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『引きこもり推理作家・鬼頭宗一郎の事件録』

『肖像画の慟哭』

作者: 国見秋人

久方ぶりの投稿です。




一ツ橋2丁目のはずれ、うっそうと茂る雑木林の中に建つその邸宅に先生と私が訪れたのは午後2時を回った頃だった。

歴史を感じさせる重厚な黒煉瓦造りの外観と広大な敷地(500坪はあるだろうか)をぐるりと囲むように鉄製の柵が高くそびえ立っている。その頂辺は恐ろしいほど鋭く、まるで研ぎ澄まされた刃のようだ。

絶海の孤島。監獄。城砦。

そんな言葉が次々と私の脳内に浮かび上がる。柵の内側に植えられた樹木が暗幕の役割を果たしているせいで余計に陰鬱なイメージが強まってしまうのだ。

少し歩けば北の丸公園、科学技術館、国立現代美術館、皇居など賑やかで活気に溢れた人気スポットへ行けるだけあってこの一角は特に異様な雰囲気を放っていた。

「被害者はこの邸宅の主人である神ノ木塔子かみのきとうこさんの一人娘、神ノ木真里亞かみのきまりあさん、21歳。クロッカス女子美術大学の3年生でした。死斑の状況からみて死亡推定時刻は午前10時30分から午前11時の間と思われます。遺体発見時刻は午前11時15分で1階にあるこの自室で亡くなっていました。死亡して間もなかったようですね」

所々白髪が混じった顎鬚をさすりながら神田警察署捜査一課の石動いするぎ警部補は手帳に目を走らせた。遺体は既に運び出されていたが人の形をしたロープ付近のカーペットとドアに向かって伸びた血痕がべったりと染み込んでいる。助けを呼ぼうとしたのだろうか?先生とともにこういった光景を何度も見てきたがやはり気が滅入ってしまう。

「この血の量だと犯人は返り血を浴びたんじゃないですかね?」

「そう思ってここに到着してすぐに関係者全員の衣服と靴を精査したがなにも出なかったよ、残念ながらね」

そこまで犯人は馬鹿じゃないってことか。

「神ノ木塔子、どこかで聞いたことあるな。政治家だったか?」

いつものようにお徳用のラテックス手袋をはめ、部屋を彷徨いていた先生が呟いた。最初に断っておくが彼は警官でも鑑識でもない、推理作家だ。鬼頭宗一郎きとうそういちろう、35歳。警視庁捜査一課の警部である義姉から『相談役』と称してたびたび事件の捜査依頼を受けることがあり、その推理力が評され噂を聞いた他の警察署からも今回のようにお声がかかるのだ。本来、出不精で面倒臭がり屋な彼は断固として拒否をするがそこは助手である私が(名ばかりだが)うまく言いくるめて出動させている。勿論、本職に支障が出ない程度でだ。

「政治家じゃなくて肖像画を専門に描く肖像画家ですよ。確か類稀なる才能により齢42歳にしていくつもの賞を総なめしてきた実力派女流画家で気位とプライドが非常に高く妥協を一切許さない、俗にいう『完璧主義者』だそうです。それだけに自分なりの最高峰、理想を常に追い求め締め切りや依頼人の意向など全く意に介さずあくまで自分が納得する状態に仕上げるまでアトリエにこもってしまう困った癖をお持ちなんだとか。まぁそれでもいまだ絶大な人気を誇っているのはやはり神ノ木さんの描く絵画が非常に魅力的且つ蠱惑的だからなんでしょうね。一番の特徴はその大半が自分のお嬢さん、つまり真里亞さんをモデルに描かれているところです。それこそ新生児期から今現在に至るまで。なんだか手描きの成長記録みたいですね。いまじゃ神ノ木さんは『美術界の重鎮』とまで呼ばれていますし、学校の美術室にも何点か飾られているんですよ」

ぼさぼさの髪を掻きながら「ふぅん娘を、ね。随分と奇特なお方なこった。まぁ同じ創作者として『自分の理想を追い求め締め切り』云々かんぬんのところだけは共感できるがな」

「よく言いますよ、先生のはただのサボり魔なだけでしょうが」

その都度担当編集者に締め切りを延ばしてくれるよう懇願しているのは誰だと思っているんだ。もっともらしいことを言わないでもらいたい。

苦虫を噛み潰した顔になった先生を見てしめしめこの際だからもっと言ってやろうと考えたが、やめた。事件の捜査が残っているのに彼のご機嫌を損なうのは些かいただけないからだ。

「死因は判明しているんですか?」

私の言葉に警部補が頷く。

「凶器は胸部に刺さっていたペーパーナイフで死因は出血性ショックによる失血死。ほぼ即死の状態だった。解剖の結果が出るまで詳しくは分からないが刺傷が胸部の他に背中にも1ヶ所あったことから被害者はまず背中を刺されたあと胸部にとどめの一撃を受けたと考えられる」

「真里亞さんはそんなむごい殺され方をされるほど敵が多い方だったんですか?」

「いやいや、むしろその逆さ。大層良くできたお嬢さんで、友人も教師諸氏もみな口を揃えて『優しくて明るくて思いやりのある優等生』と答えているんだよ。実際調べてみると敵どころか殺意を抱くほど恨んでいる人物も見つからない、今どき珍しい温柔敦厚おんじゅうとんこうな女性だった。どうやら怨恨の線は薄そうだね」

そう言いながら石動警部補は生前の写真を見せてくれた。友人たちの真ん中で溢れんばかりの笑顔を浮かべたロングヘアーの女性がそうだ。すっと鼻筋が通った顔立ちは幼さを残しながらも上品で色っぽく、誰が見ても美人と評するだろう。こんな女性が亡くなるなんて、全く世も末である。

「第一発見者はその高名な画家先生か?」

黒縁眼鏡をネクタイで拭きながら皮肉めいた口調で質問をする。警部補はかぶりを振った。

「いえ、真里亞さんの恋人と神ノ木さんのマネージャーの2人です。恋人の名前は安斉正孝あんざいまさたかさん、25歳、職業は世界を飛び回る冒険写真家。マネージャーの方は刈谷純一かりやじゅんいちさん、年齢は47歳です」

