人工知能が怖い
私は、人工知能が怖い。
人工知能といえば、3月に行われた人工知能対韓国の囲碁棋士最強との対決が記憶に新しい。
このとき使用された人工知能は、ディープラーニングというコンピューター自身が経験を積むという手法がとられている。
まるで人間が成長するかのような方法だ、このときの経験数だが、同じ人工知能同士で対局をさせものすごい数の譜面を解析している。
その数なんと3000万。1日10局やっても8000年以上かかるほどの数をやっている。人間の一生なんて100年程度なのでその時点でもうかなわない。もちろんコンピューターには今までの名人戦の対局譜面を読み込ませているため、人間の歴史を一通り学んだうえでの8000年である。勝てるわけがない。
そして、このまま行けば人工知能はもっと幅広い分野で活躍していくだろう。実際、車の運転や、交通網の管理、銀行の不正を行いそうな職員の監視なんてものもある。
そして、あらゆる職業が人工知能にとってかわられるかもしれない。そうしたら人はどう生きていくのだろうか?
たぶん、保護施設なるものに入り、適度な教育と適度な仕事という刺激をもらい、適切な食事といった管理を受けるのかもしれない。
そう、動物園の動物である。
果たしてそれは幸せだろうか?
人によって異なるだろうがたぶん幸せな世界だろう。
考えても見てほしい。適度な刺激があるため退屈で仕方ないといったこともないし、飢えることも凍えることもない世界だ。
ある意味理想郷である。そして、とても怠惰な世界でもある。
コンピューターに隣人愛なんて感情はない、悪意もなければ善意だってない。ただただ、無関心に人を管理していくのだろう。
とても危険な、もはや、人が人である必要がない世界だ。コンピュータが不要と判断すれば一部の人を除き、殺処分されるかもしれない。
そうならないための取り組みが今から必要だ。どうすればいいのか?
コンピュータに悪を教えそうならないようにプログラムすればよいのではないか。
では、悪とは何ぞや?
人を殺すことは悪か?
死刑は悪か?
戦争は悪か?
野生動物のテリトリー争いは悪か?
人の物を盗むのは悪か?
管理されていない美術品を安全に管理するのは悪か?
結局、悪なんてものは無いのだ、見方を変えればそれなりに大義名分が立ってしまう。
そんな、無い物を教えることはできない。
先ほども書いたが、コンピュータに悪意などない、ただ、人に対して無関心なだけだ。
そんな、存在が今後、世界を支配していくのだ。
私は怖い。人工知能に管理される世界が怖くて仕方がない。