16.
大きな門をくぐったときから、違和感があった。
「誰もいないのかな?」
ノアも、不思議そうにエントランスを横切る。そのまま入っていったリビングにも、いるはずの人の気配はまったく影も形もなかった。
「ファウスト?」
呼ぶ声も、広い家の空気に吸い込まれて消える。
ただ少し、外出しただけなのかもしれない。普通に考えれば、それが一番あり得ることだ。
なのに。
「……兄さん」
「大丈夫……」
よほど不安そうな顔をしていたのだろう。ノアが肩を抱いてくれるのに、ヘンリーはようやく微笑んで頷き返す。
胸が、苦しい。
気のせいだろうか。
「ちょっと座ってて。家の中調べてくるから」
彼をソファーに残し、ノアは一階部分をざっと見て回る。そのまま二階へ上がっていく姿を見送ってしまうと、胸の圧迫感はますます強くなった。
つい五分前までは、家族と一緒に過ごせて穏やかな気持ちだった。何も心配なことはないのだと、傍らの弟を頼もしく思っていた。
でも。
大きすぎる空白に一人取り残されている今は、束の間の安寧すら容易に奪っていってしまう。
一人。
思わず、強く身体を抱いていた。
一人なのか。
自分は。
「ファウスト……!」
彼がいないことが、存在を感じ取れないことが、どうしてこんなに不安なのだろう。
――怖いのだろう。
「ここにファウストはいないよ」
知らない声が頭上から降ってきて、ぎくりと顔を上げる。
直後、ヘンリーは息を呑んだ。
「あれは弱っているのでね。世話をするためにも強制的に連れて行った」
ほとんど表情らしいものを浮かべていないのに、目を離せなくなるほど強烈な美貌。白皙の頬を縁取る長い黒髪は塗りつぶされた夜のよう、それを惜しげもなく無造作に払いのけ、その男は言葉を継いだ。
「どうする? 数日経てば帰ってこられるが、お前が看るかい?」
手が、伸びてくる。だが動けない。
緑の双眸がきらきらと輝いて、あまりに綺麗で、視線すら逸らすことができない。
誰だ。この男は。
「ルシファー!」
階段の中途辺りから、ノアが叫んだ。
「ああ。いいところに。ファウストのこと、探してるんだろう?」
「ええ……あなたのところですか?」
どうやら、ノアと知り合いのようだ。それで少しほっとした途端、頭の中で引っかかるものがあった。
ルシファー。
男の名前か。
だとしたら。
まさか。
「あ、兄さん。一応紹介するね。このひとこう見えても……」
「ども。魔王やってます。ルシファーです」
その肩書きと、それに付随する一般的なイメージを完膚無きまでに裏切る軽さで、男はにこやかにのたまった。




