい、JRに乗り換え、京都駅発七時四十六分のこだま号に乗り込んだ。途中、車内から望む伊吹山の山頂は雪を冠しておらず、澄んだ空気と青空の中で暁光に照らされ、その稜線がくっきりと浮かび上がっていた。

豊橋駅へ到着するまでの間、京子は旅行雑誌を開き、ワクワクしながら今日の予定を頭の中で巡らせていた。

飯田市は信州の南に位置しているとはいえ、一月のこの時期は雪が心配であり、南アルプスや、高原などを楽しむ事はできないが、苺狩りや、この時期ならではの炬燵を備えた舟で天竜川を下る舟下り、温泉なども多く、楽しむ要素は十分にあった。又、水引工芸が盛んで、国内生産の七十パーセントを占めているらしく、その繊細で美しい作品を観るのも楽しみだった。頭の中であれこれ予定を組み立てていると時間はあっという間に過ぎ去った。

豊橋駅に到着し、特急ワイドビュー伊那路号に乗り込んだのだが、指定席車両に乗り込んだのは京子ただ一人だった。伊那路号は、自由席車両二両に指定席車両一両の三両編成の特急だが、その二両の自由席車両にも数名しか乗客は見当たらなかった。右手の時計を見ると出発まで四十分以上あったため、ホームの売店で弁当と飲み物を買い、再び車内へと戻ったのだが相変わらず乗客の姿はまばらだった。飯田線は山間部を貫く秘境駅の多い路線で知られており、この時期でも鉄道ファンや、観光客で混み合うと思っていた京子は拍子抜けし、『何だ、こんなんだったら指定席取らなくても良かったな・・・』と、少し損をした気分になった。そうこうしていると車内に車掌の声が響き渡り、漸く列車が動き出した。

列車が進むにつれ車窓から望む景色は次第に濃い緑に包まれるようになり、山々が目の前に迫ってくるように思われた。美しい流れを抱く清流や、その水面に写し出される透き通るような青い空が京子の心を自然と癒していった。決して主張する事のないその景色と、自分の生き方を重ね合わせる事によって生きている実感を取り戻す。京子にとって大切な時間がそこには流れている。そこには非日常が存在しているのだった。

列車はその非日常の中を揺ったりと進んで行き、駅に停車する度に乗客は一人、又一人と列車を後にして行く。水窪駅に到着すると乗客は京子ただ一人となった。『こんな事もあるんだ』と、少し不思議に思ったが、一月も三週目ともなると帰省する人がいる訳でもないしと思い、妙に自分で納得していた。

水窪駅を過ぎると飯田線はトンネルが連続し、暫く景色を楽しむ事ができない。京子はぼんやりと景色を眺めるような姿勢で、無意識に窓に写る自分の顔を見つめていた。普段から鏡をみる時間は長い方ではないが、次から次にトンネルが作り出す闇が必然に京子を写し出す時間を長いものにしていた。京子は写し出される自分と対話するようにじっと見詰めていた。その窓に映し出される冴えない自分の顔、少し口角を上げて表情を緩めても決して明るい表情に見えないその顔に、いつもの現実の世界に引き戻されるような不安を感じるのだった。

秘境駅として有名な小和田駅を通過し、暫くすると列車は信州へと入って行く。空を見上げると、先程までの透き通るような青い空が嘘のように厚い雲に覆われ、今にも雨が降り出してくるのではと思う程であった。

列車は信州へ入って四つ目の駅である平岡駅に到着したが、誰一人として乗車する事なくそのまま発車した。たった一人の車内で車掌の次の駅を知らせるアナウンスが虚しく響いた。

「次の停車駅は温田、温田」

平岡駅を過ぎても、列車はトンネルに景色を遮られながら天竜川に沿って走り続ける。トンネルの合間で時折見せる天竜川の表情は穏やかだが、まるで絵の具を溶いたような混濁した青碧の色と、重たい空の色が混じり合い、鈍く光る鏡面のようであった。再び車内にアナウンスが流れる。

