12.
薬指の、エメラルドを見る。
契約の印として、ファウストがはめたものだ。
かつて、この指にこうして愛の証をもらえたらと、無心に憧れていた愚かな時期が懐かしい。
ベッドから起き上がり、ヘンリーは廊下に出た。
レマはいつの間にかいなくなっている。この屋敷にファウストの力が満ちているなら心配はないだろうが、様子を確かめておかなければ。
それにしても、いったいあの子はどういう存在なのだろう。ファウストがここへ連れてくるのだから、もしかして人間の子供ではないのかもしれない。
そう、そういえば、自分はどうして眠っていたのか。
いくら何でも、幼児と遊んでいて突然眠気を覚えるなんて、不自然だ。
「起きたのか」
扉が開く音と、聞き覚えのある声。
ファウストが、レマを抱いて出てきたところだった。
「レマ」
ほっとする。レマは男に抱えられてすやすやと寝息を立てていた。
「こいつを送ってくる。少しの間留守を頼む」
「……はい」
銀の目からは、感情を読み取るのが困難だ。
でも。
「では、な」
伸びてきた手が、本当に気をつけながらヘンリーの髪を撫でていって。
ヘンリーの方が、よほど恥ずかしくてどうしていいかわからなくなる。
それが、彼の気遣いなのだと、もうわかるようになったから。
怖く、なくなったのだ。
俯いてしまったヘンリーを残し、悪魔と幼子は外へ出て行く。
溜息をついて、薬指のエメラルドを見る。
美しくも禍々しい、不吉なまでに澄んだ翠色。
かつて、同じ指にまったく違う輝きがあった。
深い蒼い色、銀に抱かれて、端然と。
――お前の、この指に。――
そう、口にした人。
――指輪をはめる、最初の男になりたかった。ずっと……。――
優しい人。何があっても、愛し続けていてくれた人。
ヘンリーが、ずっと欲していた物を、初めて与えてくれた人。
呼吸が止まった。立っていられず膝をつき、その拍子にばたばたと何かが絨毯の上にこぼれ落ちた。
涙、だ。
七日間。たったの七日間。
今はもう、それすら世界のどこにも残されていない。
きっと消えていく。ヘンリーの中からも、いつかきっと。
消えてしまう。
時は、流れるから。
自信がない。いつまでも抱きしめて守っていられるなんて。
「ヘンリー!」
強い力で、肩を掴まれ揺さぶられる。滲んだ視界で、それでも銀色の鮮烈さははっきりと見て取れた。
この腕、この強さ、温もり。
世界が揺らぐ。目の前にあるものだけでなく、心が辿ってきた過ぎし時までも。
あの夜願ったこと。
月の明るさ、軋んだベッドの音。
初めて口づけた、あの。
「ころして……」
喘ぐと、彼を支える手がぎくりと震えた。
「お願い……ここで殺して」
きっと消えてしまう。忘れてしまう。
時は、流れるから。
「ヘンリー……!」
抱きしめられ、声も息も止められる。
けれど想いだけは、音を伴わないままに、溢れ続けた。