9.
「あー、トラウマ作ったな」
銀髪の少年が、うんうんと頷きながらケーキをほおばった。膝にだっこしていた黒髪の幼児にも、一切れ食べさせてやる。きゃっきゃと喜んでいる子供と少年の面差しはとてもよく似ていた。
そんな心癒やされる光景を前に、ファウストは暗い顔で落ち込んでいた。
「トラウマ、とは?」
「だからさ、ちょっと前に恋愛関係で洒落にならないひどい目に遭ってるんだろ? 恋愛に対していいイメージなくなったっていうか、無意識に悲劇的結末を想定するような条件反射ができちゃったとか」
「あり得ますね」
ノアも同意してやると、目に見えてファウストの顔色は悪くなった。
自業自得である。
そういう事象を起こしたのは彼なのだから。
「その流れだと、相当根気よく接していかないと恋人同士とかまず不可能だよな」
「ですね」
「……」
ファウストの後ろに、気のせいか縦の効果線が見える気がした。擬態語で言うと『どよ~ん』である。
「おじちゃ、よちよち」
いつの間にか少年の膝から降りていた幼児が、ファウストの足下をてしてし叩いていた。本人的には撫でているつもりなのかもしれない。とても心温まる光景だった。
は、ともかく。
「ノアとしては、兄ちゃんとファウストをくっつけてやりたいんだよな?」
「ええ……」
頷いたものの、声のトーンが下がってしまったのは否めなかった。
「元凶こいつなのに?」
「だって、もう契約してしまったんだから取り消せないでしょう。それに……取り消せたとしても、兄さんをまたあんな環境に戻したくないです」
「まあなぁ。俺は又聞きだけど、昼ドラ並みにどろどろだっていう話だもんな」
昼ドラどころではない。日本の一部地域で長年大人気を誇る、『ぼぉいず・らぶ』というジャンルで時々見られる、想像の斜め上行く設定並みの泥沼だ。
「……綾音とか弥生には絶対言うなよ?」
「……もうばれてるっぽいです」
知り合いの腐女子約二名のことを思い出し、ノアは一層暗い気持ちになった。
「あー……えっと。まあ、あれだ。うん」
少年は、咳払いをして強引に場の空気をごまかした。
「なんか、ごめんな。うちの部下があほやって」
「いえ……発端はうちの長兄が大部分らしいですし」
奇しくも、溜息はぴったりと重なった。
この少年は、名前をサタナエル、通称サナという。ルシファーの主に当たる、かつて天から陰謀により追放された神の御子の片割れ。魔界の真の統治者だ。
つまり、ファウストにとっては雲の上の存在だ。
ちょうどファウストの相談に乗っていたときにサナが子守がてら遊びに来たので、一緒に話を聞いてもらったのだが。
「どうすればいいだろうなぁ。俺もこういうのはあんまり経験したことないし」
弟にだまされて追い落とされたショックで、つい最近まで魔界に引きこもっていたサナだ。役に立つアドバイスを期待するのが間違いだった。
「おじちゃ、あい、あめあげりゅ」
一方ファウストは、だっこした幼児から飴をもらっていた。人なつっこい子供である。
「まあ……地道に少しずつ、警戒を解いていくしかないんでしょうね」
もう一度溜息をついて、ノアは全員のお茶を淹れ直した。温かな香りが広がって、束の間でも心安らぐ。
「……どうして、兄さんは辛い恋ばかり選んだんでしょうね」
お茶の最後の一滴が、琥珀の水面に零れて消える。
「辛くても、愛することをやめられなかったんでしょうね」
ポットを持つ手が揺れたが、何とか落とすことなくテーブルに戻した。
ヘンリーが最初に愛したのは、親友だった。そしてそのときにはすでに、想い人の心は別の相手に向いていた。
わかっていたはずなのに、なぜ。
「……奪うことや壊すことを、それでも考えない奴だから……」
ぼそりと、ファウストが呟くのが聞こえた。
「俺は……救いたかったんだ」
ひねくれ者の悪魔は、キザくさいことを言っておいて自分で照れていた。未だ膝の上にいた幼子が、俯いた頬をてしてししている。
ノアは。
ふっと、肩の力を抜いた。
「お茶、もう一杯どうぞ」
「ああ」
一人遊びを始めた子供に危険がないよう気をつけて、ファウストはカップに手を伸ばした。
ひねくれ者で不器用で、どうやら『好きな子ほどいじめたい』という子供のような男らしいけれど。
それでもノアは、ファウストをもう少し信じようと思った。