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日が傾き始め、祭りに向けて準備をしていた露店が先ほどから商売を始めていた。小間物や膏薬を売る商人、飴売り、大道芸と中々に賑わいを見せている。祭りの露店だけ有って、普段は帰途につく人々や親子連れにいたるまで多くの人が各々に店を覗き込んでいた。
センと連れ立って歩く女達も例に漏れず、のらりくらりと適当な店をひやかして歩く。大して高価なものは無いが、暇をつぶすにはそこそこの店数だ。
「センさん」
「ん?」
連れ立って歩いていた女に背後から呼ばれ振り向いた。そこに有るはずの景色がかげり、反射的に身を固くする。
「ほぅら、おキツネさん」
女は手にしていた狐面をセンにあてがっていた。面の向こうで満足そうに笑うのが見える。その様子に気づいた他の女達がわらわらと寄って来た。
「よぅ似合うてはりますわぁ。こっちはいかがどす?」
種々のお面を売る露店が近くにあったらしく、女達はいくつかの面を手に扇にあてがってくる。面をあてがわれる度に光と闇が交差し、めまぐるしさに思わず顔をしかめた時だった。
ーー景色が、消えた。
景色だけではない。聞こえていたはずの町の喧噪も、全てが闇に溶けていた。周囲の急激な変化に違和感を覚えて見回そうとするが、指一本動かす事が出来ない。
見られている。
痛い程の静寂の中で立ち尽くしているせいか、背後からの視線をいっそうはっきりと感じた。
振り向いてはいけないと直感が警鐘を鳴らす反面、相手を知りたいという好奇心が持ち上がる。金縛りに似た感覚で動作には強い抵抗があるものの、力を込めれば動かない訳ではないらしい。
一瞬ためらったが、やはり好奇心に負けた扇が背後に感じる視線の主へゆっくり振り返り始める。半分より少し振り向いた辺りで幾つもの淡い光が視界に入り、扇は思わず動きを止めた。そのままの体勢から視線だけで伺うと、光っているのは顔だ。ただし顔といっても人間が居るわけではなかった。体もない。耳も髪もない。厚みのない白い硬質の肌に、動く事のない表情が貼付いている。
あれは、面だ。
あちらの方からはっきりと刺さる様な視線を感じるから、おそらくは視線の主は面のどれかなのだろう。頬の下に鮮やかに描かれた花がやけに浮いて見え、ぞわりと嫌な感覚が背中を駆け上がった。
これ以上相手を見るのはは本格的に危険な気がして動く事をためらっていると、扇の耳が小さな音を拾った。
『見ツケタ』
面の呟きを耳に残して、突然闇から解放された。首筋を冷たい汗が一筋流れ落ちる。
「……俺、には、似合わない」
後ずさるようにして女達のあてがう面から逃れると、先ほどまでの様子との違いに女達は不思議そうな表情を浮かべた。
見られている。
女達の視線が、先ほどの生々しい幻の視線と、彼女達の着物の模様が幻に咲き誇っていた花の模様と重なる錯覚をおこした。
再び這い上がってきた寒気から逃れるように、真っ白に血の気が引いた顔を不自然に背ける。
不意に視界の端で遠くに動くものを捉えた。見極めようとするが間に合わない。代わりに見て取れたのは「小娘」と怒鳴り散らしながら何者かを追う数人の衛士らしき男達だった。
咄嗟に昼間の少女だと思い込んだ。京に小娘と呼ばれてなお走り抜けるような剛胆な女はそうそう居ない。そして昼間の少女の持ち物にあったのはーー花の模様。
機嫌を損ねてしまったのでは、と不安そうに目配せをしていた女達に向き直る。
「申し訳ないけど、用事を思い出した。ここで失礼するよ」
「え…そんなん今まで言うてはらんかったのに…」
女達は急な出来事に事態を飲み込めないようだったが、そこは彼の笑顔の使いどころと言うものだ。
端正な顔を殊更甘くして、人差し指を立て自分の唇にあてて微笑む。女達が息をのむのが見て取れて、容易いものだと心の中で苦笑した。でもこれ以上説明するのも手間だから、だめ押しをしておく。
「悪いな、忘れてた」
センは声にも甘さを増して囁くと、踵を返し少女が消えた路地へと走り出した。
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「こら! そこの悪童止まれー!」
「止まるかっ! って言うか誰が悪童よ! まったくしちくじいなぁ」
センの予想はぴたりと的中していた。昼間に捕り物を披露した少女は、今度は追われる側にまわったようで狭い路地を全速力で駆けていく。長い事走り回っているらしく衛士達には疲労感が漂い始めているが、少女にはその気配は無い。
「ああもう! だいたい私が何したって言うのよ」
「屋敷に忍び込んでおいて何を言う!」
少女は思い切り眉をしかめる。
「人聞き悪い事言わないで! 忍び込んでない! 入り口で声かけたもん」
「許可が無いのに入っただろうが!」
衛士が間髪入れずに怒鳴り返すが、少女は心底不服そうに彼らを見やる。
「だから、お邪魔しますって、ちゃんと言ったわよ。なんで追いかけられるのよ! だいたい、お邪魔しますって言っても返事がなかったら、家の人探しに入るのは当たり前でしょ! 中で倒れてたりしたら困るじゃない!」
「どこの田舎の話だーッ!」
少女は相変わらずなんでよ、と呟きながら悠々と衛士達の前を走っていたが、小道への角を曲がった所で速度を落とした。行き止まりだ。高い塀と木に囲まれた空間に衛士達も気づき、鬼ごっこの終焉を予測して安堵の色が広がる。
「ほら、もう行き止まりだ。観念しろ!」
逃がさず確実に捕らえようと衛士達が間合いを詰めてくる。彼らは先の行き止まりで自分たちの間を抜けられるという失態さらしていた為よけいに慎重になっていた。
じりじりと近寄ってくる衛士に少女は怯むどころかため息をひとつくと、おもむろに手近な木の幹に手をかけ、瞬く間に彼らの手の届かない塀にあがった。
完全に意表をつかれた衛士達はただ呆然と少女を見上げる。
「……小猿!」
誰が言ったか、思わずこぼれ出た感想は衛士全員の気持ちを代弁していた。
少女の眉が怒りで跳ね上がる。昼間の女といい衛士といい、猿呼ばわりは聞き捨てならないらしい。
そのまま逃げようとしていたのをやめ、衛士達に仁王立ちで向きなおる。
「どいつもこいつも誰が猿じゃ! うちは花も恥じらう十六歳ですぅ! もう無断で入らんけん良いやろ!? ほたっちょけ!」
塀の上から衛士達に向かい一気にまくしたてると、べぇっと舌をだす。彼女の態度に怒った衛士達が捕まえようと四苦八苦飛び上がっているのを尻目に、少女は軽々と塀の向こうへと消えていった。
【補足:作中使用の方言について】
しちくじい→ しつこい
ほたっちょけ→ ほっといて
……となります。他県によっては違う意味になる所もあるかもしれませんが、地元基準で(笑)