異世界自殺論
死んだはずなのに、目を覚ました。これを奇蹟と呼ぶほど私は信心深くなく、幸運と呼ぶほど生に執着してもいなかったから、その事実を認識した直後に胸中へ湧いたものは歓喜でも恐怖でもなく、ひどく事務的な失望であった。失敗したのか、と私は思った。死ぬ直前の記憶はところどころ欠けていたが、自分が生を継続する意思を放棄したことだけは鮮明に覚えていた。そこに壮大な理由はなかった。家族との決定的な不和もなく、莫大な負債を抱えていたわけでもなく、恋人に捨てられたわけでも、余命を宣告されたわけでもない。むしろ、原因と名づけて他人へ提出できるような不幸を持っていなかったことが、かえって私を長く困惑させていた。世間は人が死を欲すると、ただちにその背後へ理由を要求する。失恋なら理解できる、貧困なら同情できる、病なら仕方がない、と原因を一つずつ並べ、本人の内部にあった不可解なものを社会的に解読可能な文章へ翻訳しようとする。しかし私は、自分の生を終えるために他人を納得させる論証が必要であるという考えそのものを、とうに煩わしく感じていた。生まれる際には本人の同意など求められなかったのに、退出しようとすると突然、理由の提出を求められる。入場の自由がなかった場所から退場する自由だけが厳しく審査されるという制度は、少なくとも公平とは言い難かった。
もちろん、だからといって私は死について何かを知っていたわけではない。死を望むという言葉には、考えてみれば妙なところがある。死後の状態を経験した人間はおらず、仮に経験した者がいたとしても、それを生者へ報告することはできない。私が欲していたものは、死そのものというより、次が来ないことだったのだろう。明朝、目覚まし時計が鳴らないこと。返信しなければならない連絡が増えないこと。食事をし、眠り、起き、何かを期待され、何かを期待し、少し失望し、それでも翌日を迎えるという運動が、どこかで完全に途切れること。私は死を積極的な状態として欲したのではなく、継続の停止として欲していた。その程度の自己理解しか持たぬまま私は一度目の人生を終えたはずだったのに、次に意識したものは無ではなく、瞼の裏側から差し込む淡い朝の光と、喉へ入ってくる冷気と、こちらの意志を侮辱するかのように規則正しく動く心臓だった。
身体を起こして、私はようやく異変に気づいた。手が小さい。指には子供らしい丸みがあり、掌には私の知らない傷がいくつか走っている。寝台は粗末な木組みに藁を敷いただけで、壁は土と石、窓には硝子すらない。それでも最も奇妙だったのは、知らないはずの部屋を知っていたことである。扉の向こうには狭い廊下があり、その先に竈があり、裏手には井戸がある。私はそれを見て確認したのではなく、初めから知っていた。エリアスという十三歳の少年の記憶が、私自身の記憶とは決して混ざらぬまま、それでいて必要に応じて自由に取り出せる第二の書庫のように脳内へ存在していたのである。父は二年前に肺の病で死んだ。母の名はマリア。山裾の小村で羊を飼い、薪を拾い、ときどき村の代書人から文字を習っている。三日前から高熱を出して寝込み、昨晩には母親が死を覚悟するほど弱っていた。それらの記憶を辿ったところで、私の意識がこの少年へ移った理由は分からない。ただ、前世で暇潰しに読んだ幾つもの物語が頭をよぎり、私はほとんど不愉快な冗談を聞かされたような気分で、異世界転生という言葉を思い出した。
前世の物語では、転生とは救済の一種であった。報われなかった青年が剣の才能を得、疲弊した会社員が魔術を得、孤独だった男が家族を得る。最初の人生に欠けていたものを第二の人生で補填するという構図は、死後にも人生の帳尻が存在すると信じたい人間には随分と心地よいものだったに違いない。しかし、生きることそれ自体を放棄した人間にもう一度人生を与える行為を、果たして救済と呼ぶべきなのだろうか。食べきれぬから皿を下げてくれと頼んだ客の前に、善意の笑顔でもう一皿運んでくる給仕がいたなら、私はその親切を呪うだろう。もし神がいるなら、この神はどうも同じ種類の善意を持っているらしかった。
