14.
扉を開けて、まずヘンリーを出迎えたのは末の弟の明るい声だった。
「ノア、ヘンリー!」
屈託のない笑いと一緒に、細い身体は思い切りぶつかってくる。いささか乱暴な抱擁を危うく受け止め損ねそうになったのを、ノアが後ろで支えてくれた。
「セシル、危ないよ。転んだらどうするの」
「いいじゃん。これくらいで怪我なんかしないって。うちの絨毯分厚いんだから」
「そういう問題じゃないよ」
セシルとはそれほど年齢が違わないのに、ノアの物言いはもっと大人びている。今までそれは、末弟が年よりも幼いせいなのだと思っていた。
でも。
「ちぇっ。ごめんよ、ヘンリー」
「いや……」
叱られてしゅんとしている弟をなでてやると、ノアは困ったように眉値を寄せる。
「兄さん、甘やかしすぎるのはよくないよ。悪いことしたら注意しなきゃ」
「それはもう、ノアがやったじゃないか」
「じゃあ僕は汚れ役ってこと?」
ひどいなあと言いながら、それでもノアの笑みには柔らかさしかなかった。
彼のそんな落ち着きを、十代の初めからアーティストとして活動し、年上の人間の間でもまれてきたせいだと考えていた。ずっと。
「兄さん、部屋に荷物置いてこよう。セシル、夕食までは時間あるよね?」
「うん、六時から」
「わかった。行こう、兄さん」
黙りこくっていたヘンリーを促して、ノアは階段を登っていく。辿り着いた廊下を右へ曲がって、突き当たり。そこが、ヘンリーの部屋だった。
「大丈夫。『契約』の前に戻ってるよ」
立ちすくんだヘンリーを励ますように、ノアが囁いてくれる。
ヘンリーは、震えて動きの覚束ない手で、そっと扉を開けた。
正面の大きな窓から、まだ朝の慎ましさを残す日の光が真っ白く流れ込んでいる。右の壁際にはベッド、反対側にはパソコンを置いたデスク。そのそばには大きな本棚もある。
――あの日、飛び出したときのままの部屋だ。
「大丈夫?」
ノアの手が、背中に添えられる。頷きを返すのが精一杯だった。
もう二度と、戻ってくることはないと思っていた。
昨日、自分の周りで起きていたことすべてを聞いて、戻れるものなら戻りたいと願った。
この部屋へ。元通りの日常へ。
平穏な世界へ。
「兄さん……」
涙で足下すら見えなくなる。ノアが優しくいざなって、椅子に座らせてくれた。
「ごめん……ノア」
縋った肩は、細くて小さい。
今でも信じられない。この華奢な双肩が、世界を支え守っているなんて。
見守られて、いたなんて。
「辛いなら、我慢しなくていいからね。僕がいるから」
髪を撫でてくれる手。温かくて、何と慈愛に満ちて。
ヘンリーがファウストと交わした契約は、『ヘンリーが存在するせいで歪みが生じた家族の関係を、修復すること』。家族の中でヘンリーは、「最初からいなかった人間」となった。
ジェイムスが長いこと執着した、腹違いの弟。
アーティストとして活躍する双子の、親友。
両親に縁の薄い幼子達を守った、年の近い兄。
彼らとヘンリーとの関係は、すべて抹消されたのだ。
それをノアは、違う形で復元すると申し出た。
つまりそれが、現状だ。
「ノア……」
本当は、まだ少し怖い。ジェイムスやルイ、ジェラールが、ヘンリーに会ってどんな反応を示すのか。
だから、なかなか顔を上げられない。情けないと思いつつ、一人で立ち上がることもできない。
「大丈夫。わかってるから」
世界そのものだという弟の言葉が、ありがたくも悲しい。
「少し落ち着いてから、シャワー浴びて下へ行こう? 大丈夫、全部兄さんの望んだようになってるからね」
望んだように。
それは。
どんな、世界だろう。