「冒険写真家?」

普段聞きなれない単語につい口をはさんでしまったが石動警部補が「そうだよ」と丁寧に答えてくれた。

「若いながらも写真の腕前が達者でその筋では有名らしい。世界の絶景、自然、野性動物なんかを中心に写真集も発売していて雑誌では『イケメン冒険写真家』として取り上げられていて特に女性ファンから厚い支持を受けているそうだ」

まぁ私にはよく分からないが、と現場主義のベテラン警部補が最後にぼやいた。激しく同意である。(別にひがんでいるわけではない)

「凶器には咄嗟に握ったであろう被害者の指紋しか検出されませんでしたが、調べたところ凶器に使われたそのペーパーナイフは安斉さんの私物だと判明したんです。数日前に真里亞さんと激しい口論をしていたと彼の行きつけである喫茶店の店主からも話がありましたしアリバイもこの邸宅に向かって歩いていたということで辺り一帯の聞き込みを強化していますがまだ有力な目撃証言を得られていません。凶器も含め警察は限りなく彼がクロではないかと疑っていますが、状況証拠だけでは殺人を立証するのは難しいですし、それに私はどうも納得いかないんです。不可解というか腑に落ちないというか…」

何が、と言いかけて口を噤む。その答えは既に分かっているからだ。

「犯行現場が密室状態にあったから、ですよね」

そう、被害者が殺されていた自室はドアにも窓にもしっかりと施錠が為されており、いずれも名刺さえ差し込めないほどに一切の隙間がなかった。ミステリーによくある秘密の抜け穴や隠し扉がないか念の為調べたが案の定発見されず、トリックの細工が施された跡も見つからなかった。

仮に安斉さんが犯人だとするならわざわざ密室に仕立てあげた犯行現場に何故戻ってきて第一発見者になったのかという疑問が残る。

推理小説において犯人が現場を密室にする理由は多々ある。遺体発見を遅らせるため、アリバイを作るため、自殺に見せかけるため等々だ。しかし今回は凶器の出処が判明しているので適用されない。

「防犯カメラは設置されてなかったんですか?」

これほど立派な邸宅なら1台や2台設けられていてもおかしくないが。

「数年前まではついていたんだが監視されているようで落ち着かないという理由で神ノ木さん本人が取り外したんだそうだ。しかしそれだとあまりにも無用心なので苦肉の策として真里亞さんから邸宅中のガラスを全て防弾ガラスに変えてほしいと依頼を受けたと、工事を担当した当時の業者から証言がとれたんだ」

せめて防犯カメラがまだ設置されていた頃だったなら捜査も進展できただろうに。残念でならない。

「現場は密室、これで遺書でもあれば自殺として処理するんですが被害者の真里亞さんには自殺する理由もなく遺体には2ヶ所の刺傷、特に背中の傷は自分では届かない深さにまで達していました。凶器に足がつく私物を使ったことも引っかかるしで、わけが分からん事件です」

そこでこの奇妙な事件を解決に導くべく抜擢されたのが我らが名探偵というわけか。石動警部補の言葉を反芻していると、ふとある仮説が私の頭を過ぎった。

「そもそもこれって本当に他殺なんですかね?」

どういうことだ、と訝しげに石動警部補が顔を向ける。

「推理小説でよくあるのが他殺に見せかける自殺ってトリックです。この場合、最初からドアと窓の鍵をかけて密室を作っておいた真里亞さんがペーパーナイフの刃先を自分の背に当て柄を床か机に固定して仰向けに倒れたんですよ。そうすれば自重で刺さりますからね。しかし死にきれなかった真里亞さんはペーパーナイフを抜き取り今度は胸へ一気にぐさーっと――――――――」

「意義あり」私の推理は先生の言葉で遮られた。

「神ノ木真里亞が安斉に罪を着せようとしたんならどうして部屋を密室にする必要があったんだ?自殺と処理されちまったら意味ねえだろうが」

「そ、それは…確かに。なら不測の事態で密室になってしまったという可能性はどうですか?」

なんとも苦しい言い訳となってしまったが思いがけず先生はふむ、と唸り黙り込んだ。あれ?もしかしなくてもいい線いっていたのか?と淡い自惚れが生まれる。

「わかった。お前の言うとおり何らかの不測の事態が生じて結果的に想定していなかった密室が出来上がったと仮定しよう。しかし解せないのは死に方だ。安斉の私物を凶器に使用するんなら背中と胸に刺す、なんて苦しいやり方はせずに最初から胸に突き刺して死んだほうが楽じゃねえか。計画的な自殺にしては杜撰すぎる。あまりにも合理的じゃない」

しかし自惚れは自惚れのまま終わった。

「それに背中に柄の部分を固定していたならカーペットや机に重さでへこんだ跡が残っているはずだろう?だがそんな跡、部屋のどこにもなかったよ」

更に石動警部補にも追撃を許し最早ぐうの音もでなかった。がくりと肩を落とした私を一瞥したあと、

「まあ本人に聞いたほうが手っ取り早いか。安斉はなんて言ってんだ?」と石動警部補に声をかける。

「自分は清廉潔白であると断固として罪を認めていません。自分ははめられたんだとも言っていましたよ」

「はめられた、ね」

楽しそうに先生が笑みを深くした。







関係者が揃うリビングは木目調が目に優しい、ウッド調の造りとなっていた。アンティークな家具・雑貨を中心に取り入れているからか日本にいながら北欧のカフェに来ている気分に浸れる。本格的な壁埋込型暖炉も絵画のようでいてとても魅力的だ。さすが、芸術家だけあってセンスがいい。

