5
センと梓が滑り込んだ先は、表通りと打って変わって静けさに包まれていた。壁に立てかけてある板や井戸の側に置かれたいくつかの水瓶が確かにここで人々が生活している事を伺わせるが、祭りに出かけたのか人の気配はしない。
壁にもたれて一息ついたセンが梓を振り返ると、探るというよりは何かを見据えている様子の彼女が目に入った。
「……もしかして、探し物あった?」
「有ったわ」
淀みない口調で答えながら、梓がゆっくりと扇を振り返った。
「そっか、じゃあ俺は早々に退散するかな?」
じゃあ、とセンが身を翻すよりも早く、梓の手が扇の襟元を掴む。自分の意志とは異なる方向に引っ張られたセンがどうにか転ばず踏みとどまり、意外そうな顔で梓へと振り向いた。少し俯き加減の彼女の表情は見えなかったが、彼の襟を掴む手にはうっすら白くなる程力が入っている。
「まって。探し物、見つけたの」
「ん、良かったな。だから、俺はもう良いだろうって話で…」
へらり、と表情を崩して梓の顔を覗き込もうとすると、襟を更に強く引っ張られ挑むような視線を上げた彼女と目が合った。
「逃がさないわよ、舞師『扇』!」
センが噛み締めるように、口の中で小さく『まいし』と反芻する。その声は至近距離にいる梓でもやっと聞き取れるくらい小さい。
少し考える様に視線をそらしたが、すぐに困ったような笑顔を梓へと向けた。
「………俺の名は確かに『セン』だけどね、舞師では無いと思うぞ?」
「さっき『賢木の衛士』って言ったわね? なんで?」
梓は怯む事無くまっすぐにセンを見つめたまま問い返す。
「そりゃあ、見れば……」
「衛士なんて大きな屋敷ならどこでも居る。服装に大した違いなんてなかったわよ。それに賢木のお屋敷にお邪魔したなんて、私言ってない」
扇はそうだっけ、と肩をすくめる。答える彼に相変わらずの笑顔をみとめると梓の目が更につり上がる。
「お邪魔したけど『扇』はいなかった。居ないどころか、表立ってはないけど人を使って探しているようだったのよ。じゃあ外にいると思うでしょ」
「……」
「もうひとつ、さっきあなた『舞師じゃないと思う』って言った。じゃあ何なの?」
「さぁ? 道楽息子?」
「……あなた自身の事よ? 何で疑問系になるの」
「何でだと思う?」
「あなた、覚えてないんでしょう。だから『思う』であって確定ではない」
睨みつけるような梓の視線の先で、扇の笑顔が消える。
「……じゃあ仮に俺が舞師の『扇』なら、お前は俺を知っているのか?」
「顔は知らない。有った事無いもの。でも、舞師『扇』の事情は知ってるわ」
梓は答えながら、ここで視線を外せば信じてもらえない事を直感する。
沈黙の中に祭りの音が響く。無言の中で先に視線をそらしたのは扇だった。
「……梓に聞きたい事がある」
扇が小さく呟く。その声に彼がこの場を去る気がない事を認めた梓は、ゆっくりと扇の襟元から手を離した。
「……なに?」
「山茶花。昼間拾った道具の柄に刻まれてたのと同じ紋様を知っている気がする」
「それは何で見たもの?」
「顔、というか、面かな? どこでかは思い出さないけど、紋様自体はこの辺りにあったと思う」
そう言いながら、扇は自分の左頬の辺りを指で示す。
「……そう。多分私の知っているものだわ。何ですぐ聞かなかったの? もしかして、それが訊きたくて私に声をかけたんじゃない?」
「まぁね。ただ、いざ目の前にすると訊いてしまったら後に引けなくなりそうな気がしたんだ」
楽しい事はなさそうだしなぁ、と再び笑う扇をみて、梓はため息をついた。
素早く辺りをうかがい、衛士の気配が無いのを確かめて口を開いた。
「想像とはだいぶ違うようだけど、やっぱりあなたは舞師の『扇』だわ。あなたが見たのは面であってる。衛士が賢木だって判ったのもやっぱり『扇』だからって事か……」
昼間『扇様』を崇拝していた小料理屋の面々は真実を知ったらなんと思うかな、などといささか落胆しそうな考えが頭をよぎる。
「あぁ、最後のは半分当たりって所かな。賢木だって判ったのは追われた事があったからだよ。『賢木一族のお役目を果たせ』って言われてな。まぁ、役目とやらはさっぱり思い出せないし、人違いだと思ってたんだが……」
聞いているうちに梓の顔が苦々しいものに変わって行く。
「逃げて正解だし、捕まっていなくて良かったと思う」
梓はそこで一瞬ためらった様に口を閉ざしたが、言葉を選んで話し始めた。
「『扇』の『役目』は神へ供物として奉納される事。賢木家は百年に一度、一族の守り神に舞師ごと奉納舞を捧げる事で繁栄して来た一族なのよ。だから取っ捕まったら命は無いよ」
記憶が無いだけでも不安だろうに、血縁者に命が狙われているなんて、追い打ちも良い所だ。気遣う様に扇を伺った梓は目を疑った。
目の前の男は、笑っていた。恐怖や焦りから来る笑いには見えない。
「つまり、俺は人柱として殺される所を逃げ出して、どっかで頭でもぶつけて記憶を無くした、って事か」
かっこ悪いなぁ、と苦笑する様子は緊張感が感じられず、とても生き死にの話をしている雰囲気ではない。
