Chase it
世の中には、超能力というものを信じていない人がいるらしい。驚いたことに、そういう人の方が多数派なんだそうだ。もし知り合いに超能力を信じてるかと聞かれたら鼻で笑うのが礼儀だし、知り合いに超能力者だと告白されたら距離を置くのがマナーらしい。
僕はというと、超能力を信じている。
信じているというか、身近なものだから、信じるとか信じないとかそういうレベルの話ではない。
なんせ、使えるのだ。
「ここで会ったが百年目……ってね」
月光のほかには光源のない路地裏で、僕の正面にぼうっと浮かび上がる人影が囁く。月光でほのかに照らされた輪郭に目を凝らすと、それがいつもお馴染みの人物だとすぐに分かった。
「なんだ、今日はそっちから来たの」
僕は相手に対し身体をやや斜めにして、右側の腰に吊るしたナイフに手をかける。
いつもは向こうが悪いことをして、それから僕が追いかけるという構図がお決まりだけれど、今日は違った。
「今日は何を企んでるの?なんでもいいけど、今日こそ逃がさないよ」
今日こそ逃がさない、なんて、格好がつかないにもほどがある。これではまるでいつも逃しているみたいじゃないか。いつも逃しているけれど。
「待て待て……今日は逃げないから、そんな危ないもんに触るな」
人影が慌てたように両手をあげて、一歩こちらへ踏み出してきた。心なしか、息が上がっているみたいだ。
「ちょっと大変なんだ、捕まってやるから匿ってくれよ」
ふうふう言いながらどんどんこちらへ歩いてきて、輪郭と表情がはっきり見えるようになる。僕はナイフに手をやったままその姿を観察し、息を呑む。
いつもばたばたと風になびいて僕の視界を奪う真っ赤なバンダナの下から一筋、真っ白な頬に赤黒い液体が伝っていた。それだけではなく、全身をくまなく細かい傷が覆っているみたいで、頭のてっぺんから足の先まで、色々なところが擦れたり切れたりしている。
女の子なのに……と、いつも取っ捕まえるために追いかけ回しているとはいえ少し同情する。
「怪我してるの?」
敵意がないことを示すために上げていた手をだらりと下げて、いつもならどんなに走り回っても息ひとつ乱さないはずの彼女が膝をつく。さすがに僕もナイフから手を離して、彼女の側に駆け寄った。
すると、ほんのりと月に照らされて、いつも僕が取り逃がしている強盗団の下っ端が弱々しく微笑んだ。
「……ファミリーやめてきた。お前でいいから匿ってくれよ」
ーーー
ほとんど意識のない彼女を抱えながら秘密基地(という名の安アパート)に帰ると、まずは僕の可愛い妹が信じられない勢いで文句を言ってきた。
「兄さん、なんでそんなやつ連れてきたの」
「ちょっと、怪我してるならここじゃなくて病院とか行きなさいよ。すぐそこに組織の病院あるじゃない」
「なによ、こいつ強盗やめたの。そんなやつをここに連れてきて私たちの部屋が襲撃されたらどうするのよ」
僕の可愛い妹。シオンは、ひたすら僕を罵倒しながらものすごい早さで治療をしている。僕が病院ではなくて自宅に怪我人を運んだのは、シオンに治療を頼んだ方が早くて確実だからだ。近かったし。
「嫌になるわね、兄さんがいっつも取り逃がしてたやつを他の誰かがボコボコにして兄さんが連れ帰るなんて」
それを治療しているのはシオンだし、結局お前は何か役に立ったのかと、言外に責められているような気分になった。というか、言葉にしていないだけで彼女の視線は確実に僕を責めている。
「元気になったら組織の方に引き渡すから、それまでちょっとだけうちに置いといてやろうよ」
「嫌よ、嫌。嫌です。馬鹿じゃないの?」
「だって怪我してるじゃないか」
「だから治してやってるでしょ、今日のうちに元いたところに戻してきなさい」
今晩の傷をその日のうちになんとかしてすぐに追い出そうなんて、超能力を信じていない人が聞けばシオンを極悪人か何かだと勘違いしてしまいそうだ。
けれど、シオンならそこそこの怪我でもすぐに治せてしまう。それが超能力というものだ。シオンが手をかざせば、だいたいの怪我はなんとかなる。僕がこれまでにどれくらい助けられたか、数え上げたらキリがないくらいだ。
僕にだって超能力はある。でも、シオンに比べたら地味だ。空を飛ぶ飛行機の乗客の顔を見分けたり、縦に五メートルくらい軽くジャンプできたり、勢いをつけて殴ればコンクリートを砕けたり。とにかく、役に立ちそうで役立たない。本当はもっと色々できるけれど、意識して使いこなせるのがそれくらいなので、そんなものは使えないのと変わらない。だから身体を鍛えているんだけれど、いつだって強盗団の下っ端にも逃げられるくらいだ。
そもそも、どうして僕が強盗団と追いかけっこなんかしているのかというと、実は超能力者だけを集めた派遣業者みたいなのがあるからだ。"組織"という記号で呼ばれるその団体に雇われた僕とシオンは、かなりいい給料をもらいながら、たまに呼び出されては僕たちみたいな超能力者と戦っている。世の中には超能力者が意外と多くて、その力で悪いことをする連中も少なくない。そういう悪いやつらに対抗するための"組織"で、僕たちはそこの戦闘員。
そして、僕が今日アパートまで連れ帰った強盗団の下っ端、リオンは、僕たちに敵対する超能力犯罪集団のメンバーだ。
「ほら、そろそろ身体動かしても平気よ」
手をかざすのをやめて、シオンがリオンの頬を軽く叩く。リオンは意識を失っていたみたいに、口のなかで何か呻いた。
「起きなさい」
「シオン、ちょっと休ませた方が良くないか」
「ダメよ、こんなの災いの元だわ。さっさと元いたところに返してきて」
「でも……」
僕としては、強盗団をやめたといっているリオンを先ほどの路地裏まで連れ戻してみすみす殺させるのは気が進まない。それに、組織に引き渡せるならどう考えてもそっちの方が良い。いつだってリオンを逃がしてばかりの僕だけれど、これでも組織のトレーニングシミュレータでの成績はかなり上位なのだ。僕よりも強いリオンを組織に引き入れることができれば、超能力犯罪を取り締まる力もずいぶんと強くなる。