「あんたが真里亞を殺したんでしょ!?この人殺し!」

「違います神ノ木先生、私は犯人じゃ、真里亞を殺してなんかいません!信じてください!」

「し、信じるもなにも神ノ木先生の言うとおりだ。無実を主張しているようだがどうせお嬢さんをこ、殺したのは君なんだろ安斉くん」

「刈谷さん、あなたまでなんてことを!」

かなり激しい男女の言い争う声が耳に響く。落ち着いた空間であるはずのリビングには釣り合わない不協和音だ。

「皆さん落ち着いてください!」

石動警部補の鶴の一声で一瞬にして静まり返る。すごい声量だと呑気に思ってしまった。

「警部補さんお願いです、私の可愛い娘を殺したこの男を一刻も早く刑務所に叩き込んでください」

それにもめげずこちらに駆け寄ってきたのは絵の具がベッタリと付着した灰色のツナギと生成り色のエプロンを着た女性、神ノ木塔子さんだ。目元がきつく怖い印象を受けるがざっくり切られたベリーショートが若々しくとても40代には見えない。真里亞さんと並べば歳の離れた姉妹といっても誰も疑いはしないだろう。

「そ、そうです。凶器のペーパーナイフは安斉くんの私物だったんですよね?な、なら疑いようがないじゃないですか」

次いで多少吃音が目立つ喋り方をするストライプ柄のスーツを着た男性が神ノ木さんに賛同する。年齢的にこの人が刈谷淳一さんだろう。ぴしっと決めた七三分けに対し猫背と八の字に曲がった眉がいかにも薄幸そうである。

「神ノ木さん、前にも言いましたが単なる殺人事件と処理するにはまだ納得いかない点が多いんです。もう少しお付き合いください。刈谷さんもあまり神ノ木さんを煽るようなことを言わないで下さい、捜査の妨げになります」

「さ、妨げになんてそんな、私はただ…」口ごもりながら目玉をぎょろぎょろと動かす。

一方、安斉さんらしき茶髪の男性はソファーに座り頭を抱え込んでいた。ボーダーのTシャツとアンクルパンツが爽やかさを醸し出すが酷く憔悴しきったその姿は『イケメン冒険写真家』には程遠い。

「こちらは推理作家の鬼頭宗一郎先生とその手伝いをしている九重千紘ここのえちひろくん。お2人は私たち警察の相談役として捜査に協力をしていただいています。民間人だからといって邪険にせずどうか皆さんの真摯な対応をお願いします。これからお1人づつお話を伺いますのでどうか包み隠さずお答えください」

にべもなく警部補が私たちを紹介する間、私と先生は関係者からの奇異の目に晒された。それはそうだ、推理作家と男子高校生が事件の捜査に協力していますと言われて不審がらないわけがない。

「相談役、それは大いに結構です。真里亞を殺したこの男の証拠さえ押さえてくれるのなら作家でも高校生でもなんでも構いません。早く始めましょう」

急かすように神ノ木さんが石動警部補に目配せをする。その目はまるで獲物を狩る猛獣のようだ。

「ではまず安斉さんから始めましょう。他の方は隣室で待機してください」

渦中の人物を残し関係者2人は素直にリビングをあとにした。

「…どうして誰も信じてくれないんだ。俺は、俺は真里亞を殺してなんかいない!心の底から愛しているのに殺すわけないじゃないか!」

堰を切ったように声を荒げ勢いよくセンターテーブルを叩く。怒りが、というよりは誰も自分の言葉に耳を傾けない現状に悔しさを爆発させたようだ。

「おーおー随分と男前になってんじゃねえか」

推理作家はまるでピクニックに来た子供のようにルンルンとスキップしながら安斉さんの向かいのソファーにぴょんと跳ねて座った。行儀が悪い不謹慎な彼に「先生」とドスの効いた声で諭すが彼はどこ吹く風と言わんばかりに口笛まで吹き始めた。

「どうせあなたも俺が真里亞を殺したと決めつけているのでしょう?だったら、何を話しても無駄ですね」

その軽率な対応に安斉さんが警戒した眼差しを向ける。あぁほら、だから言わんこっちゃない。

「それはあんたの話を聞いてから考える。信じてもらいたいんだろ?だったら臍曲げてないで質問に洗いざらい答えるんだな。ま、どっちにしてもあんたには拒否することも黙秘することも許されない」

「横暴ですね」

私もそう思う。が、やがて安斉さんは観念したのか肩を竦め事件当時の様子を述懐じゅっかいした。





「私はワンダーエア社と契約している専属カメラマンなんですが、いつも依頼されたテーマに沿った風景、躍動感煽るる動物なんかを各国飛び回ってファインダーに収めるのが仕事です。しかし今回は、」

「スケジュール通りにいかなくなった?」

先回りするように先生が言う。

「えぇ、『新商品である自社製品のウェアを着て写真を撮ってきてくれ』というスポンサーの要望で仕事が前倒しになってしまったんです。明朝には日本を発たなければならなくなったんですが結構な滞在期間になりそうだったので真里亞に借りていた小説を返しに来たんです。向こうに着いてから『読みたい!』と言われても困りますからね」

「かなり急ですね。で、その突然の訪問は誰かに伝えましたか?」

「真里亞の携帯にこれから君の家に行くよという旨の連絡は入れましたが他には誰も、私は言っていません。結局彼女からの返信もありませんでしたし」

安斉さんの一人称がいつの間にか『俺』から『私』に戻っていることに気づく。信頼するに値すると判断されたなら良いが。

「差し支えなければ行き先を聞いてもよろしいですか?」

「ブラジルです。レンソイス・マラニャンセス国立公園やイグアス国立公園の最高の自然美、サン・ルイス歴史地区や古都オウロ・プレットのバロック様式の教会や建築物を重点的に撮る予定でした。企画物らしくて『世界遺産紀行の夢物語に浸ろう』というタイトルの写真集に仕上げるんだとか」目を逸らして「でもこんな事件が起こっては白紙に戻ったでしょうね」

先生は彼の証言を静かに見据えながらトレンチコートのポケットに入っている棒つき飴を取り出し口内に放り込んだ。これは何か考え事をするときの癖であり、面倒臭がり屋の彼がやっと本腰を入れたサインでもある。

「午前10時30分から午前11時はどこで何をしていましたか?」

「アリバイの確認ですね。なにしろ出発は明日に迫っていたので急いでスーツケースに荷物を押し込んでいましたよ。あらかた準備を終えたところで、午前10時過ぎに自宅を出て徒歩でここに向かいました。白山通りを通ってきましたが一応は顔を出して売っている身なのであまり目立たないようにしていましたし私を覚えている人はいないかもしれません」

