1.
「あなた、馬鹿でしょう」
話を聞き終えるなり、彼は思いきりそう言い放ってやった。
「……何を言うか」
「だって馬鹿ですよ。普通あんな目に遭ってすぐ頭切り替えられますか? あの人は我慢強いけど、だからって何も感じてなかったわけじゃないんですよ」
ノアは溜息をついて、目の前に座る男を睨みつけた。
銀髪に銀の瞳の美丈夫だ。纏う雰囲気は洗練されていて、優雅といっていいだろう。だが今は、憮然と眉を寄せて無言のまま紅茶をすすっている様がどこか拗ねた子供のようだった。
「だいたい、契約が絶対だからって契約主を利用して漁夫の利かすめ取っていく悪魔ってどうなんですか。ルシファーに言いつけますよ」
「……契約を破っていない以上は処罰の対象ではない」
まあそれはそうなのだが。
ノアにだってわかっている。
悪魔の王は、実はかなりちゃらんぽらんだということも。
天使と悪魔、そして神。
かつてはあがめられたり忌まれたりしてきたこれらが、本当に存在しているなどと主張したところで、一体どれだけの人間が信じるだろうか。また、どれだけ信心深い者だとても、彼らにまみえる確率など皆無に等しいだろう。
だが。
日本の、エリー館という家の住人達は、実は半分以上天使で構成されていたりする。
どうしてそうなったという経緯は気が遠くなるくらい長いし複雑なのだが、ある日一人の天使が偶然この世界に降りてきたのがそもそもの発端だった。
ノアは今でも、あの瞬間を忘れない。何があっても忘れることなどできないと思う。その天使が世界に名前を与えてくれたからこそ、今の自分がここにあるのだから。
「ノアよ」
重苦しい沈黙を経て、男はようやく口を開いた。
「では私は、あれをお前の――お前達の元へ帰せばよいのか?」
「馬鹿ですねあなた」
待たしても思いきり言い切ってやると、男は口の端を引き下げて無言で先を促してきた。少しは自分で考えろといらいらしたが、結局ノアは言葉で伝えてやることを選択した。
この男のこれからで、運命を左右される人がいる。
「いいですか? あなたが新たに契約を履行したことによって、彼の周囲はみんな綺麗さっぱり彼という存在を忘れているんですよ。いや、彼が存在したことが消去されているんだ。そんな中に放り込んでどうするんです?」
「……」
また、男は黙り込む。ノアの苛立ちはますます募ってきて、つい追い打ちをかけたくなった。
「僕がこうして彼を憶えているのは、特殊だからですよ。いわば特例です。自分はちゃんと憶えているのに、相手には記憶すらないなんて、地獄ですよ」
「……だったら」
唸るように、男が口を挟んでくる。
「だったら、そもそもの初めから、お前が阻止すればよかったではないか」
今度は、ノアが黙る番だった。
椅子の背もたれに身体を預け、男から目を逸らす。紅茶はとうに冷めていたが、新しいのを淹れる気にもなれない。
見上げた空は、この場と自分達の気分にはふさわしくないほど晴れやかだ。
「それができたらそうしていましたよ」
それは、絶対的不可避な事項であったはずなのに、言葉にした途端言い訳にしか聞こえなくなることに自嘲した。
「世界が理に則って動いているなら、僕は基本的に干渉してはいけないんです。それはあなた方の契約についても同様ですよ」
「そうだな」
「せいぜい、こうやってあなたに文句を言っていじめるくらいが関の山です」
小さく笑って、ノアは目を伏せた。
気を抜くと、様々な光景が脳裏をよぎる。彼が見るはずのないこと、見えるはずのないことも。
今このとき、世界のどこかで展開されているはずの出来事が。
「不便だな。世界自我よ」
「それでいいんです。歯がゆいですけどね」