「ダメ、置いてきて」
シオンに顔を鷲掴みにされて、目を閉じたままのリオンが蛸のように唇を突き出す。
「ほらほら、起きなさい」
そのまま頭をぐりぐり動かされて、ようやくリオンが瞼を震わせた。
「……おい」
眩しそうにゆっくりと目をあけて、リオンがまず不服そうな声を出す。
「離せ」
「あらぁ、助けてやったのに何よその態度」
「なんだと」
シオンの腕を掴んで、リオンがベッドから上体を起こす。左肩にあてたガーゼが落ちそうだったので、僕が後ろからおさえた。
「お、助かったよ。ありがとな」
肩をおさえる僕に気づいたのか、リオンがシオンを睨みつけたまま器用に微笑む。
「あの、大丈夫?」
「大丈夫だ、助かった」
「治したのは私よ」
「助けてくれたのはこいつだろ」
「治したのは、わ、た、し」
僕の目の前で、妹と元強盗がどんどん険悪になっていく。
「とりあえずほら、ちょっと落ち着こう」
ふたりの肩に手をあてて宥めると、ふたりとも僕に視線を向けてため息をついた。
「緊張感ないわね」
「お前のんびりしすぎだろ」
ーーー
結局、リオンはすぐに組織に身柄を引き渡した。
やめたと言っているとはいえ、強盗団に身を置いていた人物はさっさと出ていってほしいとシオンが強硬に言い張ったから、というのでもなく、単純に僕たちのアパートにもうひとりの生活スペースをねじ込むだけの余裕がなかったからだ。
「まあ、世話になったしな。言うこと聞くよ」
意外というか、僕が組織に連絡をとろうとしたとき、リオンはあっさりと頷いた。どうやら強盗をやめたというのは本気だったみたいで、組織に身柄を移されてからの彼女は、驚くほど捜査に協力的だったらしい。一種の司法取引みたいなものだろうか、自分が所属していた強盗団の情報を組織に渡したことで、少しくらい罪が軽くなるという約束でもあったみたいだ。
そういうわけで、手強かった強盗団もあっさり壊滅したものだから(詳細が知れたらすぐに本部の方からエージェントがひとり派遣されてきて、僕とほとんど変わらないくらいの年齢の彼がひとりで強盗団を全滅させてしまった。上には上がいるものだ)、僕はこのところ平和だ。
たまには夜のパトロールといって暗い路地なんかを見てまわっているけれど、あの強盗団がいなくなればそんなに危ないやつもいない。
今日もまた平和だろうと、薄暗い路地裏にちらりを目をやってから通り過ぎる。
すると、僕はなんだか視線を感じて立ち止まった。
数歩戻って、また路地裏に目をやる。
そこには、ほのかな月の光に照らされたリオンが立っていた。おなじみのバンダナを軽くたなびかせて、彼女は僕を見ている。
「よう」
一瞬だけ以前までの癖でナイフに手を伸ばそうとして、すぐにやめる。リオンはもう強盗じゃない。
「元気?ていうか釈放されたの?」
「べつに捕まってたわけじゃねぇよ」
普通の人と接するように話しかけると、リオンも友達みたいな感じで答えた。
「俺も組織に入った。新人だからお前のこと手伝えってさ」
「へぇ」
どうせそのうちリオンも組織に入るんだろうと思っていたから、そんなに驚きはしなかった。むしろそのつもりで組織に引き渡したんだから、思惑どおりといってもいい。新人だから僕の手伝いをしろなんていう指示を受けたのには少しくらいびっくりしたけれど。でも、そういえば僕が新人の頃も先輩エージェントのサポートをして色々と教えてもらったんだった。そういう組織の習わしなんだろう。
「君もついに改心したんだ」
リオンを目の前にして、追いかけることも逃げられることもないなんて。ちょっと感動だ。敵対せずに会ってみると、なんだか気が抜けるくらい害のなさそうな顔をしている。強盗なんてやっていなければ、恋をしてびっくりするくらいの幸せを手にできるくらいの魅力はあるとおもう。
結局、僕は強盗をやっていた頃のリオンは捕まえることができなかった。けれど、味方になったのならもう気にしない。世の中から悪いやつがひとり減ったのだから。
「このあたりパトロールしようか」
もともと僕がパトロールしていたのはリオンを捕まえるためだった。その本人を連れてパトロールに行くのはなんだか変な感じだ。けれど、リオンはそんなこと微塵も考えてないような顔で僕についてくる。
「わざわざパトロールなんかしてんのか」
「このあたりに強盗がよく出てたんだよ、この間までね」
「ほんとに」
「うん」
僕が頷くと、リオンが笑う。
「ちょっとは平和になったか?」
「まあね」
まあ、というか、もともとこのあたりの超能力犯罪はリオンたちの強盗団がメインだったのだ。その強盗団が壊滅したいま、超能力犯罪なんて僕たちの近所ではほとんど起こらない。
「いまはね、たまにこのへんパトロールして、普通の変質者とか捕まえてるよ、暇だし」
「他には?」
「たまに別のところの応援に呼ばれる」
むしろ、近くの超能力犯罪より遠くの応援に対応することの方が多い。特に"サンタ"と呼ばれる人物が活動すると、僕たちみたいな平和なエリアのエージェントまで駆り出されて対応に当たるようなことになったりもする。詳しくは知らないけれど。
「まあ、しばらくは俺お前についてくから、色々よろしくな」
「うん」
ふたりでなんとなく薄暗い路地を選びながら歩いて、先ほど会ったところまで帰ってきた。
「あ、そうだ」
今日も何もない、平和な日だった。
だから僕は、リオンを近くの四階建て雑居ビルの屋上に誘う。
「こっちだよ」
屋上まで僕を追いかけてきたリオンは、そこからの景色を見て小さく笑みをこぼした。
「あぁ、こういう中途半端な高さから見る微妙な景色ってなんかいいな」
「でしょ?」
いつも追いかけっこしていた時には景色を見る余裕なんてなかった。お互いに、というか僕は必死だったから。
それがいまやふたり並んで、月明かりに照らされて屋上からの景色を眺めている。
「なんで強盗やめたの」
せっかくだし、そんなことを聞いてみる。犯罪をやめたのはいいことだし、それなら理由なんて本当はどうでもいいけれど、リオンの話が聞いてみたかったから。
「そういえば、そもそもどうして強盗なんかやってたのさ」