「ここに着いた正確な時刻は?」

先生が口を挟む。

「警部補さんにも言いましたが午前11時6分頃です。腕時計で確認したので間違いありません。玄関のチャイムを鳴らすと刈谷さんが出たのであぁ、神ノ木先生はまたアトリエにこもっているんだなと思い真里亞も一緒ですかと聞くとこちらも自室にこもっているということで2人で向かいました」

「どうして刈谷さんも一緒だったんですか?」

「神ノ木先生は筆がのると自分の世界に入り込んでしまう悪癖があるんです。でも唯一その世界から引っ張り出せるのが愛娘である真里亞で、だから製作状況を聞きたいからアトリエから出てきてもらえるよう説得してもらうって言ってました。でも何度呼びかけても返事もなくドアには鍵がかかっていて開かない、困り果てましたよ。真里亞は生まれつき体が弱くよく風邪を引いていたのでもしかしたら体調が悪くて声も上げられないんじゃ、と不安に駆られました」

「そこに2階のアトリエにいた神ノ木さんが休憩のために階下に降りてきた」

安斉さんは頷く。

「事情を聞いた神ノ木先生が狼狽し救急車を呼ぼうとしたので念のため様子を見に私と刈谷さんが庭に出て窓から部屋の中を覗きに行きました。そうしたら、真里亞がまるで血の海に溺れているように、倒れていたんです」

その後2人の叫び声を聞いて駆けつけた神ノ木さんによって119番に連絡したと。事件の流れはこんな感じだ。

「本当にドアにも窓にも鍵がかかっていたんだよな」

「も、もちろんですよ。そうですよね警部補さん」

指名された警部補は自信満々に「はい」と言う。

「しっかりと鍵がかかっていたのでドアをぶち破って部屋に入ったと救急隊員から確固たる証言を得ています。間違いありません」

ほっとしたように胸を撫で下ろした安斉さんに私も質問を投げかける。

「凶器に使われたペーパーナイフはいつも持ち歩いていたんですか?それとも自宅に?」

「自宅の書斎に置いていたものだよ。私のお気に入りでね。ここのブランドは西洋の剣をモチーフに作られているのが殆どで新製品が出るとつい購入してしまうんだ。でも、2日前ぐらいかな?仕事で韓国に行っていたんだけど戻ってきたら書斎に置いていたペーパーナイフが消えていたんだ。いくら探しても見つからないし初めは泥棒に入られたと思っていたけど金目のものは全部無事だったからどうせ何処かに置いたまま失くしたんだと諦めていたんだ」

しかしその後、恋人の胸部に突き刺さった状態で見つかるとは夢にも思わなかっただろう。

「真里亞さんとあなたは数日前に喫茶店で激しい口論を交わしていたと証言があるのですが何が原因だったのか教えていただけますか?」

「それは…」たちまち安斉さんは渋面を作る。

「お恥ずかしい話ですが実は以前交際していた女性からしつこく復縁を求められているんです。私がここ数年で雑誌やテレビに取り上げられているから贅沢できるとでも思ったのかは分かりませんが、金の無心に来たのは明白でした。図々しいと断っていますがなにぶん粘着質で、そのときも携帯にひっきりなしに着信がかかってきたのが原因で公衆の面前でみっともない醜態を晒してしまいました」

「分かりました。一応その女性の名前とあなたの携帯も貸してください」

この女性と共謀し交換殺人を行った可能性もあるからか。それを知ってか知らずかもちろんです、と安斉さんは快く引き受け携帯を警部補に手渡した。

「あんたは石動警部補に『はめられたんだ』と零したそうだな。なら、その『はめた』張本人に見当はついてんのか?」

「いえ、特にこれといった確証があるわけではないのですが…。ただ、挙げるとするなら刈谷さんを調べてもらって損はないかと思います」

「それはなぜですか?」反射的に石動警部補が尋ねる。

「真里亞が前に『自信過剰というわけじゃないけど刈谷さんの私を見る目が怖い、刈谷さんとはあまり2人きりにはなりたくない』という内容の相談を受けたことがあったんです。私は神ノ木先生に進言した方がいいって言ったんですがもしかしたら自分の勘違いかもしれないし、その人の人生を狂わせてしまうのが恐ろしいと渋っていました。今は冤罪も大きな問題となっていますし現に危害を加えられたわけではありませんでしたからね。なのでなるべく自分の部屋にいるか私のところに来るか神ノ木先生の傍から離れないようにしなさいとアドバイスしたんですが」

まさかこんなことになるなんて、と神妙な面持ちで続けた。刈谷さんの一方的な想いが招いた殺人の可能性があるから調べて欲しいと、そう言いたいのだろう。信憑性に欠ける告発ではあるが貴重な情報に変わりはない。

その後いくつか質問を交わしたあと安斉さんを解放し、私たちは刈谷さんの聴取を開始した。

早速、今しがた耳にした情報が信頼たるものかどうか確認を取る。すると刈谷さんは「あ、いや、その…」と面白いほどしどろもどろになり尋常ではない量の汗をかき始めた。これではYESと言っているようなものである。いや、もしかしたら私たちを油断させるための演技かもしれない。慎重にかからねば。

「あ、安斉くんも酷いな。仕返しだからってそ、そんな根も葉もない嘘で私を犯人に仕立てあげようとするなんて」

「へえ、そこに劣情は含んでいなかったと?」

「あ、当たり前です!確かにお嬢さんはとてもお美しい方でしたし自分でも気づかないうちに見つめていたかもしれません。ですがお嬢さんに恐怖を抱かせるほどだったなんて。ましてや劣情なんて、そんな馬鹿な。か、勘違いですよ勘違い。頼みますから神ノ木先生には絶対言わないでくださいよ、私の首が飛んでしまいます」

必死に自己弁護を図るこのマネージャーに多少なりとも不快感を催す。ごく身近の女性が亡くなったというのに自分のことしか考えていないのは軽佻浮薄けいちょうふはくではないだろうか。