「間もなく温田、温田。お出口は右側です。」と同時に、京子は突然空気が変わったのを肌で感じた。それはぞくぞくとするような感覚ではなく、全身の産毛で爽やかな柔らかい風を感じたようだった。その時、ふと昨日の社長とのやり取りを思い出した。『確か社長の実家は次の温田駅が最寄り駅の筈だったわね・・・』そう頭に浮かぶと、京子は網棚の荷物とコートを取ろうと立ち上がっていた。


二時間余りを車内で過ごした京子の身体を冷たい空気が一気に包み込んだ。無人の駅舎を抜けると殺風景な風景が現れ、駅舎の脇のスペースには一台のタクシーが客待ちで停まっていた。運転手はチラッとこちらを見たが、直ぐに読んでいた新聞に視線を戻した。京子はその運転手に商店街の事を聞こうとスマートフォンをバッグから取り出し、保存しておいた画像を準備してタクシーに近付いて行った。

「すみません。」

運転手の窓越しに軽く会釈しながら声を掛けた。運転手はハッとして少し慌てた様子で二度三度窓の開閉スイッチを押し間違えたが、窓はスーっと下がり出した。窓が下がりきる前に京子は尋ねた。

「すみません。この写真の商店街に行きたいのですが・・・。」と、スマートフォンの画像を運転手に見せた。七十代と思しきその運転手は、少し頭を左に傾けながら画像を覗き込んだ。

「ああ、阿南町商店街だなぁ。」

「ここから遠いのですか?」

「いいや。あの橋を渡ったら直ぐだわ。」と、橋の方向を指差した。

京子がその方向を見ると、巨大な塔からワイヤーが幾つも伸びた橋が見えた。それは列者の車窓からも見えた橋である。

「橋を渡って左に曲がったら直ぐだに。」

「そうですか。有難うございます。」京子は橋に向かって歩き出した。歩きながら、先程の運転手の「直ぐだに」と言うこの地方の訛りを思い出しクスリと笑みを浮かべた。

五分程歩いただろうか、目の前にその橋は巨大な姿を現した。南宮大橋と刻まれたプレートを確認しつつ、高く聳える主塔に圧倒されながら思った。『ガリバーみたい』

幼少期に読んだガリバー旅行記のガリバー

を連想させる程巨大だった。遠くから橋を望んだ時は、斜張橋という形から楽器のハープのようだと感じたが、主塔に近付くにつれ今にもそのガリバーが動き出すかのようだった。主塔の真下に差し掛かると、それが厚く垂れ込める雲と重なり、どこまでも伸びて行くような錯覚に陥った。

橋を渡りきった所でチラチラと雪が舞い落ち始めた。冷たい空気に触れていた頬に、追い討ちをかけるように雪が触れ、京子の頬は赤味を増していく。正面に病院らしき大きな建物が見え、その手前の道を左に折れ、商店街へ続くであろう道を進んだ。

スマートフォンを片手に進むと、程なくして商店街である事を示すアーチ状の看板が道を横切るようにして設置されていた。いつ頃設置されたものか定かではないが、長年風雨に晒され錆び付いており、文字は全く判読できない。僅かに残る文字の痕跡でここが阿南町商店街である事が分かった。商店街をさらに先へ進むとスマートフォンの画像と同じ光景がそこに在った。歩いている人もいなければ、車が通る気配もない。この場所だけが時を刻むのを忘れているかのようだった。そして、その一角に竹山洋品店はひっそりと佇んでいた。京子は何かに導かれるように歩を進め、店の入り口でピタリと足を止めた。先程から降り出した雪は舞い落ちる木の葉のような大きさに代わり、あっという間に水墨画の世界へと変化させ、京子の足跡をくっきりと浮かび上がらせていた。