扇の気遣いかも知れないーーそう解釈した梓は軽く頭を振って違和感を追い出した。
「記憶が無いのは頭をぶつけた訳じゃ無いと思う。さっき思い出しかけたっていってた顔、つまり面のせいなの。山茶花の紋が刻まれた面は『万化面』と言って、『喜・怒・哀・楽・憎・驚・怖・愛』の8種からなるこの世で最も美しい面なの。賢木一族の中で選ばれた舞師がその面を着けて舞う事で、面に対応する記憶と感情を封じて完成する魔性の面。あなたの記憶が無いのは、儀式が進んでいたから……つまり扇が万化面をつけて舞を奉納して面を完成させた証拠だと思う。記憶は心、心が無くなれば体はただの入れ物。入れ物だけがこの世に残ると言う事は…死ぬという事と同じだわ」
梓が一息に言い切ってしまうと、扇からはふーん、とたいした事ではないような反応が返って来た。自分の手のひらを代わるがわる見つめながら、何とも気のない返事だ。
「なるほど、じゃあだいぶ記憶の無い俺は、そうそう長い命じゃないってわけだ」
「……そんな」
「間違ってる?」
挑戦するような軽い笑いを浮かべた扇と目が合い、梓は何事かを言いかけて閉口した。
自分は目の前の男に生死に関する話をしたはずだ。うろたえるなり、泣き崩れるなり、何かしらの反応は覚悟していた。あるいは、罵倒される事も。
しかし目の前にいる扇は笑っている。気遣って笑顔を浮かべているのではない。
この男は、信じていないかもしれないと言う不安が、思わず梓の口調を強めさせた。
「なんで……なんでそんなにあっさり言うのよ! 自分の事でしょう?」
「そう言われてもなぁ、俺は『舞師』と言われた所で実感は無いし……」
扇がどうしたものかと、笑顔のまま首を傾げる。
(そうか、信じていないのではない。判らないんだ)
梓は頭を殴られたような気がした。
記憶が無いというのは感情が無いと言う事だ。扇は多くの記憶を失っているらしいのだから、それに伴う感情も抜けていて当然である。信じる信じない以前に、悲しいも、怖いも、不安すら、今の彼には感じる事が出来ない。どれほど死が近い存在で有っても、ぼんやりした気持ちの中で命を失ってしまう。
判ったつもりでいたが、あくまでも『つもり』だったと思い知らされる。
言葉が出ない梓とは反対に、扇が口開いた。
「それで? なんで梓は俺を捜してたんだ? 賢木とやらに突き出そうって腹ではなさそうだし……なにより、俺より『扇』について詳しいみたいだけど」
相変わらず世間話のような気軽さで問う。
一瞬梓は考える表情になったが、すぐに話し始める。あまり沈黙すると、扇に余計な疑念を抱かせかねないという判断からだ
「私の故郷は面打師を多く出している村で、万化面を作ったのは、私の村の職人なの。万化面は特殊な面だから誰にでも打てるわけじゃない。ある血筋の人間だけが打てる。その人はその血筋の人だった。本人は隠していたみたいだけど、どこからどう伝わったのか賢木一族に知られてしまった」
「それで頼まれて面を作った、と」
「そうよ、打ちたくも無い面を打たされたの」
「そこで断ってくれいれば、俺もこうならずにすんだかもな」
思わずか、故意にか、どちらとも取れない扇の呟きを耳にした梓は、眉根をぐっと寄せ、押し殺した声で反論した。気持ちが昂っているせいで、心無しか口調が早くなってしまう。
「断るなんて無理だったの! 村人全員を盾に取られてどうして断れるのよ? それにね、万化面は記憶封じの為の術を施さなければならない。かなり強い呪いの一種だから、それ相応の代償を払わなければならないの」
「代償……人を呪わば穴ふたつ、ってところか?」
「……そうよ。儀式が終わるまで、製作者となった面打師は昏睡状態になるの。儀式が失敗すれば術が跳ね返ってそのまま目覚める事無く命を落とす。もし儀式が成功した所で、賢木一族に口封じに殺されるでしょうね。そんな話が広まったら賢木の立場が悪くなるし、なにより術を解かれたら困るもの。どっちにしたって助からないような面を、好きこのんで打つような人間なんていると思う?」
「案外、助かる算段が有ったのかもしれないぞ?」
気楽な扇の意見に、梓は即座に首を横へ振った。
「それは無いわ。昏睡してから手紙が見つかった。手紙と言うより、遺書だった。舞師一人の命を奪うのだから助かるつもりは無いって。当然だって! でもそんなの、私は認めないし、許さない!」
「そんなに助けたいなら儀式が終わるのを待って、賢木から来る使者なり暗殺者なりを返り討ちにした方が早いと思うけどなぁ」
「その場合、あなたは死んでるって事よ。優しい人だから……自分だけ生きていられるような人じゃない」
きっぱりと言い切った梓の言葉に、扇が意外そうな表情を浮かべる。
「……ずいぶん詳しいんだな」
梓は一瞬怯んだが、すぐに厳しい表情に戻る。ふと、扇の視界の端で彼女の手が強く握り込まれるのが見えた。
「……兄弟子、だからね。私にとっては家族なの」
答えた声は、意外な程に頼りないものだった。