7
人気の無い路地裏の静寂を慌ただしい足音達がかき乱す。
「まったくどこへいったんだか…」
「すばしっこいったら無いな。子供に化けた本物の猿だったんじゃないか?」
衛士達はあたりを見回すが、閑散とした空気からは鼠一匹の気配すらしてこない。確かに、狐狸の類は人を化かすと言う。祭りのような賑やかな雰囲気であれば一匹二匹混ざった所で判らないかも知れない。
「しかしなぁ、猿に化かされたと言う話は未だかつて聞いた事が無いんだが…」
「違いない」
「お前達! こんな所にいたのか!」
梓を探していた2人が声の方を振り向く。先の2人と同じ服装をした大男が、表通りから声を張り上げている。体格が大きい為か、2人と離れているにも関わらず声が良く通った。
「もう田舎猿の方はいい!」
「なんだ? 捕まったのか?」
「いや、そうじゃないんだが……面が1枚、無くなったらしい」
「はぁ? 面って……」
いわゆる顔につけるやつか、と手で顔を示しながら衛士のひとりが確認すると、そうそう、と大きく頷く。
「なんだか知らんが、賢木家の大事な面が盗まれたらしい。田舎猿は捨て置いて、こちらの下手人を捕らえよとの命が出たんだ」
「そりゃ、不法侵入の田舎猿がとったんじゃ…」
「確かにあの身のこなし、手癖も悪いかもしれんな」
梓を探していた2人が口々に言いながら笑うが、大男は首を横に振った。
「いや、下手人は面を管理していた舞師だそうだ。面を持って走り去るのを見たものが複数居る。名は……紫苑と言ったはずだ」
「そんなに凄い面なのかねぇ」
「血相変えて探すぐらいだからな。見た事は無いから何とも言い難いが……相当なんじゃないのか?」
大男も少し首をひねりながら応える。
「なんにせよ、上からのお達しだからな。是も非もなかろう」
「まぁそりゃそうだ」
至極もっともな意見に、梓を探していた衛士達も頷いて同意する。
「…しかし扇様は居なくなるわ、屋敷に入った猿は逃げるわ、あげく盗人の捜索とは、最近探してばっかりだな」
ため息まじりの愚痴を残して、衛士達は大通りの人混みへと紛れて行った。
+++
静けさを取り戻した路地裏から、ゴトリ、と音がする。井戸の側に横倒しで置かれている水甕が風もないのに左右に揺れる。何度かガタガタと音を立てた後、勢い良く転がりそのはずみで蓋が開いた。
「…あいつらぁ! 猿猿猿猿言いよって!」
ギリギリと音がしそうな程歯ぎしりをした梓が水甕から顔をのぞかせる。誰も居ないのを確認すると、這いずる様にして甕の中から外へ出た。
「いや、切れ者とうつけ者は紙一重ってのはよく言ったもんだな」
くくっ、と喉を鳴らす様に笑いをこらえた扇が、壁に立てかけられていた茣蓙の後ろから滑る様に外へ出た。
「何よ! 見つからなかったんだから良いでしょ!」
空の水甕と思ったが意外と湿気っていたらしい。梓が袴をバサバサと叩いて水気を切る。
正直な所、見つかる覚悟はしていた。どんなに気配を消しても、長時間見ていれば不自然さに気づいたかも知れない。梓達のいた場所が路地裏で明かりが極端に少なかったのが幸いしていた。
梓は小さく安堵のため息を漏らす。
「さっきの話の続き、単刀直入に言うわ」
深呼吸をすると、梓が背筋を伸ばして扇のへと向き直る。まっすぐに見据えられた扇も笑いを引っ込め彼女に向き直った。
「私は兄弟子をーー兄さんを助ける為にここに来たの。命だけじゃなくて、心も助けたい」
「……何か手だてがあるって事か?」
「面を破壊するの。あなたに記憶を返して、面を壊して、全て無かった事にする。普通の呪とは違うから、順を追って戻して行けば無かった事になるはずなのよ」
「……はず、ね。経験則ではないんだな」
扇の小さな呟きに、梓が無意識に拳を握り込む。
「誰もやった事は無いから……出来なかったから……。でも万化面は、本当は壊す前提で作られた面なの! 少なくとも初代の面打師は、供物に選ばれた舞師を救う為に面を作ったって!」
「でも失敗すれば俺は死ぬ?」
「……あなただけじゃないわ。兄さんも術が失敗した事になるから命を落とす。私も……無理矢理術に介入するのだから……多分助からない」
「それでも梓は、ただ見えている終わりを待ちたくはないと思った?」
「そうよ」
身一つで故郷を飛び出したときに覚悟なんて決まっている。今更問われて揺らぐ筈は無い。揺らいではならない。
「さっき扇は一石三鳥って言ったわね。だったら私が面を破壊する事で解呪に成功したら、扇は記憶が戻って長生き出来て、兄さんは無事に目が覚めて、世の中から危険な面は消えて、大団円って事で私が喜ぶ、これで一石四鳥! 美味しい話だと思わない? どう!?」
開き直ったように梓が胸を張る。
目線の先に居る扇の表情は変わらなかった。肯定も否定も読み取れない。
梓の中に不安がよぎる。
普通の状態の相手にかける言葉ですら、どの言葉で心が動くのかなんて判らない。だから小さな表情の変化で言葉を選ぶ。しかし感情をうしなった相手ではその変化すら読み取れない。何をどう言えば、思いが伝わるのかが判らない。
一瞬の沈黙がとても長い。
「無茶苦茶だな」
ふっと扇の周りの空気が緩む。
「自分でも判ってる」
「俺を捜してたって事は、梓のやろうとしてる方法には、俺が居なきゃ進まない条件が有るってことだな?」
「…ご明察のとおり、あなたの助けが必要なの。お願いします、手を貸してください!」
梓が勢い良く頭を下げた。
扇の中で彼女について行けば何かが変わるのかも知れないという好奇心と、騙されているのではないかと言う疑念がせめぎあう。しかし同時に、ひとつだけ確信する事もある。
きっと、今より楽しくなる。
どうせ早かれ遅かれ失う命なら、楽しい方が良い。気のせいかも知れないが梓と居れば心が動くーー残念と言う言葉を思い出したように。
扇が下げ続けている梓の頭を少々乱暴に撫でると、驚いて顔を上げた梓と目が合った。訳も判らず乱れた髪を手櫛でなおす彼女ににっこりと笑いかける。
「手は貸せる範囲で貸すよ」
梓の顔に安堵と喜びの色が滲んだ事に気づかないふりをして、扇は言葉を続ける。
「でも、俺は梓を信じたわけではないから、何か有れば自分で自分の幕を引かせてもらう」
梓の話からすれば、どうやら幸か不幸か、状況は自分の存在が賢木に渡るか梓に渡るかで変わるらしい。扇の命が尽きれば賢木一族は儀式を完遂出来ず、梓は兄弟子を助けられず、双方共に都合が悪いと察しがついた。
ならば自分の命を盾にするのが現在取れる最大の牽制だ。
「悪い様にはしないって、約束するわ」
任せなさい、と自信たっぷりの笑顔を扇に向けて梓が右手を差し出した。さっきまでのしおらしい態度はどこへやら、と思うと心底可笑しくなってくる。
扇が笑いをかみ殺しながら梓の手を握り返した時だった。
梓越しにゆらり、と人影が揺れた。