「午前10時30分から午前11時まであなたはここのリビングで読書をしていた、そうでしたよね」

石動警部補が間に入りアリバイの確認をする。彼は狼狽えながらも「はい」と短く答えた。

「正しくは午前9時からずっとお邪魔しています。もう少しで出来上がる神ノ木先生の新作を受け取りに来たんですよ。来月京都で行われる絵画展にも出品する予定でしたので」

「それにしては随分と早くに訪ねられたんですね。待ちくたびれたんじゃないですか?」

「そ、そりゃあもう待ちに待った神ノ木塔子先生の新作とあってはマネージャーとして完成に立ち合いたいじゃないですか。そ、それともなんですか?早く来ることに問題でもあるというのですか?」

「いえいえ滅相もない。ただマネージャーという職業は多忙なんだなと感服しただけです。お気を悪くしたのでしたら謝ります」

不愉快そうに顔を歪ませるも、のらりくらりとした警部補の返答に視線を逸らした。

「―――――では続けます。神ノ木さん母娘は仲がいいと聞きましたが刈谷さんの目からはどう映りましたか?」

少し間を置いてから「もうご存知かと思いますが神ノ木先生のご主人はお嬢さんがまだ物心つく前に不慮の事故で亡くなっていましてね。それからずっと母子家庭だったということもありかなり仲がいい母娘でしたよ。ですが、ここ数年は安斉くんとの交際と大学の進学が原因で折り合いが悪くなっていました。お嬢さんも心底困っていましたよ」

「困っていた、とは?」

石動警部補の目がぎらりと光る。

「過保護なんですよ。それも異常なほどにお嬢さんを溺愛していました。いえ、あれはもう束縛といっても過言ではないですね。一人娘ですし心配なのは理解できますが神ノ木先生のは行き過ぎていました。お嬢さんが何をするにも何処へ行くにも監視付きで、友達も神ノ木先生のお眼鏡に叶った子じゃないと話すことすら許されなかったんです。本当は美大へ入るのだって猛反対されていたのですが盛大な母娘喧嘩の末、お嬢さんが無理やり押し通したんです。そのあとの神ノ木先生の機嫌といったら…と、とても恐ろしかったんですよ」

少し前屈みになりぼそぼそと小声で話しだした。神ノ木さんに露見してしまうのがよほど嫌らしい。しかし、この言い方ではまるで―――――――――

「神ノ木塔子に娘を殺す動機があるような口ぶりだな」

私の心を見透かしたように先生も同じ疑問をぶつける。呆気にとられ目の前の推理作家を見ていた刈谷さんがガリッと砕かれた飴の音を合図に勢いよく立ち上がり否定した。

「ち、違います。私はそんなつもりで言ったわけではなくて…ただ、聞かれたことに誠意を持って答えているだけで別に神ノ木先生を売っているわけでは…」次第にもそもそと語尾が弱まり唇が白くなるほどぎゅっと結んだ。彼からはこれ以上有益な情報は得られなそうだ。

最後は真里亞さんの母親であり肖像画家の神ノ木塔子さんである。

「聴取の塩梅はいかがですか?あの男を捕まえる証拠は揃いましたか?」

神ノ木さんは先回りするように矢継ぎ早に答えた。彼女の表情には焦りと苛立ちの色が濃く出ており、とかく必死だ。石動警部補がそれとなく現状を説明すると大きく肩を落とし嘆息を漏らした。いくら凶器が安斉さんの私物だったからといってここまで彼を犯人だと信じて疑わない根拠はなんなのだろうか。

「警部補さん、あいつの紳士的な態度に騙されないでください。あいつは真里亞がいるにもかかわらず他にも女がいたのよ。そう、下劣にも二股をかけていたんです」

親指の爪を噛みながら話す。先ほど安斉さん本人から聞いた復縁を迫る女性のことだろうか?しかし彼はきっぱりと断ったと証言していた。どういうことだろうか?

「それは事実ですか?」石動警部補が慎重に問う。

「真里亞に相談を受けたんです。『正孝さんが前に付き合っていた女性とよりを戻しているみたいなの。私、捨てられたらどうしよう』って、わんわん泣きながら。あの子があんなにも取り乱すなんて滅多にないことなのでよく覚えています」

安斉さんと神ノ木さん、双方の証言には明らかな食い違いが生じた。

「事件当日は朝からアトリエで作品を仕上げていたんですよね?」

「えぇ、完成もあと僅かでしたので、自身に喝を入れるつもりで早朝7時頃からアトリエにこもっていました。今取りかかっているものは縦6m×横9mの巨大絵画で、今まで数えきれないほどに真里亞を描いてきましたがこれ以上のものはないといっていいぐらいの珠玉の作品です。出来上がったら皆さんにも見てもらいたいわ」

その言葉に私は心躍った。

「是非ともお願いします。神ノ木さんの絵は数多くの技法を駆使しているんですよね。完成が楽しみだなぁ」

「技法?」

先生の眉がぴくりと動いた。

「はい。モダンテクニックといって偶然にできた形、色を絵に利用した表現方法のことをいうんですが…ドリッピングとかスパッタリングって聞いたことあります?」

先生と警部補は同時に首を横に振った。そこに専門家の助け舟が入る。

「ドリッピングは吹き流しといって水気を多めに含んだ絵の具を画用紙に滴らせたりストローなどで息を吹きかけてそこからできる軌跡で描きます。筆についた絵の具を弾くように散らすのもこれに含まれます。スパッタリングは霧吹きといってスパッタリング用の目の細かい網に絵の具を塗りブラシで擦って画用紙に霧雨のように飛ばす描き方です。他にもフロッタージュ、マーブリング、デカルコマニー、スクラッチ、バチック、にじみたらし込みといった種類があります。私は完成図のイメージから一番合った技法を選んでそれを用いて描いているんです。たとえば淡い雰囲気のものが描きたいなと思ったらスパッタリングを、という具合に」

「それ以外にコラージュとスタンピングというのもあります」

「えぇ、私がいま描いているのもコラージュを使っています。せっかくの巨大絵画なんですもの、見た人が立ち止まり息を呑むような圧倒的な作品を作りたかったんです」

「お前、よく知ってんなそんな専門用語」

神ノ木さんの横から合いの手を入れていると推理作家から呆れた声で返された。

「成績が下がると教師に呼び出されるそんなの面倒臭い嫌だ、とどっかの誰かさんが駄々をこねるので常日頃からしっかりと勉学に励んでいるんですよ。褒めてもらいたいものですね」

