11.
ヘンリーが眠ったのを見計らい、幼子はよちよちと部屋を出た。そして辺りを見回すでもなく廊下を進み、目指す一室の扉を叩く。
「……何をしに来た」
扉を開けた男は仏頂面で、それでも幼児を招き入れる。
「にいた、ねんね」
「眠らせたか」
ならばしばらくは様子を見なくても大丈夫だろうと、銀髪の悪魔は椅子に座り直す。子供は彼の向かいまでとことこと歩いていって。
空気が、震えた。
空間ごと。
ファウストですら一瞬の威圧を感じたが、すぐに変異は収まった。
ただ一つをのぞいて。
「まったく望み薄ではなさそうだぞ」
幼子のいた場所には、まったく違う影がひっそりと佇んでいた。
「経緯を考えれば奇跡的だな。だいぶ揺らいでいるようだ」
成熟しきっていない少年の声なのに。
威厳と落ち着きは、不相応なほど備わっている。
ファウストは歯を食いしばり、怖じ気づきそうになる己を叱咤する。
年格好は、先ほど会ってきたサナと同じ。それだけでなく、髪と目の違いをのぞけばサナと瓜二つだ。しかしサナが明るく気さくなのに対し、この少年は表情に乏しく、それだけに美貌が際立っているように見える。
印象は、正反対だ。
いや、感じる雰囲気、その力の質までも。
「悪魔に俺の気配はきついか?」
「……問題ない」
それが強がりであることを、見破られたかもしれない。少年はくすりと笑ったが、賢明なことに不必要な発言はしなかった。
「それより、話を聞こうか」
「ああ」
金の瞳の輝きが、増したような気がした。
「そこで聞いているんだろう? 世界自我」
――突然呼びかけられ、ノアの意識は急速にそこへと引き寄せられた。
ノアは世界そのものだ。普段は適度に遮断しているが、この世界で起きることのすべてを彼は意識無意識問わず受け止めている。
そして世界自身であるゆえに、どこにでも瞬時に姿を現すことももちろん可能なのだ。
「子供相手なら確かに、さらっと本音を漏らすこともある。考えましたね」
「俺自身の不便を最大限利用してやったんだ。ありがたく思え」
「はいはい。ありがとうございます。――レマ」
少し前まで幼児の姿をしていた少年は、軽く肩をすくめただけだった。
ヘブライ語の名を持つ彼は、サナの双子の兄弟だ。こうして話のできる姿で会う度に、ノアは意外な想いを感じずにはいられない。
サナの片割れ。すなわち、サナに名付けを行い弱体化させ、魔界へ放逐した当人なのだ。
レマという名は、ごく最近になって力を付けたサナが片割れに与えたものだ。その行為によりレマもまた力の大半を失い、さらには彼らの父である絶対神が、懲らしめのために制約を課した。
それこそが、あの幼子の身体である。
こうして少年の姿になれるのは、一日三時間だけ。その貴重な時を無駄にしたくないようで、レマはファウストに向き直った。
「お前が自分を好きなことも、充分伝わっているようだった。あと、お前のことは嫌いではないと言っていた。よかったな」
「……そうか」
答えは素っ気なかったが、ノアははっきりと認めた。
ファウストの血の気の薄い頬が、ほんのり染まっていたのを。
「で、何が障害になっているか、だが」
レマの声が、低くなる。つられてノアとファウストも身を乗り出した。
「成就の寸前で常にもぎ取られてきた過去、だろうな」
だから、告げられた言葉の内容は、ノアにとっては少し拍子抜けだった。
「それはもうすでにわかってたことじゃないですか。トラウマになってるって」
サナともそんなことを話したばかりだ。
しかし、レマは馬鹿にしたように鼻で嗤う。
「だから、だ。お前達は勘違いしている。あれは、『好きになることが怖い』ではなく、『好きになったあとで捨てられるのが怖い』だ。この違いがわかるか?」
試すような口調につい悔しくなって、ノアは考え込み。
「――あ!」
短く叫ぶと同時に、レマを振り返った。
「……だからどうした」
当事者のくせに鈍い男に、答えを教えてやるべきかと一瞬躊躇ったのは、別に意地悪な気持ちからではない。
口に出すのが、あまりに馬鹿馬鹿しかったからだ。
「『好きになったあとで捨てられるのが怖い』。これ、何を意味しているかわかります? 逆に考えてみてください」
「逆?」
しかしファウストは、訝しげに眉根を寄せるだけだった。
考える気はあるのだろうか。いや、きっとない。
ノアは悩んだ。
こんなことすらわからない石頭というか朴念仁には、答えを簡単に教えたくはない。せいぜい悩んで自分で気づけと思う。
だが。
ファウストが答えを見つけるまでの間、ヘンリーが苦しむのだ。
「……しょうがない」
兄への心配が、ノアの中で勝利を収めた。
「『好きになったあとで捨てられるのが怖い』。つまり、『好きだけど、捨てられるのが怖いから深入りできない』ってことじゃないですか」
「……」
「……」
すごい沈黙が落ちてきた。時間の長さもさることながら、空気の重さが痛いくらいだった。
「……ああ」
呟いたファウストに、レマは呆れたように鼻を鳴らし。
ノアは、いっそこの悪魔世界自我の全力を賭けて魔界に封印しようか、などと本気で考えた。