母であるマリアは、私が起きているのを見つけると、こちらへ駆け寄って額に手を置いた。「熱が下がってる」と彼女は言い、そして、本当にそれだけのことで泣いた。私はその涙を前にして最初の困難に遭遇した。死にたいという欲望は残っている。それなのに、この女を泣かせることには抵抗がある。前世で死んだときにも私の死を悲しむ者はいただろうに、なぜ今さら他人の悲嘆を倫理的な障害として認識するのか。身体が変われば人倫まで変化するのなら、倫理とは精神の高尚な法則というより、案外、食卓を共にした回数や、病床で額へ置かれた手の温度から出来上がるものなのかもしれなかった。しかし、そう考えたからといって私は生きようとは思わなかった。母親を悲しませたくないという感情と、自分の人生を続けたくないという感情は、互いに相殺されることなく同時に存在した。人間の感情は、論理学の命題ほど潔癖ではないらしい。
回復して一月ほど経った頃、私はこの世界でも一度、生を終えることを試みた。方法について書く必要はないし、後になって振り返れば、十三歳の子供でも思いつく程度の粗雑なものであった。ただ結果だけをいえば失敗した。そのときは偶然だと思った。二度目にも失敗し、三度目にも失敗すると、私は偶然という言葉へ少し疑念を持った。それでも当初は、この身体には何らかの加護があるのだろうと考えた。ところが、薪を割っている最中に不注意から手を傷つければ普通に血が流れ、山道で足を滑らせれば骨を折り、病に罹れば高熱を出す。危険一般から守られているわけではない。ただ、その危険を死の手段として意識した瞬間に限って、結果が妙にずれるのである。落ちるはずのものが落ちず、来るはずのものが来ず、反対に来るはずのない人間が通りかかる。何度実験を繰り返しても、私が「これによって死のう」と認識した行為だけが、いかなる経路を辿っても死へ到達しなかった。
十五歳になる頃には、私は自分の境遇を呪うより先に観察し始めていた。死にたい人間が自分の死ねなさを研究するというのは、ひどく倒錯した営みだったが、ほかにすることもなかった。私は少しずつ条件を変え、意図と結果との関係を確かめた。そこから得られた結論は単純で、しかも耐え難いものだった。私は不死ではない。私は死ぬ能力を持っている。ただし、自分が死を目的にした瞬間だけ、その能力を奪われるのである。この法則を理解したとき、私は世界に対して初めて明瞭な悪意を感じた。生きたい者を救うなら慈悲と呼べる。死にたい者だけを選んで生かすなら、それは慈悲ではなく、意志への介入である。
十六歳で村を出た。母には学問を修めたいと言った。それも嘘ではなかったが、本当の目的は、この世界のどこかに私を殺せるものがないか探すことだった。王都セレネには王立普遍学府と呼ばれる大学があり、そこで私は医学、神学、哲学の講義を受けた。医学者は死を身体機能の不可逆的停止として扱い、神学者は魂が肉体から離れる時点として扱い、哲学者は経験の可能性が断たれる境界として扱った。私は彼らの議論を熱心に聞きながら、そのいずれにも奇妙な傲慢を感じていた。誰一人として死んだことがない。死の専門家という存在は、海を見たことのない航海学者にどこか似ている。しかし、その批判はそのまま私自身にも返ってきた。私は一度死んだつもりでいるが、もし本当に死んだのなら、なぜ今こうして考えているのか。私の前世における「死」は、実際には転生という過程の一部だったのかもしれない。それなら私は生涯を終えたのではなく、部屋を移っただけということになる。死を求めていた男が、そもそも一度も死を経験していなかったという可能性は、笑うには少々残酷だった。
