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どれ程走っただろうか。
細い路地をいくつも抜けた所で、幅の有る道へと出た。走り回り続けたせいで、さすがに2人とも息があがり、どちらともなく歩みを止める。
人の喧噪がないせいか、祭り囃子の音がよく通って聞こえる。
梓が位置を確認しようと視線を上げると、視線の先に小高い丘が目に留まった。木々に囲まれた頂からは光がこぼれ落ちている。どうやら走り回っているうちに、祭りを行う社の裏手へと回り込んでいたらしい。祭りの最中に裏側に用が有る人などそうは居ない。
どうりで静かなはずだと梓は納得し、探る様に周りを伺う。ここでなら『多少』揉め事が起きた所で被害は少ないかも知れない。
扇にここで、と告げようと声を出す直前の事だった。彼がたじろぐ気配を滲ませる。
「……早いお着きだなぁ」
扇の視線の先に揺らめく様に人影が立つ。それは面をつけた男ーー紫苑の姿だった。
つい先ほど見渡した時にはなかったその姿に梓も瞠目する。人としての気配は限りなく希薄だというのに、闇の中に白い面は異様な程にくっきりと浮き出て見える。
「衛士、生きてれば良いんだけどね」
背中を這い上がる冷たいものを打ち消すように梓が呟く。本心では「もう少し足止めしていてくれれば、と舌打ちしたい気持ちもあるが、ただの人間に策もなく人外の呪物と対等に渡り合えというのは、無理な願いと言うものだ。
少なくともこちらの準備を整える間は、扇に近づけては駄目だ。
狙いが扇である事は既に判っている。面の方も自分をつけて彼に舞わせなければ術を完成出来ない。だから、まずは扇の心に働きかけようとするだろう。そこで扇の心が折れてしまえば打つ手がなくなる。
紫苑から目を離さず、互いの間合いが崩れぬように威嚇しながら梓は袂の中を探る。
爪の先に目的のものが触れた瞬間が隙になった。
梓が思わず視線を揺らしたと同時に紫苑が地面を蹴る。狙いが扇である事を確認する前に、反射的に扇を力任せに横へと突き飛ばす。
扇を捕らえるはずだった紫苑の手は、その場に小柄な梓がすり替わった事で空を掴んだ。すかさず梓が彼の両手首を捻りながら絡め取り、引き抜こうとする紫苑の手を反する方へと捻る事で無理矢理に押え込む。
「アンタは扇を探してたんだろうけど、私はアンタを探してたのよねぇ? 話ぐらい聞きなさいよ」
「ーー邪魔だ」
力技で来られると女が男に勝るのは難しい。力任せに紫苑に振り切られた梓の体は軽々と宙を舞う。
「! あずッーー」
思い切り吹き飛んだ梓の名を呼びきる前に、扇は眼の前にのびて来た影から身を守ろうととっさに両腕を掲げる。僅かに遅れて両腕に食い込むような痛みが走った。
「……生憎と男に掴み掛かられる趣味はないんだけどなッ!」
苦し紛れに軽口を叩く。目の前の相手を振りほどこうにもほどけない。さほど体格に違いはなさそうな紫苑のどこに、これほどの力が有るのかと疑う。
せめて少しでも距離を取ろうと押し返す扇の腕の向こうから、自分に向けられる視線を感じる。
ーー知っている。
この視線は俺を見ているのではない。もっと深いーー記憶を見られている感覚に、体の底がひんやりと冷えて行く。
慌てて、扇は目を合わせまいと視線を落とした。
ふと、紫苑が楽しげに口を開く。
「お役目を、果たしてもらおう」
「また『お役目』とやらか。知らないと言ったんだがな!」
「知らない筈はない。その為のお前だろう? どんなに記憶を封じてもそれだけは忘れぬはずだが」
「……覚えてねぇなぁ」
衛士に追いかけられた時点でなけなしの記憶を散々つついたが出てこなかったのは事実だ。扇の考えを読み取ってか、万化面と同化した紫苑の声に不思議そうな響きが混ざる。
「……まぁいい。舞師、お前は生きる事など、とうに諦めたのではなかったのか?」
「どうだかね」
「そうか。では訊きかたを変えよう。お前は自分が生きている実感が無いんじゃないのか?」
「!」
扇の抗う腕が僅かに硬直する。思わず視線を上げ、後悔したが遅かった。
楽しげに笑った表情が刻まれた面が、更に笑みを歪ませる錯覚が扇を襲う。
「ぼやけた世界で生きるのは面倒だろう? 疲れるだろう? 思い出せ、お前は誰のものだ? ……楽になりたくはないか?」
楽に。
甘やかす様な声が扇の心に浸透していく。
思い出せば楽になれるかも知れないという考えが頭の片隅によぎった瞬間、背後から引っ張られる感覚が扇を襲った。
+++
気がつくと扇は薄暗い闇の中にうずくまっていた。立ち上がろうと地に手をつくと畳の感触がする。
今、俺は外に居なかったか?
