4.
じっとしていると、過去が忍び寄ってくる。
べったりと張り付いて離れてくれないそれらから逃れたくて、ヘンリーは闇雲に広い屋敷を徘徊した。
前に一度連れてこられたファウストの住み処と、どうやら同じ場所らしかった。記憶を頼りに玄関に辿り着く。試しに開けようとしてみたが、鍵がかかっていた。
そもそも、外に出たからといってどうしようもない。行くあてもない。
――逃げられない。
扉から離れて、彼はとぼとぼと階段を登った。
ファウストはいない。いつ、どこへ出かけていったのかもわからない。今日が何日なのかすら不明だ。
何もかも、ヘンリーからは切り離されている。
今はいつなのだろう。外では何が起きているのだろう。ここはどこなのだろう。
これから、一体、自分は。
視界が揺れた。階段の途中で、膝が崩れる。身体のあちこちをしたたかに打ったが、落下は免れた。
もっとも、一階まで落ちて打ち所が悪かったとしても、何一つ心配はいらないのだが。
「間抜けだなお前は」
声が降ってくる。
どこかから、突然沸いたかのように。
「まともに歩くこともできないのか」
抱き上げられたあとに、振動が伝わってくる。二階へ登り、どこへ連れて行かれるのかをヘンリーは一切考えなかった。
「また、食事を採っていないな」
部屋に入る。寝台に寝かされ、意外な親切心を発揮したのか声の主は靴まで脱がせてくれた。
「いくら俺から力が巡るとはいえ、自分で摂取するのも必要なのだぞ。俺が消耗する」
「……」
答える気力もない。何より、何と答えていいかわからない。
「ヘンリー」
頬に、男の手が触れた。冷たくはない。温かくも、ない。
「……辛いか?」
辛い。
何が。
現状か。それとも、ヘンリーが様々なものを失ったことか。
辛いのだろうか。
心の中はどこまでも空虚なのに、涙だけはなぜか目の奥から滲んでくる。
「辛い……んだな」
勝手に答えを手に入れて、手は頬から額を、髪を、目尻を撫でていく。
「ヘンリー……」
低い声。躊躇いと、それ以上の想いを裡に秘める。
知っている。こんな風に、呼んでくれた人がいた。想いの名前を知りながら、それを暴くのをヘンリーは恐れた。
知っていたから。
「辛いなら……」
顔の上に、影が落ちる。ぎし、と耳の横できしる音がした。
息が、止まる。
「俺に、縋ればいいものを」
近づいてくる。降りてくる。
圧される。迫られる。
――これ、は。
「や――っ!」
自分でも恐怖すら感じるくらいに、身体が強ばった。
苦しい。酸素が入ってこない。息ができない。動けない。
逃げられない。
「ヘンリー? どうした?」
いやだ。触らないで。近づかないで。
「ヘンリー!」
揺さぶられて、悲鳴が飛び出した。その拍子に呼吸もできるようになったが、突然入ってきた空気のせいでひどく咳き込んだ。
苦しい、けれど。
戻っている。
「……それほどに、お前は」
呼吸のリズムを戻そうとしているヘンリーの肩に、ふわりと掛布が降りた。
風を感じる。圧迫感は、遠ざかる。
「休んでいろ」
そうして、ヘンリーは。
一人に、なった。