いつも悪いことばかりしていたリオンと話す機会なんて、ほとんどなかった。
この機会に聞いておこう。
「やめたのは金払いが悪くなったから。強盗やってたのは、金払いが良かったからだ」
リオンはあっさりそう言うと、そのまま屋上に寝そべった。彼女が自分の右側を軽く叩くので、僕も隣に横になる。当たり前だけど硬くて、後頭部に触れるコンクリートの感触もごつごつじゃりじゃりしていて気持ち悪い。正直、あまり寝心地は良くないけれど、解放感だけはやらとあった。
ここに寝そべって夜空を見上げると、視界にはもう夜しかない。
多くはないけれど、イメージしていたよりは星があって、投げ出した手足がそのまま地面とくっついてしまいそうなくらい、自分のなかから現実感が消えていく。
「金がもらえないなら強盗なんかやっててもしょうがねえよな」
頭がぼんやりとしてきそうになると、隣からリオンの声がした。やめたとはいえ、まだまだ発想がちょっと悪い人だ。
「お金がもらえても本当は強盗なんかやっちゃいけないんだよ」
「たしかに」
リオンが笑う。僕の印象よりもずっと高くて子どもみたいな声だ。
そうしてひとしきり笑ったあと、リオンがちょっとだけ黙る。寝そべっていて隣も見えないから、声が聞こえなくなるといなくなってしまったみたいだ。
「どうしたの」
「ちょっと前にさぁ……」
僕が声をかけるのと、リオンが再び口を開くのは同時だった。
「ちょっと前に、なに?」
先を促すと、リオンは「うん」と呟いて話しはじめる。
「ちょっと前に、着ぐるみきて走り回ったことあったろ?」
「あぁ……あったねぇ」
頷きながら、僕の胸にやや辛い記憶が蘇ってくる。
あれは、夏の暑い日のことだった。
シオンにおつかいを頼まれたので近所のショッピングセンターに買い物に出かけていたらリオンがいて、そのまま彼女が逃げるものだから追いかけていたら、ふたりしてイベントスタッフか何かと勘違いされたのだ。そのときに、僕たちは着ぐるみを着てイベントの真似事をやりつつ、隙を見て逃げようとするリオンを牽制したり、寄ってくる子どもと一緒にポーズをとって写真撮影したりした。
とにかく暑くて、結局シオンに頼まれたものは買い忘れてものすごく怒られて。リオンにも逃げられた。僕としてはあまり思い出したくない記憶だ。
けれど、リオンはあの日のことを懐かしむようにくすくす笑いながら言った。
「なんか、フツーに楽しかったんだよね、あの日」
「あれ、そうなの?」
たしかに着ぐるみを着たリオンは子どもに対して積極的に手を振っていたりしたけれど、それでも逃げようとしていたし、実際にイベントが終わったらさっさといなくなってしまった。
「僕はあれキツかったなぁ」
僕がそう言うと、リオンは横から僕の腕を小突いてきた。
「それはお前が真っ当に生きてるからだな」
そのまま一定のリズムで僕の腕をペチペチやりながら、リオンが続ける。
「アホみたいなカッコして、ガキと一緒に写真撮って、みんなに手振ってたりしたらなんか楽しくなってきて……」
リオンはそこで言葉を切ると、声を出して大きなため息をついた。
「終わってから封筒貰ったんだよ、今日の給料だって。そしたらなんかもう、感激しちまったんだよな」
アクシデントとはいえ真っ当なバイトをして稼いだお金は、少額でもリオンの胸を打ったんだろう。いい話だ。だからリオンは犯罪なんかやめようと思ったんだ。意外と子ども好きなのかもしれない。
「ふぅん……」
そんな話を聞くと、僕もやっぱりあの夏の日は肯定しようという気になってくる。
しかし、ちょっと腑に落ちない。
「僕はお給料もらってないよ?」
「そらそうだろ、ふたりぶんだっつって渡されたからな」
やっぱりダメだ。
あの夏の日はやっぱり嫌な思い出のままにしておいてやる。
「怒ったか?」
リオンが笑いながら身体を起こす。
こちらを見下ろして、僕の頬を摘んだ。
「痛い痛い痛い、え、痛いよ」
わりと本気で痛くて、僕も身体を起こす。すると、リオンは僕から何歩か離れて、屋上から見える景色に向かって腕を広げた。そのままそこでくるりと回ると、バンダナもゆっくりと新体操みたいに円を描く。
「今日からは俺がこのあたりを守る。人の守り方、教えてくれるよな」
そう言って僕に笑顔を向けたリオンは、月の光を浴びて、強盗をしていた時には想像もできなかったくらい真っ直ぐな目をしていた。
ーーー
「今日も世界は平和だなぁ、おい」
道端の自動販売機に腰掛けて、リオンが缶ジュースを傾ける。
「行儀悪いっていうか危ないっていうか、ダメだよ自販機に登っちゃ」
リオンが組織に所属してからもう一ヶ月。僕より暇を持て余しているリオンと毎日のようにパトロールをしているけれど、このところは本当に平和だ。むしろ、自動販売機に飛び乗って腰掛けるようなリオンがいちばんガラの悪い人物に見える。
「こんなことやってて本当に給料もらえんのか?」
組織に所属してからというもの、リオンはまだ一度もエージェントらしいことをしていない。仕事をしていないんだから、給料の心配をするのは当然だろう。
「大丈夫。僕だって半年くらい指令なしで満額もらったりしたからね」
「マジかよ」
「うん。来ないなーって思ってると急に指令来るから」
油断していると身体が動かないので、僕は指令のない間はずっとトレーニングとパトロールをしていた。そのおかげで経験は薄いのにトレーニングシミュレータの成績は
ものすごくいい。
「じゃあ、身体が鈍らないようにしとかないとな」
「それがいいよ」
空になったジュースの缶をゴミ箱に投げ捨てて、リオンが自動販売機から地面に飛び降りる。それと同時に、僕のポケットに入れてある携帯端末から呼び出し音が鳴った。組織から支給されている仕事用の連絡端末だ。
リオンの方からも同じ音が聞こえてくる。
「お、久しぶりに指令かな」
ーーー
珍しいこともあるもので、久しぶりに組織から指令がきたと思えば、なんと僕たちの住んでいる場所の近くで"サンタ"が目撃されたというのだ。
「サンタっての、やばいのか?」