大学でリディアという女に会った。神学を専攻しており、宗教的な熱狂とは縁遠いくせに、神について論ずるときだけ異様に執拗になる女だった。彼女はある晩、酒場で私に向かって、あなたは死にたがっているでしょう、と何の前触れもなく言った。私は否定せず、なぜ分かったのかと訊いた。「危険を恐れない人間と、危険を歓迎している人間とでは、歩き方が違うのよ」と彼女は言った。私は死にたいと認めた。すると彼女は、どうして、と尋ねた。その質問に私は少し腹を立て、「それが嫌なんだ」と答えた。「人は生きている者に対して、どうして生きているのかとはほとんど訊かないのに、死にたい人間へは必ず理由を求める。生は無条件に正常とされ、死への欲望だけが説明を要求される。その前提からして気に食わない」と言うと、彼女はしばらく黙り、それから「それでも私はあなたに死んでほしくない」と答えた。私は生の尊さを説かれるものと思っていたから、その先を警戒したが、彼女はただ「あなたが死んだら私が嫌だから」と言った。「随分と利己的だな」「倫理なんて大抵そうでしょう」と彼女は笑った。神学を学んでいる人間から聞いた言葉の中で、それが最も信頼できる言葉だった。
卒業後、私は冒険者になった。死に近づくためである。魔獣の討伐、山岳地帯の踏査、戦争への従軍、疫病の流行地への護衛など、普通の人間ができれば避けたい場所を、私は率先して選んだ。ところが死を怖れないという一事は、戦闘において予想以上の価値を持った。相手が避けると考える攻撃を避けず、誰も踏み込まない場所へ踏み込み、退路を失うことを恐れない。私は剣の天才でも魔術の天才でもなかったが、二十代の半ばには名の知れた冒険者になっていた。人々は私を勇敢だと称した。しかし勇敢さとは本来、失いたくないものを持ちながら危険へ踏み込む者に与えられる語である。私にはその条件が欠けている。それでも外側から見れば、自ら死地へ向かう行為は英雄的自己犠牲と区別できない。私は死にたくて村を救い、死にたくて子供を助け、死にたくて戦場の負傷者を背負った。結果だけを見た人々は、私の内部に高潔な人格を捏造した。世間が人間を評価するとき、動機より行為を重視するということを、私はずいぶん皮肉な仕方で学んだ。
二十九歳の北方戦争で、私は一度だけ、自分が本当に死ぬと思った。部隊は敵の大規模魔術を受けて壊滅し、私も胸と腹へ致命的な傷を負った。周囲では兵士たちが死んでゆき、一人は妻の名を呼び、一人は故郷へ帰りたいと泣き、一人は誰でもよいから助けてくれと喚いていた。私は血の中へ横たわりながら、ようやく終わる、と考えた。すると、死ななかった。傷が奇跡的に消えたわけではない。痛みも出血もあった。ただ、死だけが私の身体へ到達しなかった。夜が明けるまで私は死者のあいだで呼吸しつづけ、朝になって救援部隊に発見された。生きたいと願った者たちは冷たくなり、死にたい私だけが生きている。その光景を前にして、私は自分へ与えられた法則を、初めて呪い以上のものとして認識した。それは侮辱だった。もし宇宙に人格があるなら、こいつは人間の願いを叶えないのではなく、わざわざ反転させることを楽しんでいる。
戦争が終わった後、私はリディアと結婚した。死にたい人間が結婚することを矛盾だと思う者は多いだろうが、私は次第に、矛盾という言葉が人間の精神を説明するうえでほとんど役に立たないと考えるようになっていた。私は死にたかったが、リディアと一緒に食事をすることは好きだった。自分の人生は終わってほしかったが、彼女が明日何を言うのかには興味があった。その二つは両立した。やがて娘のアンナが生まれ、私はさらに困惑した。娘が立つところを見たいと思い、初めて言葉を発する瞬間を聞きたいと思い、学校へ行く日を見たいと思った。それでも死にたいという気持ちは消えなかった。私はそこで、自分の長年の仮説を一つ捨てた。幸福になれば死にたくなくなるという仮説である。少なくとも私について、それは誤っていた。私は妻を愛し、娘を愛し、生活に困窮もせず、仕事にもある程度の満足を感じながら、なお死を欲していた。幸福と希死は対立概念ではなかった。人間は同時に幸福であり、同時に自分の存在を終えたいと望みうる。もしそれが論理的に不整合なら、論理の方が人間に適合していないのだろう。
