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6.

 目が覚めたときから、変化は始まっていた。

 起き上がってみて、それは目の端に鮮やかに映った。

 醒めきらない頭が、ゆるゆると理解を始める。

 テーブルの上。カーテン越しのぼやけた朝日が、ようよう露わにしているもの。

「花……?」

 紅い薔薇だった。

 昨夜はこんなものはなかった気がする。もっとも、周囲を見回す余裕なんてやはりなかったから、見落としていた可能性も否定できないが。

 ベッドから降り、裸足のままテーブルに近づく。薔薇のとげはきちんと取られ、朝露も瑞々しく花弁や葉に残っている。

 摘んだばかりのようだ。

 誰が、と考えて、真っ先に浮かんだ人をとりあえず否定する。

 あの悪魔は、こんなことをする性格ではないはずだ。

 朝摘みの花を届ける気遣いができるなら、ヘンリーはこんなに彼を怖いと思うことはなかっただろう。

 でも。

 ここにヘンリーと彼以外が住んでいないこともまた、厳然たる事実なのだ。

 思いついて、カーテンを開ける。中庭が見下ろせたが、綺麗に刈り込んだ芝と木々以外は何も見えない。

 この屋敷には、薔薇が咲いているのだろうか。

 こんな、新鮮な薔薇が。

 しばらくぼんやり窓の外を眺めてから、ヘンリーは部屋を振り返った。

 必要なものは完璧にそろえられている。コップも、お茶の道具も、水差しも。

 バスルームで水を汲み、彼は微睡む薔薇をそっと水差しに生けた。



 朝に身支度を調えて活動するなどという、当たり前の行動を取ったのはいったいどれくらいぶりのことだろう。

 部屋に薔薇を残したまま、着替え終えたヘンリーは庭に出た。

 一度気になってしまったものは、なかなか頭から振り払えない。確かめてどうするのかとか、もしも唯一の同居人と顔を合わせたらどうするのかとか、そんなことはまったく考えつかないというのに。

 庭は広い。外に出たのがずいぶん久しぶりだと、しばらく朝日を浴びながらぼんやり思った。

「ヘンリー?」

 声は、背後からかけられた。

 振り返って、予想通り銀色の人を見出す。室内でしか彼を見たことがなかったせいか、光と風を身に纏う様は別人のように感じられた。

「どうして……いや」

 ファウストは、ゆっくりと近づいてきた。心なしか俯きがちで、見覚えている彼とあまりに違ってヘンリーは戸惑う。

「……大丈夫なのか?」

 問いかけも出し抜けで、答えに困った。何に対して『大丈夫か』と尋ねているのかもわからない。

 自然ヘンリーも、視線を足下に落としてしまう。

 明るい日差しと清涼な朝風。けれど沈黙は実によそよそしくて気詰まり。

 ――転がるようなその音が、落ちてこなければ。

「何だ?」

 ファウストが顔を上げる。ヘンリーも同じく頭上に目を向け、空の青さにまず息を呑む。

 それでもよぎっていった影をいくつか、見落とすことはしなかった。

「鳥か」

 つぶやきと一緒に、またあの音が周囲を舞う。

 音――否。

 さえずり、だ。

「ヘンリー? どうした?」

 ファウストが駆け寄ってくる気配がしたが、ヘンリー自身の方がもっと驚いていた。

 どうして、突然、涙が。

 風を感じる。光を感じる。でもそれだけではなくて。

 動いている、世界を感じる。

「ヘンリー……」

 手の温かさは、どこかおずおずと降りてきた。少し前とは雲泥の差だ。

 これは夢かもしれない。あの薔薇を見つけたときからがそもそも、幻だったのかもしれない。

 そう思ったから、しゃくり上げそうになるのを必死で堪えて、尋ねてみたのだ。

「薔薇は……あなたですか?」

「え?」

 触れている手が、びくりと跳ねた。

「……ああ、その……」

 答えは、なかなか返ってこない。

「……不要だったか?」

 ようやく寄越されたのは、臆病な問いかけで。

 おかしくなって涙が、止まってしまった。

「いいえ」

 手の甲で目元を擦る。涙の残る目に、朝日は少し眩しかった。

 でも、今はそれが嬉しい。

「ありがとうございました」

 動き出した。

 生きている。

 そう、思うことができる。

 ファウストは、何ともいえない表情をした。笑おうとしたのか、泣き出すところだったのか、ヘンリーが判断する前にそれは消える。

「食事の用意をさせる。……少しでいいから、食べてくれ」

 声音だけはその名残をとどめていたから、素直に頷くことができた。

「はい」

 背中の手に、力がこもる。中へという意思表示なのだと悟ったから、ヘンリーは歩き出す。

 光が温かいと知ったのは、初めてだった気がした。


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