超能力者には超能力者のコミュニティーがある。けれど、犯罪がらみのネットワークに組織の機密は流れないらしい。サンタについて聞いたことがないというリオンが首を傾げるので、指示されたポイントに向かいながらサンタのことを説明する。といっても、僕も詳しくは知らない。それどころか、組織全体でもきちんと分かっている人なんかいないんじゃないだろうか。
「サンタっていうのは、去年?くらいから現れるようになった超能力者なんだけど、とにかく能力が尋常じゃないんだよね」
それから、分かっている限りのサンタの情報を羅列する。
サンタというのは、人の心を読み、人を意のままに操り、ワープして、空を飛ぶ。実際に会ったというエージェントの報告だと、サンタは別の世界からやってきたと自称しているらしい。サンタという呼び名も自称なんだとか。
「別の世界からやってきたサンタさん……変なの」
リオンがそう言って違和感を唱えるまでもなく、僕も胡散臭いと思っている。けれど、サンタが現れるところには奇妙な生き物も現れるというのがお決まりのパターンになっている。それが世界中どこにでも現れるので、ワープだのなんだのっていうのが、少しはそれらしく思えてしまうのだ。
「まあ、サンタが現れるところだと何があるか分からないから、組織からも何人か送っておいて、市民に被害が出そうなら僕たちがおさえようってことだね」
「得体のしれないサンタを手伝うってことか?」
「そうなのかな、分かんないけど」
サンタについては、僕にだって分からない。
ただひとつ言えるのは、そんなよく分からない超能力者が現れるところには、必ずセットで奇妙な生き物も現れるということと、そのサンタがこの近くに現れたということだ。つまり、このあたりによく分からない生き物が潜んでいるということになる。
「サンタのことはとりあえず置いておいて、僕たちは市民を守ることだけを考えようね」
「わかってる」
初めての指令にしては、リオンは落ち着いている。まあ、実戦が初めてっていうわけじゃないからだろうけれど。
目的地までの近道を頭に浮かべながら進んでいると、またポケットから呼び出し音が鳴った。今度は僕の個人的な携帯電話だ。
「指令がきたけど、私は待機なの?」
シオンからだった。彼女の持っている端末にも組織から指令が入ったらしい。
「うん。僕はリオンと一緒に向かうけど、シオンはいつも通り待機でいいよ」
僕とシオンは兄妹で超能力が使える。ふたりで一緒に組織に入って、ふたりで同じ拠点(普通のアパート)に暮らしている。指令を受けるのも一緒だけれど、シオンの"人の怪我を治す"という能力は僕と違ってアクティブじゃない。だから、あまりにも遠方へ向かわなければならないとか、確実に負傷するのが分かっているというような指令でない限り、彼女はいつもアパートで待機しているのだ。これは組織の先輩から言われたことで、バックアップはバックアップの場所にいるのが良いっていうことらしい。僕が怪我をしても、アパートに帰れば必ずシオンがいる。指定の場所で必ず治せるというルールを定めておくのが大事なのだ。
「じゃあ、待機してるわ。いい?いつも言ってるけど兄さんは人並み外れて鈍臭いんだから、怪我したらちゃんと覚えとくのよ」
電話の向こうで、シオンがため息まじりに言う。指令を受けたときは、必ずこれを言われるのだ。前に一度怪我を放置したまま敵と戦って死にかけたことがあったからだと思うけれど、あの時はすぐ近くに民間人がいたから退けなかっただけで、僕だって基本的には怪我を忘れたり意図的に無視したりなんてしない。まあ、これは彼女なりのルールなんだと思う。必ず言うというのが、一種のおまじないみたいなものなんだろう。いじらしい妹だ。
「ヤバくなったらそこのアホを盾にしてでも逃げなさいね。気をつけて。それじゃあ」
「こら、シオン……」
リオンが組織に入って僕とパトロールするようになってからというもの、シオンのリオンへ対する小言が止まらない。元強盗とはいえ今は味方なんだからもう少しくらい信頼したまえと言おうと思ったのに、彼女は僕の返事を待たずに電話を切ってしまった。
「そろそろ到着だな」
まさか盾にしろなんて言われているとも知らず、会うたびに僕の妹から怒られているリオンが電柱の標識を見ながら呟く。確認すると、まもなく指定されたポイントだ。
「じゃあ、どこか屋上にでも行こうか」
何が起こるかわからないけれど、とりあえず見晴らしのいい場所に行くことにした。何があっても、見えるところにいればすぐに向かえる。
ーーー
以前にも、サンタ出現による応援として隣県までいったことがある。その時は出番なんか全くないまま自体は収束してしまったから、僕はサンタがどんなことをしでかすか知らなかった。
「……やべぇな、なんだあれ」
隣でそう呟くリオンの気持ちは、僕にも痛いほどよくわかる。
四階建ての雑居ビルの屋上に立った僕たちが見ているのは、三百メートルくらい離れたところにある小さな公園。そこには黒いもやもやした煙をまとった五メートルくらいのよく分からない生き物がいて、その周りをひとりの外国人男性が飛びまわっていた。
「サンタってのはたぶんあの男のことだよな」
「うん」
モデル風の若い外国人男性。実際に会ったというエージェントが撮影した写真(カメラに向かって思いきりポーズをとっているご機嫌なもの)を組織の資料で見たことがあるから、僕はあれがサンタだとすぐに分かった。
「只者じゃねぇな、あいつ」
「そうだねぇ」
資料にはワープすると書かれていたけれど、僕はてっきり、移動手段としてワープを使うんだと思っていた。けれど、いま目にしているサンタの動きは、それが誤りだと気付かせるのにじゅうぶんだった。
彼は謎の生物の周囲を、小刻みに消えながら飛びまわっている。振り下ろされるのが腕だか脚だかよく分からないけれど、とにかく敵の攻撃を食らいそうになると一瞬その場から消えて、今度は敵の背後に現れる。敵が捉えようとしてくると、また消えて今度は反対側だ。