この発見は私をいっそう学問へ向かわせた。三十代の後半から私は再び大学へ出入りし、自ら命を断とうとした者、生還した者、遺された家族、宗教家、医師、法官らへの聞き取りを始めた。死を欲する理由は実に多様だった。貧困、病、失恋、罪責、名誉、孤独、倦怠、恐怖、復讐、あるいは本人にも説明できない感覚。しかし、数百人の証言を読み返すうちに、一つの共通性が見えてきた。彼らの多くは、死そのものについてほとんど語っていなかったのである。彼らが欲していたのは、借金の返済が来月も続かないこと、朝目覚めて病の痛みに耐えなくてよいこと、過去の記憶が翌日にも続かないこと、辱めを受けた自分がさらに一年存在しないことだった。すなわち死は目的というより、継続を停止させる手段として想像されていた。私はこれを「終止への欲望」と呼び、論文にした。学界では賛否が分かれたが、論争が続くにつれて私は一つの奇妙な立場へ押し上げられた。死にたがっている男が自殺研究の権威となったのである。
四十七歳でリディアが病に罹った。治癒術の及ばない病で、医師は一年もたないだろうと言った。彼女は痩せ、髪を失い、やがて一人では寝台から起きられなくなった。私は毎日そばにいた。死が目前へ来たとき、彼女が何を思うのか知りたかったという研究者めいた好奇心も、わずかには混じっていたのかもしれない。しかし大部分は、ただ彼女のそばにいたかった。「あなたより先に死ぬのね」と彼女が言った夜、私は「まだ分からない」と答えた。すると彼女は笑い、「分かるわよ。あなたは死ねないもの」と言った。そして少し間を置いて、「私が死んだら、きっとまた死のうとするでしょう」と続けた。「たぶんな」「止めろとは言わない。何十年言っても無駄だったもの。ただ、私を理由にしないで」と彼女は言った。私は意味が分からず聞き返した。「あなたは私と会う前から死にたかったでしょう。だから私が死んだあと、自分が死にたい理由を『妻を失ったから』なんて美しい話に作り替えないで。私をあなたの死の物語へ勝手に使わないで」。私は返す言葉がなかった。死ぬ人間の方が、生き残る人間より自分の死後について冷静であることがある。
リディアは四十九歳の冬に死んだ。私は自分があれほど泣けるとは知らなかった。死体そのものより耐え難かったのは、何を言っても返事がないという事実だった。生前の彼女は、私が馬鹿なことを言えば呆れ、腹の立つことを言えば怒り、珍しく気の利いたことを言えば笑った。死後、そのすべてが停止した。そのとき私は、死とは身体機能の停止でも魂の離脱でもなく、少なくとも生者にとっては「応答の永久的な消失」なのではないかと思った。死者に話しかけることはできる。しかし死者から返事は来ない。人間は他者の死を、その沈黙として経験する。では自分の死はどうか。私は自分が返事をしなくなった世界を経験できない。自分自身の死だけは、決して自分の経験内容にならない。私はそこから、死とは本質的に他者の出来事ではないかと考えるようになった。私が死ぬということは、私にとっては何も起こらないことであり、私以外の者にとって初めて「エリアスが死んだ」という出来事として成立する。この考えをまとめた『死の他者性について』は、私の予想を超えて広く読まれ、私は五十を過ぎて大学教授になった。人生を終えたい男が、死について講義することで生計を立てるようになったのだから、もし神がこの世界の筋書きを書いているなら、趣味の悪さだけは一貫していた。
年月は過ぎた。娘は結婚し、孫が生まれ、その孫にも子が生まれた。私自身は老いた。死ねないことと老いないこととは全く別だった。背は曲がり、歯は抜け、視力も聴力も衰え、八十を越えるころには杖なしで歩けなくなった。不死という語を聞けば、多くの人間は永遠の若さを想像するが、私に与えられたものは不死ではなく、死の拒絶であった。身体は正しく壊れてゆく。痛みも増える。記憶も薄れる。それでも死だけが認められない。九十歳で重い肺炎を患い、医師から数日だと言われたとき、私は久しぶりに心から安堵した。ところが回復した。九十六歳で心臓が弱り、今度こそ長くないと言われたが、それでも生きた。百歳を迎える頃には私より年長の者は王国にほとんどおらず、「不死の哲学者」という不本意な呼称が新聞に載った。私は取材に来た若者へ、不死ではない、ただ死ねないだけだと訂正したが、その違いを理解する者は少なかった。