…いや、外になんて行くはずが無い。
肯定と否定の考えが同時に巡り、自分がどこに居るのか判らなくなっていく。何故外に居たと思ったのかも判らない。だからと言って、部屋の内に居た確証も無い。頭に霧が掛かった様に思考がぼやけている。
ーーお前の命は、一族の物だ。自分の物だなどと勘違いするなよ。
突然響く声に顔を上げると、逆光で顔の見えない男が目の前で仁王立ちになっていた。気配に圧倒され逃れる様に後ずさる。
ーー我ら一族の繁栄はお前が背負っているのだよ。
どこからか響く声の主を探して周囲を見渡すと、扇を囲む様に人の気配がした。逃がすまいとするように輪を狭めてくる。
逃げたい。
思いつくが早いか、慌てて立ち上がった。かろうじて気配の少ない背後を振り返り、走り出そうとするが足が進まない。恐る恐る足下に目をやり、息をのむ。
ーーお前は人ではないのだから。神に選ばれた特別な子。大事な大事な一族の希望。
両足に縋り付くような、まつわり付くような大勢の手から足を引きずり出す。しかし幾度抜いても際限なく絡み付かれ、程なくずぶずぶと腰の辺りまで引きずり込まれた。だんだん抵抗する力も弱まっていく。
ーー神への供物、逃げる事は赦さない。
あぁ、そうか。俺は…。
急激な眠気が襲って来た。このまま眠ってしまえばきっと楽になるのだろうと、ほとんど思考出来ない頭で思う。まどろむ扇の目の前に白い靄が集まって来て、次第に笑い顔を刻んだ万化面の形を取る。
『舞師、もう疲れただろう? 楽になれ、楽になれば楽しい事ばかりだろうよ』
その声は労るような、甘やかすような、抗い難い響きをしていた。
「そうだ……な、俺は……」
呟くと力が抜けた。
抜けたと同時に自分を支えていた何かから引きはがされて、地に崩れ落ちた。全身に衝撃が走る。
「……ッ!」
扇は痛みに小さくうめき、体勢を立て直そうとして手にざらりとした感触を覚えた。今度は間違いなく地面だ。
「扇!」
鋭く呼ばれた名に、のろのろと顔を上げた。笑い顔の面があったはずの場所には、厳しい顔をした少女の顔があった。怒っているような、泣き出しそうな、複雑な表情で扇を覗き込んでいる。
「……あ…ずさ?」
「猿にでも見えるって言うなら、今度は扇を蹴飛ばすよ!」
否定の意味で頭をふると、急激に意識がはっきりしてくる。自分は扇だが記憶が無くて、彼女は梓で、自分は彼女の目的に手を貸すと言ったのでは無かったか。
「間に合って良かった。さすがにちょっと焦ったわ」
ごめんごめん、と梓が苦笑気味に扇に笑いかける。
「邪魔をするな、小娘」
先ほどの暗闇で聞いた誘惑の声が、明らかな敵意を梓に向けた。
声のする方に目をやると紫苑が幾度かむせながら、ゆっくりと立ち上がるのが見えた。腕を庇う様な格好になっている。
「うるさいなぁ。正当防衛って言ってくれる?」
梓は声の方に振り返ると、私は悪く無い、と扇を背にしたまま胸を張る。先ほどの梓の言葉と合わせて推測するに、どうやら扇を助けようと紫苑を蹴りとばしたらしい。
「だいたい、私が今喋ってんのよ!」
「……そこに居る舞師は役目の為に生かされてきた。それがその男の存在価値だ。あと少しで役目は果たされる……果たすのが至極当然の事だろう!」
ぴくり、と梓の肩が跳ねる。
『当然』
その言葉はさほど遠くない過去に見た文面を、梓に思い出させた。
慣れ親しんだ人の筆跡で書かれた彼女宛の手紙。人柄を表すような細やかな筆跡とは裏腹に、強い覚悟の程が知れる手紙。
そして梓が絶対に認める事の無い一番新しい手紙の中に、その一文は書かれていた。
『舞師一人の命を奪うのだから、自身の命で贖うのが当然である』と。