どういう経緯でサンタがあんな生き物と殴り合いをしているのかわからないけれど、まるで勝負になっていない。見たところ、恐らく彼はあの生き物を殺すつもりはなさそうだ。弱らせて捕まえたりするんだろう。明らかに命を狙えるような隙には反応していない。
「とにかく、僕たちは民間人が近くにいないか見張ってよう」
「そうだな……あっ」
言いながら、リオンが息を呑む。
尋ねるまでもなく、僕にも見える。
「やばい、公園まで三十メートルの路地に民間人だ。下がらせよう」
そう言うリオンの声を背後に聞きながら、僕は屋上から隣の建物へ飛び移っていた。あの民間人がこのままのペースで公園まで進むとすれば、建物を飛び越えて直線で向かえば間に合う。
「バカ、早えよ!」
出遅れたリオンの声がすぐ背後から聞こえる。かなりアドバンテージがあったはずなのに、もう追いつかれた。これじゃあ強盗だった頃に捕まえられないはずだ。
「他に民間人はいない?」
酔っ払っているみたいにキョロキョロふらふらしながら公園へと歩く三十代くらいの男性を見ながら、背後のリオンに声をかける。彼女は小さく「ううん」と唸ると、すぐに声をあげた。
「まずい、公園に若い女がひとりいる!」
大変だ。
すでに公園に入ってしまっている民間人がいたなんて。
屋上からは影になって見えない場所にいたのかもしれない。ふたりで固まらないで、別のポイントから監視するべきだった。
僕は公園までの距離と、男性の方の民間人との距離を素早く目測で計算する。公園の方がやや遠い。
「リオン、公園の民間人をお願いできる?」
距離とスピードを考えると、リオンに公園へ行ってもらった方が僕よりも早く到着する。危険かも知れないけれど、とにかく離れるだけなら、なんとかなるかもしれない。
「任せとけ!」
元気に返事をすると、リオンはすぐに進路を公園へと切り替えた。
「安全第一、君の安全もだよ」
遠ざかる瞬間にちらりと目をやって声をかける。リオンは、軽く手を振ってあっという間に遠ざかっていった。
彼女の逃げ足は尋常じゃないし、性格も荒っぽいから、殴ってでも公園から離れてくれるだろう。この際、民間人の命を守れるならば多少の乱暴には目を瞑ることにする。
公園はリオンに任せて、僕はあと二十メートルほどにまで接近した男性に集中する。
公園にたどり着く前に話しかけることさえできれば、足止めになる。そのままそこで立ち止まらせるか、公園から引き離すことができれば大成功だ。
「そこの人!」
男性が歩く道に並んだ街灯に立ち、姿を見せるより先に声をかける。
男性が立ち止まり、僕を見た。
公園まではまだあと少しある。
成功だ。
彼は呆気にとられた様子で僕を見上げ、
それから手をあげて、
にっこりと笑った。
ーーー
気がつくと、僕は地面に倒れていた。
仰向けで、見上げると先ほどの男性が真っ赤になった自分の指先をぺろぺろと舐めている。
「この先は危険です、下がって……」
何が起こったか分からなくて、まず口をついて出てきたのはそんな言葉だった。この先の公園には妙な超能力者と怪物がいる。危ないから進むな、と。
けれど、胸が焼けるような激痛に喉を塞がれてしまって思うように声が出ない。
「お前さぁ、なに呑気なこと言ってんだ」
彼は僕の顔のすぐ横に唾を吐き捨てると、笑いながら足をあげた。
「人がせっかく散歩してんのになんだお前。上から声かけんなよ」
勢いよく踏みつけられた胸が、爆発したみたいに熱くなる。痛みを感じたのは、それより一拍おいてからだ。
「なぁ、お前もこっち側の人間か?」
何度も踏みつけられながら、滲む視界で彼の手を見る。真っ赤になった指先が、刃物のように鋭く尖っていた。
最悪の偶然だ。
これまで会ったことはないけれど、彼も僕たちと同じエリアに住む超能力者らしい。
それも、組織には所属していない、彼の言い方を真似るならば"あっち側"の人間。
完全に油断していた。まさかこのタイミングで超能力犯罪者に出くわすなんて。
「まあ、いいや」
僕は隙だらけだったに違いない。彼はあっさりと僕を地面に這いつくばらせて、嫌らしい笑みの形に唇を歪める。
「一回でいいからこれで人を殺してみたかったんだ」
そう言いながら、映画の怪物みたいになった指を僕の喉元に向けた。
まさか、こんなところで死ぬか。
意外とあっけない。そして、意外とびっくりもがっかりもしていない。こんなものか。
僕が死んだらシオンはどうするだろう。組織を続けるだろうか。でも、きっとあのアパートからは引っ越すだろう。どこか違うところの拠点で、怪我人を治すような仕事をするに違いない。それで、目の前の怪我人みんなにこう言うんだ。「あんた、鈍臭いわね。馬鹿じゃないの」って。
それとリオン。彼女が組織側についたのは本当に良かった。そのおかげで強盗団は壊滅したし、街も平和になった。でも、組織で悪い奴を倒すのもいいけれど、そのうち組織もやめて、誰かいい人を捕まえて幸せになってほしい。短い間だったけど、味方同士で一緒にパトロールできてよかった。意外と可愛らしい笑顔は僕のお気に入りだ。
「さぁ、死ね」
目の前の超能力者が鋭利な腕を振り上げる。
残念だ。
ーーー
目まぐるしく変化する視界。
写る景色が変わって、見える顔が変わって、見える表情も変わる。
僕を殺そうとした超能力者は、腕を振り下ろす瞬間に何かに弾かれて、あっという間に僕の視界から消えた。遠くから聞こえてきた地面と肉のぶつかる音に何か硬いものが混ざっていて、あれは骨が折れた時の音かな、なんて思っていると、男の悲鳴が聞こえてきた。やっぱりどこか折れていたみたいだ。気分がいい。
「おい大丈夫か!おい!」
直後に僕の視界に飛び込んできたのは、真っ青になったリオンの顔だった。お馴染みのバンダナがこちらへ垂れてきていて、僕の首のあたりにかかっているような感覚がしないでもない。
「リオン、ひどい顔だね」
僕を見下ろしながら、リオンの顔がどんどんぐしゃぐしゃになっていく。それがなんだか面白いけれど、吹き出すと胸がものすごく痛む。
「喋るな、バカか!」
