17.
「ここだよ」
魔王を名乗る男がヘンリー達を連れてきたのは、巨大な門の前だった。ちなみに、目を閉じろと言われてその通りにしたら、次の瞬間彼らはここに立っていた。いったい何をしたのか、何が起きているのか見当もつかない。
確かなのは。
ヘンリーは、そっとノアを覗った。世界でもある弟は、力強く頷きかけてくれる。だから彼は、男のことも信じることにした。
門をくぐって、また驚いた。家までの距離が、相当遠い。車でも使わなければ、辿り着くのに何十分かかるだろう。
「歩くの平気かい?」
「ええ……」
「よかった。ならちょっと話しながらいこう」
ルシファーは、ゆっくりと歩き出す。綺麗に掃除の行き届いた芝生の中の石畳に、少しの間三人分の靴音だけが響いた。
「ファウストを許せとか、理解しろとは言わないよ」
やがて寄越された言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「いくら契約とはいえ、君は傷ついたんだろうから。あれのしたことや言ったことを、無理に受け入れようとしなくていい」
ヘンリーは、咄嗟に答えられなかった。
魔王のいうのは、兄ジェイムスとファウストが交わした『契約』のことだろう。兄の望みを叶えるために、ファウストは影から様々な工作を行い、その結果ヘンリーは生きてきた過程や意味のすべてを失った。
ノアがいなければ、家族と共に過ごす時間は二度と得られなかったかもしれないのだ。
でも。
元凶である兄やファウストを憎んでいるかと問われたら、それは否だ。
「受け入れているのとは……違うと思います。ただ……憎むことは、できない」
彼らのことを考えると気、真っ先に頭に浮かぶのは、向けてくれた温かい想いだ。
指輪のはまった薬指を見る。かつてあった青も、今ここにある緑も、手放そう忘れようとはとても思わない。
思えない。
「せめて怒ってもいいと思うんだけどねぇ」
ルシファーの声音から感じた響きが呆れだったのか、それとも違うものだったのか、ヘンリーには判断できなかった。
「まあ、ノアが放っておけなかったのもわかるよ。……うちの馬鹿な部下が、入れ込んだ理由もね」
魔王は、少し笑ったようだった。
「じゃ、次はこの家について話そうか」
そして話題は、彼がここに来てからずっと抱いていた疑問へと移った。
「ここは、エリー館というんだ。私達のような――まあ堕天使だね、あと悪魔も出入りしているけれど、住人はほぼ天使で占められている」
常軌を逸したことを、さらりと彼は言ってのける。もっとも、ヘンリーのほうも今更驚いたり疑ったりすることはない。悪魔がいるからやはり天使もいるのか、とぼんやり思っただけだった。
「でも、この館は実は相当特殊なんだ。私達のような存在の力から何からすべて封じる事ができる。むしろ、私達を殺すために作られた要塞らしい」
「殺す……?」
「天使も、堕天使も、悪魔も――神すらね」
それには。
さすがに、言葉を失った。
「神を……?」
「今はそういう気はないみたいだけど。そもそも、彼らの敵は私達とは微妙に違ったらしい」
頭がくらくらしてきた。ノアが背中を支えてくれて、今集中すべきはこんな壮大な話ではないのだと思い出す。
そう、今は。
「それで……ここへ俺を連れてきたのは」
ああそうそう、と魔王は気楽な調子で手を打った。
「ファウストはここで療養してるんだよ」
療養。
胸の内に、その一言がぽつんと黒い穴を開ける。
「療養……って」
家族に会いに行った日。最後に彼を見たときは、どこが悪い様子もなかったのに。
「ノア、全部話していいかい?」
「……ええ」
弟はすぐ背後にいる。顔は見えない。近すぎて。
「わかった」
頷いて魔王は、足を止めた。
「君の存在を世界にもう一度取り戻させるために、彼は自分自身を代償にしたんだ」