ノア。それは、この世界に天使が贈った名前。
名付けられた瞬間、彼は生まれ己を自覚した。
それ以降、彼は世界を巡る命の形を借りて己が守り手達と関わり、また刹那の同胞達と心を交わしてきた。
今の彼は、人間だ。人として生きるための名前は。
――ノア・マクレイン。
「こうやって口を出すことだって、本当は駄目なんだとわかっています。だけど、彼は僕の……ノア・マクレインの兄なんです。このまま不幸の中に閉じ込めたくない」
柔らかな癖のある髪の金色も、双眸の青も、ノアはすぐ上の兄とよく似ていると言われてきた。その相似だけが、兄が優しく接してくれた理由ではないことはずっと身に染みて感じていた。
助けたいのだ。
「お願いだから、兄を幸せにしてください。僕は直接は何もできないけれど、手伝いや忠告なら何でもします。だから……」
「お前に言われるまでもない」
男はにべもなく遮って、立ち上がった。
「あれは私が欲した者。我が花嫁だ。何としても元に戻さねば手に入れた甲斐がない」
「ファウスト!」
ノアも椅子から腰を浮かせ、鋭く男の名を呼んだ。
「憶えておいてください。僕は世界そのものである故に無力だけれど、家族のためには理を曲げる覚悟だってしているんです」
踵を返そうとしていた男が、顔だけでノアを振り向いた。
銀の目は、おもしろいものでも見たかのようにすうと細められている。
「兄一人のために、この世の何かを歪めるか」
「そうせずにすむことを祈っています」
「は!」
せせら笑って、今度こそ男は背を向けて歩き出す。
「お願いします! 兄を、ヘンリー兄さんを――!」
果たして、声は届いていたのかどうか。
男の姿は、一瞬にして消えている。
力なく椅子に頽れて、ノアは額を抱えた。
ファウスト。あの男は、紛れもない悪魔。それなりに上位の力ある存在だ。
天使が降りてきて、この世界に住み始めてから、それを追いかけるようにして悪魔達もどんどんやってきた。それでも特に何事もなく、曲がりなりにも世界自我と差し向かいで茶を飲んだりできるのが現状だ。
だから、ノアは。
意外に優しくてある意味人間以上に純粋な彼らに、賭けてみたくもあったのだ。
「あれ、ファウストは帰ったのかい?」
向かい側に、気配が忽然と現れる。
顔を上げたところに、ノアは背筋が凍るほどの美貌を見出す。
「お菓子のおかわりですか?」
「うん。今日はジャムも作ったからね」
滝為すぬばたまの長い黒髪、白皙の頬に緑の双眸。人の良さそうな笑みさえ浮かべていなければ、整いすぎた顔立ちは冷酷さすら感じさせるだろう。しかし今その身に白いエプロンを着けてほかほかのスコーンを皿に山盛り掲げているのだから、ただの気のいい暇な青年にしか見えなかった。
「案外料理っておもしろいねぇ。魔界でもやってみようかな」
「そもそも植物とか育つんですか?」
あーそれがあったか、といいながら、美貌の青年はおいしそうにスコーンにたっぷりのジャムを塗っている。まったくもって緊張感も威圧感もない。
信心深い人間でも、一体どれほどの者が信じるだろうか。信じてくれるだろうか。
彼こそが悪魔の王ルシファーだなどと。
「ファウストは悪い奴じゃないよ」
楽しげにスコーンを堪能しながら、魔王は言った。
「思いっきり不器用で意地っ張りなだけさ。ほら、俗に言う『ツンデレ』ってやつだよ」
「……またジャパニメーション見たんですね」
「世界共通の萌え要素らしいよ。『ツンデレ』」
「世界自我として異議を唱えさせてもらいます」
げんなりしながらも、ノアは結構このとぼけた魔王とのつきあいは嫌いではない。
仮にも一番偉いはずの存在がこうなのだから、部下だって信じてみてもいいのではないかと、思えるのだ。