シオンだけじゃなくてリオンにも馬鹿と言われてしまった。ふふっと吹き出すと、やっぱり胸が痛い。生きてる証拠か。死ぬほど痛いのに、それが生きているという証明になるなんて、世の理不尽を感じる。
ああ、そういえば、リオンみたいに悪いことをしていた人が悪事をやめることを"足を洗う"なんて言うけれど、悪いことをはじめるときは"手を染める"と言うんだ。じゃあやめるときも足じゃなくて手を洗わなきゃいけないんじゃないか、なんて、いっさい関係ないことをぼんやり考える。僕のことを触っているリオンの手はきっと血で汚れてしまったから、あとで洗わせないと。
「あの男は僕が君たちの組織に送っておいたよ」
そんな声が聞こえたかと思うと、涙と鼻水で訳のわからないことになっているリオンを押しのけるようにして、見慣れない顔が視界に入ってきた。
「大丈夫、彼氏は助かるから、なにも心配いらないよ」
資料の写真で見るよりずっと男前なサンタが、明らかにいっぱいいっぱいなリオンに冗談を言う。当然、彼女はそれに対して何も言い返す余裕がない。
「バカノエル!早くなんとかしてあげないと間に合わなくなっちゃう!」
つぎは知らない顔と声だ。
若い女の人。
誰だろう。素朴で、見るからに優しそうで、お母さんみたいで、お姉さんみたいで、仲のいい友達みたいな、親しみやすい雰囲気の可愛らしい人だ。僕のまわりには口が悪くて気の強い女の子がふたりもいるから、こんな人が近くにいてくれたらきっと癒されるだろう。ああ、そうか。この人が公園にいた民間人か。サンタの連れだから、公園にいてもおかしくなかったのか。
というか、いま彼女はサンタを確かに"バカノエル"と呼んだ。バカは僕もよく知る意味のバカだとして、ノエルというのはサンタの本名だろうか。サンタくらいの超能力者でも僕みたいにバカって呼ばれるなんて、彼女とサンタの関係性がなんだか透けて見えるようだ。あとで電話番号でも聞こうと思ったのに。残念。
「大丈夫、もう大丈夫、ほとんど治ってるようなもんだよ」
視界の外ですっかり声も聞こえなくなったあの超能力者にやられた胸をおさえながら、サンタがにこにこして僕を見下ろす。どう考えても治っていないけれど、たしかに少しずつ痛みが引いてきているような気がする。
「シオンのところに行かないと」
ともあれ、このままここで倒れていてはいけない。さっさと帰ってシオンに治してもらわなければ。そう思って身体を動かそうにも、さすがにまだ動かすのは無理だ。そもそも、治りつつあるというのが本当かどうか分からない。麻痺して痛みを感じる神経が死んでいるだけかもしれない。
動かない身体を無理に起こそうとする僕を制して、サンタが微笑む。この人は笑顔が真顔なのか。
「ダメダメ、あと三分はそのままでいなきゃ。三分じっとしてたら動けるようになるからね」
サンタは僕の胸に優しく手を当てて、当たり前のように呟く。町の小児科医みたいだ。
「おい、なに言ってんだよ」
リオンが理解できないといった声でサンタの肩を掴む。
「さっさと何とかしなきゃ死んじまうだろうが」
普通に考えて、胸からこんなに血が流れていたら早く処置しなければ助からないだろう。僕からは見えないけれど、地面には大きな血だまりが広がっているに違いない。
普通なら、死ぬ。リオンがそう思うのは何もおかしなことじゃない。
けれど、死なないだろうという実感もある。実際に痛みが引いているというのもあるし、僕はシオンの兄なのだ。
僕にだって、怪我を治す力くらいある。
ただ、僕はシオンのようにその能力を制御できないから、怪我をしたらシオンに治してもらうのだ。
「……おかしいな」
ものすごい勢いで痛みが引いていくのを感じながら、すんなりと声が出せることにも驚きながら視界のなかでサンタを探す。
「僕は怪我を治すとかそういうの向いてないんだけど」
これまでに僕が超能力を使って怪我を治したのは、軽く指を切ったときから足をくじいたときまで、本当にどうでもいい瞬間だけだ。それも、自分の意思とは関係なく。今回みたいに、放置したら死ぬというような怪我をシオンに治してもらう前に治癒してしまうなんてことはなかった。ありえないことだ。
恐怖すら感じるくらいの回復ぶりに自分でも戸惑っていると、僕のなかで完全に印象が固定されたサンタが優しい笑顔で頷いた。
「妹にできて君にできないわけないだろ?ちょっと君の能力を強くしたんだ」
「……どうやって?」
「サンタさんのヒミツ」
なんだかよく分からないけれど、サンタが僕に眠る能力を増幅させたということだろう。どうやったのかは分からない。それでも、この治癒のペースはシオンすら超えるほどだ。僕の能力を増幅させたにしても、プラスアルファで何かさらに強力なおまけみたいなものがついてきている気がする。というか、なぜサンタはシオンのことを知っているんだろう。
何かよく分からないことが次から次へと頭のなかを走り去っていく。あれもおかしい、これもおかしい。たしかに、サンタの超能力は強力だ。
もう痛みなんてほとんどない。僕は上体を起こすと、サンタの手を借りて立ち上がった。
「……治っちゃった」
胸に触れると、そこはただ服が破れているだけ。傷なんて綺麗さっぱりだ。
「すごいね。それは君がもともと持ってる力だよ。本気だせばそれくらいできるんだから、鍛えればもっと強くなれる。うん。無敵、無敵」
ハリウッドスターみたいな笑顔で僕の肩を叩くと、サンタは手を振って一緒にいた女性を抱き寄せた。
「じゃあ、またね。危ないのに助けにきてくれてありがとう」
そんな言葉を残して、ふっとサンタの姿が消える。
「あれ?」
「嘘だろ」
僕とリオンは、血だまりが広がる路上にふたりきりで残されて、お互いにキョロキョロしてしまった。
ーーー
僕とリオンはとりあえず組織へとサンタ消失の報告をした。巻き込まれた民間人へのケアを担当するエージェントによると、今回は夜で比較的規模も小さかったから、巻き込まれた民間人はゼロだったみたいだ。僕の胸を切り裂いた超能力者も拘束が確認されて、晴れて今回の指令は終了。またしばらくは待機するように、と伝えられて、今日の仕事は終わった。
「……で、なんなの。え、その、サンタ?もう帰ったわけ?」