入り口の右側にはショーウィンドウがあり、二体のマネキンが何も身に付ける事なく立っている。しかも、その表面は茶色に変色し、所々塗装も剥げかけていた。入り口の扉は内側を深緋色のベルベットの布が覆い、簡単には中の様子を窺う事ができない。しかし、僅かな隙間から灯りが洩れ出しており、営業中であるらしい事は分かった。京子はその扉を開けるかどうか躊躇したが、意を決して扉のノブに手を掛けた。緊張で手が汗ばんでいたがそのままノブを左に回し、内側に向かって力を加えた。すると扉が、「ギギッ、ギー」と音をたてゆっくりと開き、中から麝香の香りが漂って来て京子の鼻を擽った。

「すみませーん。」、「すみませーん。」全く反応がない。

「すみませーん。」、「・・・・・・。」

店内は小ぢんまりとしており、入り口正面にレジカウンターが在り、右手の壁際にハンガーで洋服が掛けられており、その左隅に試着室、手前の丸いテーブルにはアクセサリーなど小物類が不規則に並べられていた。麝香の香りが店内を漂っているが、何処からその香りが発せられているのかは分からなかった。入り口に立ち尽くし暫く店内を見回していたが、店主が現れる様子はなかった。店内は八帖程の広さで、店の外観からは想像できない洒落た造りをしており、陳列された商品も決して田舎の主婦層をターゲットにした地味なものではなかったので、竹山洋品店という店名とのギャップを感じた。京子は少し気後れしたが、好奇心がそれに勝り商品に手を伸ばしていた。

「社長は知らないで私の着るような服は売ってない、なんて言ってたけど全然大丈夫なんだけど・・・。」と、独り言を呟きながら商品を一つ一つ手に取り、「これは私にはちょっと派手かな?」、「こっちは少し丈が短いかな?」と、自分に似合いそうな洋服を物色していた。

自分のためだけにオープンしている、自分だけのセレクトショップ。京子は勝手に仮想しながら満ち足りた時間を楽しんでいた。

そんな中、ハンガーに掛けられた薄桜色のコートが目に留まった。決して派手ではなく、かと言って地味な印象でもないその薄桜色は、京子が好きな色の一つである。そのコートを手に取り、直ぐ隣の試着室の姿見の前に立ち、コートを身体の前に当て、ポーズを取りながら、「素敵なコートだわ。春先に着るのに丁度良いかも。」と、鏡に写る自分に酔いしれていた。

その時である。突然入り口の扉が開く音がした。

「ギギッ、ギー」京子はハッとして、手にしていたコートを落としそうになり、と同時に入り口の方を振り向いた。そこには五十歳前後の女性が立っており、京子を一瞥すると、「いらっしゃいませ。」と、一言を発し、レジカウンター内の小さな丸椅子に腰掛けた。店内に居た見知らぬ客に特別驚いた様子もなく、ごく自然にその椅子に腰掛けたように見えた。

「すみません。お邪魔してまてして・・・。」

「ああ、良いのよ。ちょっとご近所でお茶をご馳走になってたのよ。」

「あなたのような若いお客さんは珍しくないのよ。皆さん不思議と遠くから見えるの。でも、お気に召すものがあるか分からないけどゆっくり見ていってちょうだい。」そう店主から言われ、漸くホッとして肩の力を抜く事ができた。店主の言葉にはこの地方の訛りはなく関東弁のようだった。

「有難うございます。あのぉ・・・、素敵なお店ですね。」京子は無難な言葉を選んで会話のきっかけ作ろうと思った。

「そう?ーーー有難う。でもこんな田舎の店でしょ、幅広い年齢層に売れる店じゃないから結構大変なのよ。」

『確かにそうだろうな』と、京子は思ったが、素敵な店と思ったのは事実であった。

「この町には若い方はいらっしゃらないのですか?」

「そうね。数えられる位しかいないわね」店主は空を見上げるよう遠くを見詰め答えた。その目には何が見えているのだろうかと京子は思った。

「ところでお嬢さんはどちらからお見えになったの?」

「大阪の枚方からです。ご存知ですか?」店主は少し考えてから胸の前で両手を大きく鳴らした。

「あぁそうだ。菊人形の街ね。」

京子は菊人形の街と聞いて最初はピンとこなかった。何故なら菊人形展は現在開催されておらず、その存在をすっかり忘れていたからだが、小学校の遠足でひらかたパークの菊人形展を見に行った記憶が甦ったのだ。

