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不意に沈黙が訪れた。
増々人の気配が祭りの方へと集中していくのを、扇は夜風の音の中に聞き取った。
すっかり日が暮れたおかげで、ひんやりとした夜風が気持ちを落ち着かせて行くのを感じる。とはいえ、落ち着けるほど感情が昂ったとは言いがたかったが。
風の音を聞きながら、扇はさほど遠く無い記憶をたどり始めた。
気がついたら町にいた。
どうやってそこへ来たかも、なんの為にそこに居るのかも、どこへ行けば良いのかも何にも判らなかった。
自分を知っている人間もおらず、どこから来たかすら判らない。ただ、判るのは自分の『セン』という名だけだった。
記憶を辿ろうとした事もある。しかし霧がかかった様に曖昧で、考えれば考えるほど自分がここに存在しているかどうかも怪しくなった。もしかしたら自分は居ない人間なのかも知れない。それならなんだ、魑魅魍魎の類だろうかーー記憶が無いから判断しづらい。そうして記憶を思い出す事を諦めた。
不思議な事に思い出せないと判っても、不安や焦りは一切生まれてこなかった。
幸い懐には金が入っていた。自分のものかは判らないが、相当な金額が有ったので不自由はしなかった。
それに歩けば女達が近づいてくる。自分の顔はうけが良いらしく、笑っていれば勝手に貢いでくれる。中には素性に興味を示す女もいたが、何だと思う、と訊けば勝手に想像しても盛り上がるので扱うのは楽だった。しばらくすると『良い家柄の道楽息子』という事で落ち着いていたので、そう名乗っておく事にした。
いつからか、見知らぬ衛士に追いかけられる様になった。『役目』だなんだと言われたが、思い出せないので逃げた。それも度重なるうちに、ちょっとした生活の刺激に思えて楽しくなった。
そう言えば、取り囲む女達の数が増えて来た頃、誰かから煩くされて腹は立たないのかと問われた事が有る。どんなに騒がしくても、腹が立った事は無い。
そこで初めて、腹が立つと言う感情が判らない事に気づいた。ついでに言うと、周りにいた女達の顔も思い出せない。後者は興味が無いだけかも知れないが、それにしても驚くほど頭に入ってこなかった。
感じられるのはいかに楽に生きるか、楽しいかどうか、それだけだった。他はどれもこれもあやふやだ。
そのうち、全ての基準は楽しいかどうかで判断する様になった。正確にはそれ以外に判断基準が判らなくなったのだけれど。
楽しい事だけを追ってぼんやり過ごしていたら梓に出会い、彼女の持ち物に刻まれていた山茶花の花が強烈に記憶に焼き付いた。その直後、不思議な面の頬に同じ花の柄を見付けた時には、それが何であるか判断する前に本能が彼女を捜していた。
そうして梓から聞かされた話は、やはり本当かどうかなんて判断出来なかった。ただ、目の前の少女が嘘を吐いている様にも見えない。
ーーさて、どう判断したものか。
いかにも『ただいま考えています』という梓の表情から、まだ何か伝えようとしているらしい事が見て取れる。
彼女は先ほどから赤くなったり、青くなったり、怒ったり、悩んだり、全く以て表情が忙しい。見ていて飽きないのは、自分に欠けているものが溢れているかだろうか。
ぼんやり眺めているうちに、扇は夜風の中に異常を聞き取った。
「………ちょっと、休みすぎたか」
「? 何?」
考え込んでいた梓が聞き返して来た。
「衛士が来る」
瞬時に顔を強ばらせた梓が耳をすませて不思議そうな顔になる。
「………? 何も聞こえないけど……」
扇は目を閉じて、耳を澄ます。確かに聞き覚えのある幾つもの足音が風に混じっている。