「じゃあちゃんとお勉強をしているお利口な九重くんは他の2つ、コラージュとスタンピングについてもご説明していただけるんでございましょうね?」

「はいはい説明させていただきましょう。コラージュは貼り絵といって写真、新聞、雑誌などの紙媒体だけじゃなく服、紐、ボタンといった様々な素材を切り貼りして組み合わせるものをいいます。ハサミと糊で簡単にできるので小学生の頃に図工の授業で習ったんじゃないですか?あとスタンピングは型押しといって草花、野菜、果物など凹凸があるものに絵の具をつけて画用紙に押し当てた紋様で描くものです。神ノ木さんは作風が多彩なことでも有名ですからね」

「その通りよ。よく勉強しているのね偉いわ」

有名な画家である神ノ木さんが顔をほころばせ手放しで褒めるので自身でも有頂天になるのがよく分かった。が、

「褒められたからって浮かれてんじゃねえぞ九重。捜査の邪魔すんならハウスだからな。わかったか?ハ、ウ、ス、だ、ぞ」

せっかく良い気分に浸っていたのが一気に冷めていく。わざとらしく一文字一文字区切りながら犬に命令するように言う先生に隠さずむっとする。

「――――――では話を戻します。神ノ木さんはアトリエから出たりしましたか?その時に何か変な物音を聞いたり怪しい人物を目撃したとかはありませんでしたか?」

「いえ、残念ながら何も。お手洗いには何回か行きましたがいずれも数分でしたし。そのあと午前11時過ぎに喉が渇いたのでキッチンに行くために階段を下りていたら2人の声が聞こえてきたので初めてそこで真里亞の異常に気づいたんです。はじめはどうして安斉がここにいるのって驚きましたがそれどころではなくなったので」

「ちなみにそのアトリエには誰でも自由に出入りできるのか?」

「いえ、私の未発表の作品もあるので常日頃から厳重な錠前をかけています。鍵は私しか持っていません。作家である鬼頭先生ならお分かり頂けるでしょうが私たち創作者にとってアイディアは宝であり命なので当然の処置かと」

「ご尤もだ」

新たな飴を取り出しながら、先生が満足気に目を細めた。同意を得られた神ノ木さんは少しだけ気をよくしたのか「あの」と話しかける。

「言っておきますが、私が真里亞を殺すなんてありえません。娘ですもの。仮に私が犯人だったとしても殺すのでしたら真里亞を傷つけた安斉を殺しますよ。普通はそうでしょう?」

確かにそうだ。刈谷さんの証言通りいくら神ノ木母娘の仲がすこぶる悪かったとしても果たして殺害に至るまでの殺意が芽生えたかどうか甚だ疑問だ。だったら恨んでいたであろう安斉さんに危害を加える方がごく自然である。その後の質問も特にめぼしい発見もないまま聴取は終了した。

「安斉さんは刈谷さんを、刈谷さんは神ノ木さんを、神ノ木さんは安斉さんを疑っている。山手線じゃないですけど、見事にぐるっと一周しちゃいましたね」

各々、腹の中でどす黒いものを抱えているようだが犯行を裏付ける決定的な証拠も密室を解くとっかかりも見つからなかった。ふむ、ならばしかたない。下手な鉄砲も数撃てば当たるだ。

「刈谷さんなら真里亞さんを殺害したあとリビングの暖炉で証拠を燃やして処分することも可能ですよね。なにせ神ノ木さんはアトリエに一度こもったらなかなか出てこないんですから時間的にも余裕があったはずです」

「いや、残念だが暖炉で燃やした跡はなかったよ。それどころか神ノ木さんに確認したが暖炉の掃除、灰の処理が大変で部屋中に飛び散るのが嫌だからもう何年も使っていないそうだ」

だよなぁと一人納得する。隅から天井に至るまで清潔さが保たれているこのリビングでものを燃やすなんて自殺行為だ。だったら――――――

「神ノ木さんはどうですか。アトリエにいたと言ってますが誰もその姿を一部始終見ていたわけじゃありませんし真里亞さんを殺害してこっそりアトリエに戻るなんてわけないでしょう」

絶対に信じたくなどないが。

「石動警部補、アトリエも調べたんですよね」

「もちろんさ。それこそ額縁を外して画用紙の裏まで入念にね」

絵画の中に証拠を隠す、いいところを突いたと思ったが空振りだったな。なら、やっぱり安斉さんが犯人…。

そのとき石動警部補の携帯に捜査員からの連絡が入る。安斉さんにしつこく付きまとっていた女性は一昨日から友人とバリ島へ海外旅行へいっており犯行は不可能だという内容だった。その女性が犯人だと疑っていたわけではなかったが、交換殺人という線は消えたわけだ。それと同時に捜査は完全に手詰まりとなってしまった。

「関係者をこのまま拘束しておくのも限界がありますし、困りましたね」

「謎はいまだ謎のまま…。犯人の目星もつかないままですしね」

「そいつはどうだろうな」

先生はやにわに立ち上がると一直線にドアへと歩みを進めた。

「石動警部補、頼みたいことがある」

「はい、なんでしょうか?というか鬼頭先生どちらへ?」

「ちょっとそこまで」

不敵な笑みを浮かべくすのきに住む巨大な生き物が登場する有名なファンタジー映画で少女が父親に言う台詞みたいに彼は軽く答えた。


しかし、このとき既に彼は事件の真相にいち早く辿り着いていたのだ。







橙色の夕日がリビングを幻想的に染め上げるなか、死人のように青白い顔の関係者が集められた。真里亞さんの訃報ふほうに加え長時間の調書に付き合っていたのだ。皆、疲弊するのも無理はない。

「急に呼び出して一体どうしたんですか?」

「もしかして何か分かったのかしら?」

刈谷さんと神ノ木さんが其々不安そうに口を開いた。

「なに、ちょっとした気分転換と洒落こもうかと思ってな。小難しいことばっか聞かれて疲れてるだろ。これから俺が独り言をいうから小休憩がてら聞いていかないか?そうだな――――――この事件についての俺の見解について、とかどうよ」