「はい。そうです。よくご存知ですね。」京子は二人の間に共感できる話題が生まれた事に少し声を弾ませた。

「随分と遠くからいらしたのね。でも、どうしてこんな寂れた町にいらしたの?」店主は訝しげに尋ねてきた。

「実は私の勤務先の上司がこちらの町の出身らしいのですが、たまたまこちらの商店街の写真を目にしまして・・・。」

「店はどこも閉店しているようだったのですが、唯一こちらのお店が開いているようでしたので、どんな洋服が売っているのか気になって・・・。」京子は、この寂れた商店街で唯一開いている店の店主がどんな人間で、どうして営業を続けられているのか興味本位で店を覗いてみたかった、という事を決して悟られまいと、店主の顔色を窺いながら話した。

「あら、そうだったの。で、その洋服はお気に召したかしら?」

京子は緊張のあまり、手にしていた薄桜色のコートを両手でずっと抱えている事を忘れていた。いや、何かに縋りたい気持ちで、そのコートが唯一の拠り所であるかのように必死に抱き続けていたのかもしれない。

「あっ、は、はい。」

少し逡巡しながら、『確かに素敵だけど・・・、値札も見てないし、高かったらどうしよう』そうした不安が大きかった。

「良かったらそこの試着室で着てみたら。」矢継ぎ早の店主の一言で京子は完全に背中を押されてしまった。

京子は再び試着室の前に立ち、履いていたパンプスを脱ぎ、向きを変え屈んでからパンプスを揃え、カーテンを閉めた。

値札を確認すると、二万円でお釣りが出る程度の価格だったので胸を撫で下ろした。先程まで自分の姿を映していた姿見の方へ視線を向けようとした瞬間、妙な感覚が襲った。その感覚は、試着室の前で自分の姿を写していた時には全く感じ得なかったものだった。試着室に足を踏み入れて初めて気付いたのだが、試着室内に姿見が正面と左側に一枚ずつ、右側には丁度顔の高さに、いつの時代の物か分からない古びた小さな鏡が一枚、三枚もの鏡が取り囲むようにして据え付けられていたのだ。

『こんなに鏡が必要なの?』と、疑問を抱いたが、恐らく店主が慮ってした事だろうと思い、深くは考えを巡らそうとはしなかった。コートの袖に両腕を通し、肩まですっと迫り上げ、正面の姿見に自分の姿を写した。着丈も丁度良く、明るく春めいた色に心が踊るようだった。左側の鏡にも京子の姿が写し出され、正面、左側と、身体をあちらこちらへ回転させる事なくその姿を確認する事ができた。『そうか。この方が自分の後ろ姿も確認できるし、良いかも・・・』と思った。左側の姿見に自分の姿を写し視線を上げると、姿見の中に右側の古びた小さな鏡が写り込んでいた。その様は、まるで万華鏡を覗いているかのようだった。京子自信が万華鏡の中の小さな欠片となってくるくると踊っている。そんな不思議な感覚の世界に足を踏み入れたのだと思った。その中で、何故か違和感を感じるのだ。誰もいないその小さな空間の中で、自分以外の気配のようなものを感じるのである。店主の気配ではない。誰かに覗かれている訳でもない。その感覚は、決して万華鏡の中の空想の作り出したものでない事を京子ははっきりと感じ取っている。背中に冷たいものが流れた。その違和感は姿見に写り込んだ古びた小さな鏡から発せられていると確信したのだが、その鏡を直視する事ができず、恐る恐る姿見に写る古びた小さな鏡を目を凝らして覗き込んだ。その永遠に続くであろう自分の姿の中に、明らかに自分ではない姿がある事に気付いた。姿形は自分ではあるのだが、いや、それすら確信は持てないが、同じコートを纏った鏡の中のそれは京子とは違い、美しい輝きを放ち、美麗な表情を浮かべていた。

