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にこやかと言うより、梓の事を笑っている印象の笑顔で握手に応えた扇の顔が不自然に固まった。
何事かと思う間もなく握った手を強く引き寄せられ、梓は盛大にバランスを崩して頭から転ぶはめになる。
「ちょっとっ……!」
あまりの仕打ちに文句を言おうと体勢を立て直して息をのむ。
数秒前に自分が立っていた場所に真っ白な面をつけた男が立っていた。話し込んでいたとは言え、耳の良い扇に足音ひとつ気づかせなかったのかと思うと背筋に冷たいものが走る。
横目で扇の位置を確認すると、先ほど梓を引き寄せた反動のおかげか、かなりの間合いが取れていた。
梓は目の前の男を警戒しながらも扇の側に移動する。
「あれが万化面か?」
「そうよ。衛士が言ってた逃げた舞師って言うのがあの男でしょうね。面を持って逃げたって話だったから、扇を探してるのかと思ってたんだけど……」
「俺を?」
「大通りであの面の男ーー紫苑だっけ? を見かけたのよ。面が盗まれたなんて思ってなかったし、一瞬で居なくなっちゃったから見間違いかと思ったんだけどね」
面をつけた男がひどく緩慢な動作でこちらへと向き直った。ゆらぐような動きは彼に自らの意識は無いであろう事を感じさせる。
「あんた、その面がどんな面か判ってる? 一応忠告するけど、良いもんじゃないわよ」
「……」
紫苑から返事が無い事を確認すると梓が険しい表情を浮かべた。
「やっぱり。あの人、完全に乗っ取られてる」
「乗っ取る? 面が?」
「いわば人の命を喰らうような危ない面よ? 意識くらい持ってもおかしく無いわ」
不意に紫苑が扇を指差す。
「……やっぱり俺か」
扇の本能が逃げたいと彼に告げた。無意識のうちにじりじりと後ずさる。
紫苑が間をつめようと、一歩踏み出すと同時だった。
「そこの面の男、観念しろー!」
扇達の背後から偉そうな声が路地裏にこだました。一瞬気を取られて横目で振り返る。バタバタと言う騒々しい足音が追いついて来て、数人の衛士が声の主に合流するのが見えた。
「盗った面を……って、田舎猿! え? 扇様!?」
「誰が猿じゃ! なんでこんな時に来るかなぁ」
梓は反射的に噛み付いて苦々しい顔になる。これではまさに、前門の虎、後門の狼ではないか。
「いや、ちょうど良かったかも知れないぞ」
にやりと人の悪そうな笑みを浮かべると、扇は背筋を伸ばして衛士の方へと向き直った。
「そこの衆、面を盗んだこの下手人をひっ捕えよ!」
「は! ただ今!」
急な命令に条件反射で畏まって答えた兵士達が、雪崩れる様に紫苑へと飛びかかって行く。
扇は唖然としている梓を引っぱり、衛士の後ろまで後退する。
「取りあえずこの場を離れよう」
「…人の少ない方へ。巻き添えは出したく無いわ」
梓の言葉に軽く頷いた扇は、衛士に向かって声を張り上げた。
「後は任せる!」
「かしこまりました! ……て、えぇ!?」
衛士が扇も捉えるべき対象だったと気づいた時には、2人の姿は見えなくなっていた。
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扇の耳が賑わいの少ない道を聞き分ける。より音の少ない道へと入り込んでいくため、梓にはもはやここが都のどの辺りか、さっぱり判らなくなっていた。
「捕まってもいいんじゃなかったの?」
淀みなく道を選びとる扇の背中に、梓が冗談めかした問いを投げかけた。
「梓はまずいんだろ?」
扇が振り返らずに即答する。その答えに梓の口許がうっすら緩む。手を貸してくれるという言葉に偽りはないらしい。
「それにしても、さっきのは御曹司っぽかったわ」
「ああ言えば条件反射で引っかかるかと思ったんだが扇は……見事に引っかかったなぁ」
様子を思い出したのか、扇の声に笑いが混じる。声ひとつで反射的に従ってしまう勤勉さを利用された衛士達に、梓としてはほんのちょっと同情を覚えないでもない。本当にちょっとだけーー猿サル連呼された事は決して忘れたりなんかしない。
梓は状況を頭の中に描きながら、ふと扇を見つけた時の衛士の反応も思い出す。
「衛士達、あなたの事見て『扇様』って言ったわね」
「どうやら俺は『舞師の扇』らしいからなぁ。あの面も俺に用があるみたいだったし」
「! 思い出して」
「ないけどな」
扇は梓の言葉を途中で遮り否定する。膨らみかけた期待をバッサリ切られた梓がしゅんと口をつぐむ。肩越しにその様子を盗み見た扇が、ひっそりと笑った。くるくる変わる彼女の表情は本当に見飽きそうにない。
「面に関してはな、昼間にみた幻を見たとき『見つけた』とかなんとか言ってたし、実際追いかけて来たってんなら俺に用事かな〜と、ね」
しょぼくれていた梓が勢いよく顔を跳ね上げた。
「な……! どうして早く言わないかなぁ!」
「ん? 言った方がよかったのか?」
悪気の無い扇の声に、梓は頭を掻きむしりながら小声で「仕方ない」だのと呟く。
「あぁ、でも、うん。話が繋がった気がするわ。扇は昼間に見た私の道具の柄に刻まれた山茶花を覚えてる? 面を見た時になにか違和感とか感じなかった?」
扇は一瞬記憶を探る様に押し黙った。
「……少し、面の花は小さかった、か?」
「正解! 面の山茶花は五分咲きだった! あれはただの紋様じゃないのよ。記憶封じの術の完成具合を表してる。記憶と感情を完全に封じた面は花が満開になるーーつまりあの面は完成していないの。何で完成していないのかは……」
梓は一度言葉を切ると扇を伺い見るが、視線に気づいた扇が肩をすくめた事で追求を諦める。
「……とにかく、術が発動した面は術を完成させようと扇を追ってくるの」
強い術になればなるほど、『完全に』失敗するか、成功するまで進行が止まる事はない。対象が移動すればどこまでもついてくるし、抗えば雌雄が決するまで争わねばならない。
ふーん、と気のない相槌を返してきた扇を励ます様に、慌てて梓が言募ろうと口を開く。
「あ! でも、悪い事ばかりじゃないのよ! 好都合…じゃないけど、面から記憶を取り戻すには記憶の持ち主がもう一度万化面をつけて舞う必要があるの。向こうから寄って来てくれるんだから手間が省けると言いますか……」
梓が励まそうとしてくれた事は声の調子で判る。しかし、どう噛み砕いても自分は良い餌になるとしか聞こえない。しかも舞を舞う?
「舞えない舞師が、舞をねぇ。そりゃ難題だ」
追い打ちのような励ましを受けた扇は、半笑いで虚空へと目をやった。