19.
ファウストは、眠っていた。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋で、ヘンリーはただじっと座って彼の目覚めを待った。
寝息もほとんど聞こえない。心配になって、顔の上に手をかざす。指先に、本当に微かに生きている証を感じて安堵する。
そう言えば。
彼が眠っている様など、初めて見た。
もう、半月は一緒に暮らしたはずなのに。
「いや……」
そうではない。
心が添うことなど、一度もなかったに等しい。
彼を、彼として意識したことがなかったのだから。
毎朝届けられた花も。
触れられる手も。
見つめる瞳も。
――なぜか、この人そのものなのだと思っていなかった。
「ファウスト……」
世界黄金律。すべてを支える柱。
この人は、いったいどれほどのものをそこへ購ったのだろう。
――と。
閉ざされていた瞼が、動いたような気がした。
「ファウスト?」
思わず、腰を浮かせる。
そうしてそれは幻覚や勘違いではなく、すぐに銀色の目が薄闇の中に現れる。
「……ヘンリー?」
まだ微睡みから抜け出していない、ぼんやりした声が彼を呼ぶ。答えるべきかを迷っている間に、ファウストは。
動いて、いた。
「いい夢だな……」
掛布から忍び出た手が、伸びて。
触れた。
頬に。
動けなくなる。息もできなくなる。
――触れたく、なった。
温かい。
「っ、ヘンリー?」
今度こそ本当に覚醒したファウストが、身体を起こすのと一緒に手が離れていく。
泣きたくなったのは。
「ど、どうした?」
寂しかったからだ。
だから。
「な……?」
そのあと起きた事にファウストももちろん驚いただろうが、ヘンリー自身の方がもっと当惑していたことだろう。
すがりついて、しまっていた。
「どうしてここに……?」
その証拠に、我に返ったのはファウストの方が早かったのだから。
「ちゃんと――」
帰ったのか、と訊きたかったのか。
望み通りだったか、と訊きたかったのか。
いずれにせよ、彼は言葉の最後を濁したまま口をつぐむ。
問われたところで、ヘンリーに答えられるはずはなかったが。
ヘンリーが動く様子がないのを感じたのか、おずおずとファウストは身じろぎした。腕を、背中を躊躇いがちに包む腕を感じ、目を閉じる。
温かい。
「どうしたらいいのか……」
強い肩に頬を預けたまま、ぼんやりと彼は言った。
「どうしたらいいのか、今もわからなくて」
ファウストは沈黙したままだ。ただ、腕の力は強くなる。
「憎んだり怒ったりするのが、当たり前なんだろうけど……」
「そうだな」
「どうやっても、俺にはできない」
あの頃が辛くなかったわけではない。どれだけ泣いたかも、すでに覚えていない。
でも、それ以上に、嬉しかった。
兄の気持ちが。
そして。
この、温かさが。
「恨むことで失われるかもしれないのなら……俺は、今の方がいい」
哀しい出来事の裏には、深い情愛があった。絶望的なあの瞬間のあとには、今がある。
「ありがとう。家族を……もう一度、与えてくれて」
帰る場所ができたことが、この上なく幸せ。
紛れもなく、それは真実だ。
抱擁が、さらに強くなる。涙が出そうになって、慌てて顔を伏せる。
うるさいほど騒ぐ鼓動を、どうにかやり過ごしてから。
両手を持ち上げて、震える背中にそっと触れた。