今日の指令が片付いたこと、それに加えてサンタ絡みの顛末を携帯電話で伝えると、電話の向こうからシオンのため息とともに、呆れたような声が投げかけられた。
「だから気をつけなさいって言ったじゃない。本当に怪我はもういいの?」
「うん。サンタが何かやってくれたから、その場ですぐに治っちゃった」
「兄さん死にかけたんでしょう。緊張感ないわね」
言葉は悪いけれど、いつもよりは声が優しい。シオンはシオンなりに心配してくれているんだろう。可愛い妹だ。
「民間人に被害もなさそうだし、もう大丈夫だよ。すぐ帰るから」
「そうしなさい」
「うん。じゃあまたあとで……あっ」
通話を終了しようとする僕から、リオンが携帯電話をひったくった。
「悪い、今日はちょっと兄貴借りるな」
リオンはそう言って、何か声をあげているシオンを無視して通話を切る。
「なにしてるのさ」
「いいから来い」
僕の手を引っ張って、リオンがずんずん歩く。そういえば、組織に報告をしている間も、シオンと電話している間も、彼女はずっと僕を睨みつけたまま黙っていた。
「ちょっと、どうしたの?」
歩いていく方向は、どう考えても僕のアパートとは反対だ。むしろ、リオンが暮らしているアパートの方に近い。
そう思った僕の方向感覚は正しかったようで、数分間引きずられた僕は、あっというまにリオンの部屋まで連れてこられた。
住み馴れたアパートから引っ越していない僕とシオンとは違って、リオンは組織から与えられたアパートに暮らしている。場所は知っていたけど入るのは初めてだったし、どうして蹴り飛ばされるように部屋まで押し込まれたのか分からないしで、僕はどうも居心地の悪さを感じて仕方なかった。
「あの……」
「ちょっと付き合えよ」
血だらけの手を洗って小さな低いテーブルの前に座らされた僕が声を出すのを遮って、隣に座ったリオンが冷蔵庫から持ってきた缶チューハイを開ける。背中がむずむずしてきて、今更ながら服の胸元が破れているのが気になってきた。
「危ないところだったな」
どうしていいか分からなくて僕も缶チューハイに手を伸ばすと、リオンがようやくそう呟いた。
「あぁ、うん。今日のは死んでてもおかしくなかったね」
「お前マジで死んじまうかと思った」
もし公園に向かったのが僕の方だったらと考えると、リオンが無事で良かったと思う。もしかしたら、リオンなら負けなかったかもしれないけれど。
「……超能力者とやりあうってああいうことなんだよな」
缶チューハイを大きく煽って、俯いたリオンが呟く。
なるほど。
リオンは初めての指令で、同僚が超能力者によって殺害されるという経験をしてしまうところだったから、少し動揺しているんだ。
「まあね。危ないこともあるよね。そういう仕事だし」
僕も死人が出る現場には遭遇したことがない。初めての指令でそんな体験をしたリオンの衝撃は、僕が思ってるよりも強いものだろう。
「俺は強盗なんてやってたから、危なくなったらすぐ逃げるっていうのが身に染み付いてんだけど、もう逃げちゃダメなんだよな」
屋上から民間人を見つけてすぐに僕が走りだしたことを引き合いに出して、リオンが続ける。
「あのとき、お前のこと尊敬したわ。民間人がいたらまず飛んでくなんて、ほんとにヒーローみたいだ」
結果的にあの民間人は超能力者でさらに悪いやつだったけれど、屋上の時点ではそんなことは分からなかった。
「僕は鈍臭いからね。考えるよりも先に動かないと出遅れるんだよ」
何事もさっさと行動しなければ、いつ大事な何かを取りこぼすか分からない。僕がそう言うと、リオンは持っていた缶チューハイを勢いよく置いた。かちゃ、と軽く鳴る音からして、ほとんど空みたいだ。
「前から気になってたんだよ。よく俺のこと諦めないで追っかけてくるなって。お前、なんとかしてみんなを助けようって気持ちがすげぇ強いんだな」
「君には追いつけなかったけどね」
「でも逃げ切るのけっこう大変だった」
リオンが笑う。
「着ぐるみで一緒にイベントやったときもそうだ。お前、ずっと俺のこと諦めなかったよな」
一缶開けただけなのに、リオンの顔は真っ赤だ。彼女はくすくす笑って、いちど俯いてからため息をつく。
「お前になら捕まってもいいかなって思ってたよ」
顔をあげたリオンが、腕をこちらに伸ばして僕の頬に触れた。
「酔ってる、もう酔ってるの?」
「生きててくれて良かった」
「ちょっと……」
あっというまだった。
制止する間もなく、僕に覆いかぶさるようにしてリオンがキスをしてくる。バランスを崩して床に倒れると、彼女はそのまま僕の身体に重なってきた。
「あの、リオン……」
特殊なシチュエーションと酒の力が合わさって、リオンのテンションがおかしなことになっている。荒い呼吸でキスを繰り返す肩に触れると、彼女は潤んだ瞳で僕をじっと見つめて微笑んだ。
「けっこう前からお前が離れないんだ。追いかけられるの嬉しくて、組織に入ってからお前と一緒にパトロールするのも嬉しかった。もう今日ので確信したよ、俺……」
「ダメだって、お酒のあれだよ、リオン」
「俺、たぶんお前に嫌われたくなくて強盗やめたんだ。きっとお前と一緒にいたいから組織に入ったんだよ」
「リオン……」
まさかこんなことになるなんて。
というか、なんでこんなことになった。
くすぐるような高い声を漏らしながら僕にキスをするリオンの頬に触れると、彼女は潤みすぎて涙を流している瞳をこちらに向けて首を傾げる。
「どうした?」
「どうしたもこうしたも……」
「溜まってんだろ?」
「ええ、本当に本気なの?」
ここまでやっておいて本気じゃないとしたらそれはそれで恐ろしいけれど、リオンはなんの迷いもなく大きく頷いた。
「当たり前だろ。ようやく気づいたんだ。お前に惚れてる」
運動でもしているみたいに肩を上下させて微笑むリオンは、非常に不本意ながら、僕もその気になるくらい魅力的だった。
ーーー
やってしまった。
それはもう、色々な意味でやってしまった。やらかしたというか、まさしく"やってしまった"としか言いようがない。