関係者の周りの空気がピンと張り詰めた。彼の一挙一動を見逃さないように一同が食い入るように見つめる。

先生は飴を咥えてから、確信を持った声で私たちに真相を告げた。

「結論から言おう。神ノ木真里亞は、自殺だったんだ」

この発言は肖像画家の機嫌を大いに損ねた。

「はぁ?そんなわけないじゃない。真里亞が、真里亞が自殺なんて、そんなこと絶対にありえないわ!」

声を震わせ反論する。私たちも信じられず狼狽するが当の本人は至って涼しい顔のまま話を続けた。

「まぁ落ち着けって。あくまで結果の話だ。この事件は最初、れっきとした殺人事件だったんだよ」

「どういうことですか?」

納得がいかない様子で安斉さんが聞く。

「もともとは安斉、あんたに罪を着せるために犯人が起こした事件だったんだ。だからあんたの私物であるペーパーナイフが凶器に使用された。聴取であんたが言ったとおり、はめられたんだよ」

安斉さんは突きつけられた事実に口元を覆いその場でよろめいた。慌てて石動警部補が支えに入ったので倒れることは免れたが、そのやり取りを冷たい目で蔑むように神ノ木さんが眺める。

「酷いわ。私か刈谷のどっちかが真里亞を殺したとそう言いたいわけ?この男がわざと自分に疑いがかかるようにして、それを鬼頭先生に解かせ無実を主張しているのかもしれないじゃない」

「そ、それに密室は?安斉くんに罪を着せるためっていうのなら犯人は部屋を密室にする必要はなかったわけですよね?あ、あなたの言っていることはめちゃくちゃだ」

抗議する2人に推理作家は毅然とした態度で立ち向かう。

「犯人はそんなことしちゃいない。というか密室にするつもりなんてはなから考えちゃいなかった。実にシンプルな殺人事件になるはずだったんだが思わぬ妨害が入り計画通りにことが運ばなくなった」

「思わぬ妨害?」

「ある意味じゃ事故だな。だが動物や機械的なものでかけられたわけじゃない。正真正銘、生きた人間の手によってあのドアの鍵はかけられたんだ」

「一体誰が?犯人以外の誰があの部屋を密室にできたんですか?」

急かすように神ノ木さんが尋ねる。

「そんなの1人しかいない。殺された神ノ木真里亞本人だ」

「…犯人の追撃から逃れるために鍵をかけたってことですか?」

石動警部補がおそるおそる尋ねる。

「それはないだろう。仮に追撃から身を守るためにドアを閉めたとしたら胸の傷と不合する。鑑識の結果ではほぼ即死だったじゃないか」

「えと、つまりはどういうことですか?」

先生の言わんとしていることが理解できず私は困惑した。彼の眼には一体何が見えているのだろう?

「鍵は、違う理由でかけられたんだ」

「違う理由?」

「背中を刺された被害者はまだ辛うじて息があった、しかし犯人は生死を確認せずにすぐその場を立ち去ったんだろう。その隙に持てる力を振り絞り這いずりながらも彼女はドアを閉め鍵をかけることに成功した。そして背中の凶器を抜き取り自分自身の心臓に突き立て『自分は殺されたのではなく自殺した』と偽装しようとしたんだ」

すぐに安斉さんが異議を唱える。

「な、何を言って…真里亞がどうしてそんなことをする必要があったんですか?」

「自分を刺した犯人を人殺しにしないためだ」

私は目を丸くした。

「…真里亞さんは犯人をかばって、敢えて自殺したというんですか?」

全く予想だにしない推論だが、彼は肯定するように目顔で言う。

「自分を刺した凶器がまさか恋人のペーパーナイフだとはその時はさすがに気づけなかっただろうがな。しかし、そう考えると全てに説明がつくんだ」

「そんなものつかないわよ!」

ふーふーと荒々しい声で吠える神ノ木さんに私たちは思わず肩を震わせ驚倒した。ただ1人、先生だけは彼女のその変貌ぶりを楽しむように相好を崩した。

「そうだよな。納得いかないよな。本当は安斉がお縄につく無様な姿を見て影からほくそ笑む予定が全ておじゃんになっちまったんだもんな」

リビングに先生の心地良い低い声が響く。

「え?」安斉さんがふらりと神ノ木さんを凝視する。「神ノ木先生が…?」

周りにいた刈谷さんと安斉さんが飛び退き彼女から離れる。その2人のおののく様子を見て彼女はふわりと、笑った。

「ふふふ、おかしなことを言い出すのね。職業柄だからなのかしら?推理作家って想像の斜め上をいく人種なようね。よりにもよって母親である私が犯人なんて、あぁ駄目、お腹がよじれちゃうわ」

先ほどの怒号から一変、無邪気にころころと鈴を転がすような声を出す神ノ木さんに私は恐怖を抱いた。口は笑っているのにその目が冷たく、虚ろで底なし沼のように濁っていたからだ。

「いったい何を根拠に私が犯人と勘違いしたのか、是非ともお聞きしたいわ」

「勘違い、ね」

抑揚のない声で先生が言う。

「死亡推定時刻から遺体発見まで数時間あるならその隙間になんかしらのトリックを突っ込むだけの余地は充分あった。しかしタイムラグはほぼないに等しかった。それは何故か」

そろりと安斉さんが手を上げる。

「…私が、突然訪ねてきたから?」

先生はパチンと指を軽快に鳴らす。

「そう、招かれざる客の登場により遺体発見が大幅に早まってしまったせいで証拠をゆっくり処分することができなくなったんだ。あんたは相当焦ったはずだ」

「勝手な想像で決めつけないでちょうだい。第一、それを言うなら安斉や刈谷はどうなのかしら?私はずっとアトリエにいたわけですしその間に真里亞を殺害し、こっそり外に出て証拠を何処かに捨てたってこともできたでしょう?この邸宅は防犯カメラがついてないんだから、もしかしたら全く関係ない第三者の犯行という可能性も――――――」