「えっ・・・・。」声にならない声が京子の口から洩れ出し一瞬たじろいだ。しかし、鏡の中のそれは微動だにせず、穏やかにただ京子を見詰めているだけだった。何故か京子は鏡の中のそれが魑魅魍魎、ましてや魔女などの類いではない気がした。いや、今自分が目にしているその女が、現実の世界のものなのかも分からなかった。ただ、京子が感じているのが、今は恐怖という感情でない事は明らかだった。京子は吸い込まれるように鏡へ近付いた。

『あなたは一体誰なの?・・・。』京子は心の中でそう問い掛けた。女の穏やかな表情な変わらない。

『誰?誰なの?どうしてそこにいるの?』

『私は私。でも・・・あなたでもあるの。』

京子ははっきりとその言葉を聞き取った。ただ、それは声を通して耳から聞こえた訳ではなく、心の奥の鼓膜が振動してそう聞き取ったのである。しかし、『あなたでもあるの』という言葉の意味を理解できないでいた。

『私は、あなたの心の中に棲むもう一人のあなたなのよ。』再び心の奥の鼓膜が反応し、振動と共に京子の脳に言葉として伝わって来た。静かに、心地好いオルゴールの音色のように。

『私は知っているわ。あなたがこうして旅をしている理由。そして、その旅を終わらせたいと思っている事も。』

『どうして?どうして分かるの?私は私だけの時間、私だけの空間を楽しんでいるだけよ。』と、心の中で言い放った。

『何故なら、私はあなたがこの世に生を受けた時から一緒なのよ。だからあなたが考えている事は全てお見通しなのよ。』

『あなたが自分に自信を失って、常に現実から逃れようとしている。その現実から逃避するためにこうして旅をしている。私がこうしてあなたの前に現れたのは、あなたに自信を取り戻して欲しいからよ。あなたはこの旅を終わらせたいと思っている。それは言い変えれば、自信を持ってこの先の人生を歩みたいと言う気持ちがあるからでしょ?だから私は今あなたの目の前にいるの。』

『容姿で人の価値が決められる訳じゃないわ。世の中にはそうした物差しでしか価値を決められない浅はかな人間もいるかも知れない。その人に本質を見抜く力がないから仕方がないのだけれど。でも、この鏡に写る私を見て。私はあなた自信なのよ。あなたの本当の姿をこの鏡は写し出しているのよ。』

京子は何も言えずに、ただ茫然と鏡の前に立ち尽くしている。心地好いオルゴールの音色と共に。

『旅を終わらせたいでしょ?でも、それを決められるのはあなた自信よ。』

京子は瞼を重ね合わせ、今までの人生の一齣一齣を走馬灯のように思い出しながら、何かにつけ逃げ出して来たその人生を振り返り、変わらなきゃ、変わらなきゃと思いつつも、その一歩を踏み出せなかった自分を悔いていた。

『変わらなきゃ、変わらなきゃ、変わらなきゃ!』

重ね合わされた瞼から一筋の雫が流れ、その雫は美しい蝶の翅のようにひらひらと舞い落ちた。

京子は心に誓った。

『今日で旅を終わりにしよう!』

京子は両手を力強く握り締めた。

「ありがとう私・・・。」京子がそう言って鏡を見ると、いつもの京子の姿が写し出されていた。しかし、京子はそこに今までとは違う自分を見ていた。

『ありがとう』心の中でもう一度呟いた。


「どうですか?お気に召しましたか?」試着室のカーテン越しに店主の声が響いた。

「はい。」京子は嬉々としてカーテンを開けた。

「あらー素敵。とってもお似合いよ。」

「有難うございます。これ頂きます。」京子は満面の笑みで応えた。

「気に入って貰えて嬉しいわ。」店主は意味ありげな含み笑いを浮かべていた。

一体どれ位の時間をこの店で過ごしていたのだろうか。雪はすっかり上がり、午前中に見た透き通るような青空が広がり、春めいた日の光が先程まで降り積もっていた雪をすっかり解かし、京子が歩いて来た足跡も既に消え去っていた。

「よし!」京子の新たな一歩が始まった。


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