3.
「眷属?」
黒い髪の青年は、口元へ運ぼうとしたカップを中空で止めた。
「うん。相手は悪魔だから、アレクス達とはちょっと違うのかもしれないんだけど」
ノアは自分に供された茶にも菓子にも手をつけないままで、じっと青年に視線を注いでいる。
青年――アレクスは、カップを受け皿に戻した。
「悪魔も天使も堕天使も、根本は同じだ。変わらない。知ってるだろ? 落ちた神と天使の真相は」
「ああ……」
頷いて、ノアはかつて聞いた物語を記憶の中から掘り起こそうとする。
「確か、絶対神の後継者二人のうち、片方が謀反を起こしたんだとか」
「ああ。自分の片割れに名前をつけることで属性を与え、弱体化させた」
世界の自我であるノアでもすべてを正しく理解できているかは自信がないが、天使というのはそもそも精神体らしい。時と場合と自分の意思に応じて人間のような物質の属性を取ることができるが、たいていは限りなく精神体に近い存在として在るのだという。
そんな彼らの存在をより安定させるために、『名前』がある。彼らにとって名前とはただ個々を区別する記号ではなく、自身という属性そのものを焼き付けるための何より大切なものらしい。力と意思を込めて名を呼べばそれは立派に魔法となり、呼ばれた者を意のままにもできるとアレクスは言っていた。
だがそんな事態が軽々に起きては一大事だから、彼らは互いの名を明かし合うことで牽制に変えているという。喩え不心得者が不埒を働いたとしても、次の瞬間同じようにされるという危険は消去できないわけだから、抑止力にもなるという理屈らしい。さらに力の上下も関わってきて、たとえば下位の天使が上級の天使を名前で拘束するようなことは不可能なのだそうだ。
逆に言えば、名を持たなければまったく何者にも縛られず、最強にもなるということだ。
神の後継者達は当然ながら、どの天使よりも強い力を生まれつき授けられていた。だが血迷った片一方が、己の兄弟に名前をつけることで弱体化させ、そればかりか天界と対を為す世界――魔界へ放逐してしまったのである。
名付けられた後継神は、サタナエル。彼を守るために一緒に魔界へ堕ちた者達が、後に堕天使と呼ばれるようになった。
「ああそうか。だから天使の眷属も堕天使の眷属も、なり方というかそういうのは」
「まったく同じだ。まあ、どちらもあまり眷属を持つようなことはしないらしいけど」
「天使はともかく、堕天使はね。通りが悪いし、たいていの人間にとっては恐ろしいだろうし」
「それもそうだけど、基本的に禁止されてる。直接介入禁止の掟に触れることでもあるし」
俺が特殊なんだ、とアレクスは続けた。
「眷属を持つと、主の力が増幅されるんだ。大戦の時、それを目的で眷属を持った奴があまりに多かったから、以降禁じられたらしい」
だから本来ならアレクスなどは厳罰ものなのだが、彼の今の立場を考慮して特例措置ということで見逃されたのだという。
「なるほどねぇ」
頬杖をついて、ノアはぼんやり呟いた。
アレクスは改めて紅茶をゆっくりと飲んでいる。
美しい青年だ。ルシファーも美貌だが、まったく受ける印象が違う。黒い髪は長さこそ不揃いだがとても艶やかだし、知性の溢れる金の瞳は怜悧だが決して冷たくなく、むしろ優しくて温かい。彼のそばにいると安心できるのは、そういった彼自身の持つ雰囲気もあるのだろうが、ノアにとってはもう一つ理由がある。
今は隠されているが、アレクスの背には羽根がある。月の光にも似た大きく力強い銀翼が。
ノアは『生まれた』時からずっと、彼に守られてきたのだ。
「お前の兄の話は聞いたよ」
半分ほど中身を残したカップを、アレクスはかちゃりと戻した。
「どうしたい? 今でこそ魔王が平気で道ばたで買い食いしてたりするようになっているが、あいつの部下達が度を超す行動をするようなら俺にも責任がある」
「うん……」
ノアは、目の前の琥珀に視線を落とした。おいしそうな薫りの紅茶は、少しずつ冷め始めている。
「正直ね、わからなくて。もしファウストをとっちめて兄さんを家に連れて帰ったとしても、きっと兄さんは……つらいだろうし」
ノアは世界だ。干渉はできなくても、ずっと視ていた。
兄が辛そうにしているのを。泣いているのを。――壊れていくのを。
それに。
「今となっては、兄さんを支えられるのは……悔しいけど、あいつだけなんだ」
どんなに歪んでいても、この世界の誰より兄を一番想っているのは、兄を壊した元凶であるあの悪魔なのだ。
ノアには、理解る。
ふわりと、髪の上に温もりが降りるのを感じた。
「すべてがわかって、感じられるのは……辛いな」
いつの間にか席を立って、アレクスはノアを抱き寄せてくれた。
いい匂いがする。
甘くて、夢のようで。
「……ありがとう」
「俺はこの世界の、ノアの守護天使だからな」
撫でてくれる手と温かい肌を感じながら、ノアは目を閉じる。
この天使が降りてきて。この天使に名前を与えられて。
『ノア』は始まったのだ。