「どういうわけか耳は良いみたいでな。まだ遠いが、近づいてくる。……ほら、今のうちに逃げた方が良い」
ひらひらと手をふって梓を道の先へ促す。梓は慌てた様に周りに逃げ道を探す。
「えぇ!? じゃあ行かなきゃ! 扇、どっちに……」
何歩か進んだ先で梓が違和感を感じて振り向く。
梓が早く、と急かすが一向に扇は動こうとしない。それどころか軽く笑いながら彼女を手で追いやる仕草をした。梓の顔が一気に怪訝なものになる。
「……扇? あなたも追われてるんでしょ?」
「まぁね。でも今の梓の話でだいたい判った。そんだけ重たぁい理由なら相手も諦めたりしないだろ? どうやら俺が助かる見込みは薄そうだし、そうなるとこの先逃げ回り続けるのも面倒なんだよな。じゃあ今捕まった方が楽だと思わないか?」
「は? …楽?」
言われた事の意味を理解しかねる様子で、梓が繰り返す。
それが俺の判断基準だから気にするな、と言葉にはせず笑ってみせる。
「舞師である事も忘れてるんだ、俺が舞を思い出すまでには時間がかかるだろう? 梓も急いで故郷に帰れば、儀式とやらが終わる前には間に合うかも知れない。俺はこれ以上逃げ回らずにすんで楽になる、梓の兄弟子も助かる、まさに一石二鳥……いや、儀式も終わって元通りなら俺の一族も繁栄して一石三鳥ってことかな?」
ぼんやりした世界にはそれなりに疲れる。
じゃあ早く行きなよ、と手を振ると梓に背を向ける。きっとしばらくして振り返ると彼女は居ないが、自分は何とも思わないだろう。
扇は背中越しに伺っていたが、逡巡した後、彼女から離れるどころかこちらへと距離を縮める気配がした。
「……あなた判ってる? 戻るって事は死ぬって事よ!?」
焦りの色が滲む梓の声に、扇がゆるゆると振り向いた。
「なんだ、心配でもしてくれるのか?」
会ったばかりで人が良い事だ、と扇が呟くと梓が軽く眉根を寄せた。
耳を澄ませば、衛士らしき足音が確実に近づいて来ているのが扇には聴こえた。ここでぼんやりしていれば二人して捕まるだけだ。未だ離れる気配のない梓ににっこりと笑顔を向ける。
「俺には生きてる実感も執着も無いみたいだから気にしなくていい」
安心させる様な言い方で微笑んでやれば大概の人間、特に女は多少ごねていてもあっさりと陥落する事は実証済みだ。
ホラ行きな、と追い払うように手をひらめかせた先で、梓が目を丸くしているのが見えた。きっとこれで彼女は安心して逃げられるだろうと踏んで、扇は再び梓に背を向けた。甘くすり寄ってくる女性達と違いくるくると変わる梓の表情は見ていて飽きなかっただけに、ちょっと残念な気もしないではない。と、そこまで考えてふと気づいた。
ーー残念?
記憶がある限りぼんやりと過ごして来た中では少なくとも思い浮かばなかった言葉だ。
言いようの無い感覚に捕われていると、不意に腕が強い力に引っ張られて均衡を失いかけた。転ぶのをどうにか堪えて腕を引っ張っている梓に目をやる。全てとは言わないが、おおむね効果があるはずの声も笑顔も見事にかわしての行動に、思わず扇は抵抗を忘れた。
「…なぁ、聞いて」
「私の話は終わってない! 人の話は最後まで聞くって習わなかった!?」
もしかして声が聞こえていなかったのだろうかと問い返した扇の言葉を梓が鋭く遮った。彼女の表情や声、扇を振り返る事すらしない態度が怒っている事を物語っている。
不意に「向こうを探せ!」とがなる声が梓の耳にも聞こえた。水甕や茣蓙などの生活用品しか見当たらない場所で、衛士をやり過ごせる場所を必死で探す。
梓はさしたる抵抗をしない扇を引きずるようにして、闇の濃い家屋の方へと足を進めて行った。