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13.

 ファウストの力で眠っているヘンリーを、ノアは泣き出しそうな顔で見下ろしていた。

 予想すらしていなかった。こんなことになるなんて。自分の楽観が今更許せなく思われる。

「どうすれば……」

 ファウストは、椅子に座って頭を抱えていた。憔悴の色が濃い。しかしノアは、なんと言葉をかければいいのかわからず、結局唇を引き結ぶ。

 どうすればいいのか。ノアにだって、わからない。

 どうすれば、ヘンリーの恐れを取り除いてやれるのか。幸せになってもらえるのか。

 わからない。

 そもそもヘンリーは、何を望んでいるのだろう。

「兄さん……」

 兄の髪に触れたところで、ノアは躊躇う。

 世界自我だからといって、赦されることではない。他者の心を暴くなんて。

 でも。

 でも。

「ファウスト」

 のろのろと、視界の端で銀色が動く。心を決めたわけではない。そんな覚悟は、できていない。

 ただ、怖くて。

 不安で。

「僕……兄さんに何ができるのかな」

 ぽつりと、そんな言葉をこぼしてしまった。

「兄さんを助けたい、力になりたいって思うのに……思うばっかりで、僕には何もできてない……」

 特別な力はあっても何の役にも立たない自分が、情けない。

「……世界自我よ」

 後ろから、肩に触れる手があった。

「俺ではもう駄目だ。お前にしかできない。……頼めた義理ではないが、引き受けてくれるだろうか」

 ノアは、ゆっくりと振り返った。

 銀の双眸が、苦悶と懊悩に揺れている。

 その狭間に、確かに見たと思った。

 深い悲しみと、――情愛を。

「何を……すればいいんですか?」

 尋ねると、それはさらに憂慮を増した。けれども言葉は端的に抑揚なく、はっきりと寄越される。

「家族のところに、連れて帰ってやってくれ」



 朝日がカーテンの隙間から忍び入ってくる。その一筋がそっと金の髪を撫でるのと同時に、ヘンリーはゆっくりと目を開けた。

「兄さん」

 兄を驚かせないように、ノアは小さな声で呼びかける。まだ完全に現に戻ってきていない青い目はしばし虚空を彷徨っていたが、すぐに大きく見開かれヘンリーは勢いよく身体を起こした。

「……ノア?」

「うん……ごめん、勝手に部屋に入って」

 こうして顔を合わせるのは、ずいぶん久しぶりだ。あの事件があったときも、ノアは自宅どころかアメリカからも離れていた。

 だから。

「に、兄さん!」

 はらはらと泣き出した兄を前にして、どうしていいのかひどく戸惑ったのだ。

「兄さん……どうしたの? 大丈夫?」

「ノア……!」

 駆け寄るなり、兄の腕が強く巻き付いてくる。反射的に緊張したが、耳元でしゃくり上げる声を聞いて、ふりほどくことなどできるはずがなかった。

 背中を、肩を、髪を撫でてやる。それでもなかなか、震えは止まらない。止まってくれない。

 そうして寄り添っているうちに、ノアも瞼が熱くなる。喉の奥から何かがせり上がってきて、息が苦しい。

「……大丈夫か?」

 しばらくして、頭にそっと触れた兄の手は、もう震えていなかった。

「ごめん。取り乱した」

 あんなに泣いていたのに。きっと相当、苦しかったことだろうに。

 この兄は、誰かが泣いていると自分の涙をひたすら堪えるのだ。

「兄さん……」

 少しだけ身体を離し、改めてヘンリーを見つめる。

 頬は涙でぐっしょり濡れて、目の縁は真っ赤だ。

そして、ノアと同じ色の瞳は。

「辛いなら……もっと泣いてよ、兄さん」

 直視できなくて、ノアは兄をもう一度抱きしめる。あやすように背中を撫でていると、次第にその身体から強ばりがほどけていくことに心底安堵した。

 ようやくヘンリーが落ち着いたのは、朝の気配がそろそろ遠ざかろうとする頃。

「兄さん」

 涙でひどく荒れてしまった兄の頬を、濡らしたタオルで優しく拭いてやりながら、ノアは問うた。

 運命の分岐を。

「あの出来事が何もかもなかったことになるとしたら、家へ帰りたい?」

 泣きはらした目をいっぱいに見開いて、ヘンリーは。

「……どういうことだ……?」

 喘ぐように、ようようそれだけを口にした。


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