自分のものじゃないベッドの上で自然に目が覚めて、閉めきったカーテンの隙間から細かく射し込んできている陽の光を見る。あの明るさは、もう朝だ。節々が痛む身体を起こすと、色々な関節からぱきぱきと音が鳴る。疲れていると、いつにも増してよく鳴るのだ。
すぐ隣には、服も着ていないままリオンが寝ている。だらしなく口を開けて、子どもみたいに。子どもみたいに寝ているのに、僕は昨日……。
強制的に頭のなかに浮かび上がってくる昨夜の色々なことはなるべく無視するようにして、ゆっくりとベッドを降りる。自分の身体すら視界になるべく入れないようにして、胸のところに穴の空いた服を手早く着た。
携帯電話を確認すると、まず時刻は午前七時半。もはや時間なんてどうでもよくて、そんなことよりも、シオンから四十六件(⁉︎)も電話がかかってきていることの方が重要だ。夜中の三時頃まで、最後の方は二分に一回とかのペースで電話をしてきている。
「うわぁ……」
声にならないくらいの、ため息くらいの音量で思わず呟く。今からかけ直したら怒られるだろうか。真夜中まで電話をしてきているということは、その時間まで起きていたということだから、もしかしたら寝ているかもしれない。昨日まったく電話に出なかったのに僕からの電話で起こしたら怒られるだろうし、万が一、ないとは思うけれど起きていたとしたら、間違いなく怒られる。
いずれにしろ死ぬほど怒られるんだから、帰ってから怒られよう。僕はそう思って、とりあえず携帯電話を置いた。
「起きたのか……」
これからどうしようかと考えていると、ベッドからリオンの小さな声が聞こえてくる。
「いま何時?」
「まだ七時半だよ」
言ってから、何をもって"まだ"なんて口にしたのか分からなくなる。まだ寝ていても良いよ、なんて言うつもりだったんだろうか。
「なんか喉かわいたな……」
そう呟きながら、リオンがゆっくりとベッドから出てきた。
「ちょっと、リオン……」
僕は、慌ててリオンに背を向けた。薄い毛布が完全にずり落ちて、下着を一枚しか身につけていない身体が露わになったからだ。するとリオンは、不服そうな声を出して後ろから抱きついてくる。
「今さら照れんなよ、夜あんなにもお前……」
「あ、あぁ、あー、ダメだよ、それはいけない。夜の話を夜のテンションじゃないときにしてはいけない。いけないんだ、リオン」
自分でもよく分からないけれど、なんだか無性に恥ずかしくなってきた僕がそう言うと、リオンが笑いながら身体を離す。そのまま冷蔵庫まで行って、中から小さな瓶を二本取り出した。
「ほれ」
そのうちの一本をこちらに投げてよこす。見ると、栄養ドリンクだ。寝起きで飲むものじゃない。
「いつも朝これなの?」
「どっさり買っとくんだ。目が覚めるだろ」
「どうかな」
僕はもともと寝覚めが悪い方じゃないから、起きてから"目が覚める"という感覚が分からない。
「さてぇ、昨日はいろいろ大変だったな?」
一気に栄養ドリンクを飲み干したリオンが、ベッドに腰掛けて僕を見る。
「……うん。大変だよ」
たしかに、大変だ。勢いというのは、つくづく恐ろしいものだと実感している。どうしてかって、
「もうお前と離れないからな」
そんなことを言いながらリオンが僕を見つめたまま微笑むんだから。
「そうだねぇ……」
「なんだよ、嫌なのか?」
「いや、違うんだけど」
つい沈みがちな声を出してしまう僕に、リオンが不服だと言わんばかりに口を尖らせる。
「違うんだけど、シオンが荒れそうだなって……」
そう呟いてから、やっぱり向き合わなければならない、という実感が強く胸にのしかかってきた。考えないようにしていても、シオンが僕の妹である以上、避けて通ることはできない。
「妹がどうしたって?」
「うん……」
僕だって、リオンにあそこまでさせておいて責任を取らないつもりでいるわけじゃない。むしろ、強盗をやめて更生したリオンの手助けが出来るのなら、彼女が僕をきっかけに更生してくれて、僕を求めるのなら、喜んでそばにいたい。
けれど……。
「シオン、正直いって君のことものすっごい嫌いだと思うんだよね」
シオンがリオンのことを受け入れるのには、かなり時間がかかるだろう。リオンが僕と一緒にいたいと言うのなら、そしてそれが長くなればなるほど、僕の肉親であるシオンと接する機会も多くなる。
シオンにとって抵抗のある人物と接しなければならないストレスも、自分を嫌っている人間からの憎悪に近い視線に晒されなければならないリオンのストレスも、僕はできるだけ避けたい。都合のいいことだとはわかっているけれど、シオンもリオンも、僕には大切なのだ。
「なんだ、そんなことか」
僕としてはけっこう切実な問題なのに、リオンはあっさりそう言った。
「お前の妹は俺の妹だろ。俺のこと嫌いなら、受け入れてもらえるように頑張るよ」
リオンは、実に簡単に言ってのけた。何も難しくないように。「これから挨拶に行こう」なんて、呆気にとられている僕をほっといてさっさと着替えはじめてしまったくらいだ。
「……あの、リオン?」
「なんだよ」
「シオンってものすごくひどいこと言うと思んだけど……」
「それはしょーがない。でもお前のこと好きな気持ちよく分かるから、きっと大丈夫」
リオンの好きとシオンの愛情は種類が違うのでは。そもそもシオンは肉親だし……。
なんて思いつつも、僕が心配しているよりもずっとシオンを受け入れようとしてくれているリオンが、なんだか眩しい。
「ありがとね」
後ろから抱きしめて耳元で呟くと、リオンは飴玉をもらった子どもみたいに顔をふにゃふにゃにして笑った。
なんとなく、今だけは都合よくなんとかなりそうな気がする。
シオンもきっと、時間はかかるかもしれないけれどリオンと仲良くしてくれるだろう。ふたりが仲良しになるまでの橋渡しを、僕がやればいい。
なんだか急に順風満帆な気がしてきて、リオンにもらった栄養ドリンクを一気に飲み干した。
ーーー
リオンと一緒に僕のアパートに帰ると、起きて朝食をとっていたシオンにトースターで顔面を殴られたのはまた別のお話。
おしまい