「いいや、それは絶対にない。何故なら、あんたが犯人だという決定的な証拠が今もこの邸宅の中にあるんだからな」

臆する色もなく先生はずばりと言ってのけた。

「…ふざけないでそんなものあるわけないでしょう。最初にここへ警察が来たときにそれはもう丹念に調べていたのよ?それに時間がなかったというなら血まみれの体を私はどうしたっていうのかしら。風呂に入る時間も証拠を燃やすことも捨てることもできない。じゃああなたの妄想の中の私は一体どうやってこの困難を乗り切ったのかしら?全く、さっきから黙って聞いていれば全部あなたのくだらない夢物語じゃない。机上の空論ばかり並べ立てて非常に不愉快だわ」

「それは単に調べ方を間違えただけの話しさ。まぁいい、言いたくないってんなら俺が代わりに言ってやるよ。そう、あんたの城であるアトリエさ。もっと細かく言うと絵画の中に証拠は隠されている」

「ちょ、ちょっと待ってください」

先生を止めたのは彼女のマネージャーだった。

「ですが鬼頭先生。た、確か警部補さんの話では額縁を外してまできっちり精査したとお聞きしましたよ?」

「そりゃそうさ、額縁を外そうが表裏ひっくり返そうがなんら意味なんてねえよ。証拠は文字通り『絵画の中』に隠されているんだからな」

どういうことだと皆一様に顔を見合わせるなか、私は搾り出すようにぽそり「コラージュ、ですか?」と口にした。そうか、そこになら隠せる。

「お前が言ったのがヒントになった。あんたは愛娘を殺した際に血痕が付着した衣服を切りとっていま描いている絵画のコラージュの素材として使用することにより証拠を隠蔽したんだ。あんたの絵画は相当な値打ち物ばかりだから令状もなしにいきなり試薬を噴霧される心配はないと踏んだんだろう。いやあ実に画家らしい隠し方じゃないか。恐れ入ったよ」

「捜査令状の発行依頼も既にしていますので届くのも時間の問題でしょう。調べればあの絵画からルミノール反応が出るはずです」

石動警部補への頼みごととはこの事だったのか。アトリエの鍵は神ノ木さんしか持っていないから誰かが彼女に罪を擦り付けようとして絵画に細工を施したんだと弁明したところで今度はアトリエにずっといたという自身の証言が偽りとなる。

「あんただけなんだよ。神ノ木真里亞が自分の命を賭してまで庇いたかった人物で、且つ証拠をすぐに処分できたのは――――――――あんたしかいない」

神ノ木さんは何も言わなかった。ただ真顔で目の前の推理作家と静かに対峙するだけだった。

「どうして神ノ木先生が、真里亞を?手と手を取り合って2人で生きてきたんじゃなかったんですか?何故真里亞を殺したんですか?教えてください神ノ木先生」

「殺す?」不思議そうに彼女は聞き返す。

「何を言っているの?私はただ自分の作品がけがれたのが許せなかった、それだけのことよ」

『作品が穢れた』とはどういう意味だろう。真里亞さんが神ノ木さんの絵画を損壊してしまいそれが発端で目を瞑りたくなるような凶行に及んでしまったとでもいうのだろうか。

「真里亞は私の、いいえ私だけの最高傑作だという自覚がまるで無かった。それだけじゃない。大学だって許せなかったのによりにもよって恋人?ふざけんじゃないわ。しかも私が絵画展で遠出していたのをいいことにこの男を連れ込んで淫らにも愛し合っていたのよ。どうして知っているのかって?頑なに留守番していると言ってきかなかった真里亞に違和感を感じてあの子の自室に盗聴器を仕込んでおいたのよ。そうしたら案の定だったわ。真綿に包まれた無垢なる白磁の天使は汚泥にまみれた薄汚い汚物と化してしまったのよ。あの子が私以外の色で染まる姿なんて見たくもなかった。だから駄作を自分の手で破り捨てることに決めたのよ。私から離れるまえに」

「っだったら、私を殺せばよかったじゃないですか!真里亞にはなにひとつとして罪はなかったはずだ!」

『駄作』という聞くに耐えない真里亞さんへの暴言に安斉さんが目に涙をためながら糾弾した。

「思い上がるのもいい加減にしてちょうだい。あんたなんて殺す価値すらないわ。――――――ねぇ九重くん」

神ノ木さんは忌々しげに舌打ちをしたかと思うと、今度は私へと矛先を向けた。

「あなた、美術の授業でうまく描けなかったときどうしてる?その絵を捨てているでしょう?私がやったのはそれと全く同じことなのよ。あなたなら分かるんじゃないかしら」

私なら分かるだって?冗談じゃない。まるで媚びるような口調で同意を求める彼女に、私は不快で仕方がなかった。

いたたまれなくなり隣の先生を見上げると、もう興味を失ったのか彼は壁に寄りかかり窓外そうがいをつまらなそうに眺めていた。

日は既に落ち始め、黒い絵の具が塗られた木々がざわざわと不気味な音を立てながら激しく揺れ出す。

愛すべき母親に憎悪の念を向けられ刺されたあと、真里亞さんが一体どんな思いを抱きながら自身の胸へとナイフを突き立てたのか、もはや知るすべもない。


あぁ、本当に神ノ木さんには聞こえなかったのだろうか?愛しい母を呼ぶ娘の悲痛な叫び――――――――――――慟哭を。











《肖像画の慟哭    完》



機嫌が悪い時にプロットを組んだので激しく胸糞悪い内容となってしまいました(焦)

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― 新着の感想 ―
[一言] 金○一少年に出てきてもおかしくないブラック事件簿ですね(白目)。
[良い点] 謎解きに主眼を置いた短編ミステリーで、推理のための手掛かりが明確に記述されているのがいいです。メイントリックは古典作品をもうひとひねりしたもので、大胆で素晴らしかったです。 [気になる点]…
[良い点] ようやく作品を全て、読み終わりました。遅読故、犯人を想像するのは楽しかったです。 国見さんの小説は雰囲気だけではなくストーリーやキャラクターの構成まで良く掘り下げており(私が短編を書くと…
2016/10/28 01:26 退会済み
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