百三歳で娘のアンナが死んだ。八十一歳だった。棺の中に横たわる白髪の老婆を見ながら、私は同時に、生まれたばかりの娘を抱いた日のことを思い出していた。記憶とは不思議なもので、過去を順序よく保存するのではなく、異なる年代を同じ場所へ折り畳んでしまう。目の前には老女がいるのに、腕の感覚だけは幼児の重さを覚えている。私はその日、もう十分だと思った。妻を看取り、娘を育て、孫と曾孫を見た。戦争を二度経験し、王が五人替わり、私が学生だった頃には存在しなかった学問分野が成立し、私自身の著作が古典と呼ばれ始めた。いったい人生に何をどこまで追加すれば、人は「十分に生きた」と認められるのだろう。私は既に一度目の人生を途中で放棄し、二度目では百年以上を費やした。それでも世界は私へ退出許可を与えなかった。
百七歳の冬、担当医は私の検査結果を眺めながら、医学的にはいつ亡くなっても不思議ではありません、と言った。私は「それは朗報だ」と答えた。医師は冗談だと思ったのか曖昧に笑った。数日だろうという予測は外れ、一月が過ぎ、春が来た。食事はほとんど摂れず、心臓も肺も腎臓も通常なら既に致命的な状態にある。それにもかかわらず、最低限の機能だけが異様な均衡を保っていた。そこで私はようやく、自分が百年にわたって法則を誤解していたことに気づいた。私は「自殺できない」のではなかった。自らの死を欲望の対象としている限り、死ねないのである。手段は関係ない。自分の手による死であろうと、病死であろうと、老衰であろうと、「これによってようやく死ねる」と私が期待した瞬間、世界は死を遠ざける。若い頃には死を行為として求め、老いてからは死を自然現象として待った。しかし、死を未来の目的地として置いている点では同じだった。
この理解は、私が長年考えてきた死の他者性と奇妙に結びついた。私は死を、自分が最後に所有できるものだと思っていた。私の人生は私のものではなかったかもしれない。誕生を選んでいないし、身体も時代も両親も選んでいない。しかし少なくとも終わりだけは、自分で選べると信じたかった。それが私に残された最後の主権であるかのように。しかし、そもそも自分の死を所有するという発想が錯誤なのではないか。私は自分の死後を経験できない。「私は死んでいる」という命題を、私は一度たりとも真として認識できない。死が成立した瞬間には、その命題を発する主体が消えている。そうであるなら、私が百年以上求めてきた「自分の死」とは、自分では決して所有できない出来事を所有しようとする欲望だったことになる。死は生の最終財産ではない。むしろ死とは、自分が自分について何も所有できなくなる地点である。にもかかわらず私は、それを私の最後の選択、私の最後の決定、私の最後の権利として握ろうとした。その握力こそが、皮肉にも私を死から遠ざけていたのではないか。
この結論に到達したからといって、私の希死が突然消滅したわけではなかった。思想は人間の欲望を説明できても、命令できるとは限らない。私は死が所有できないものだと理解し、それでも死にたかった。しかし年月がさらに積み重なるにつれ、その欲望自体が少しずつ変質していった。百十歳を過ぎるころ、私を個人的に知っていた人間はほとんど死んでいた。学生時代の友人も、冒険者仲間も、妻も、娘も、孫もいない。曾孫や玄孫がときおり訪ねてくるが、彼らにとって私は家族というより歴史上の人物に近かった。私が若い頃に住んだ家は史跡になり、大学には私の名を冠した講堂まで作られた。自分がまだ生きているのに伝記が刊行され、その伝記を材料に若い研究者が「初期エリアスと後期エリアスの思想的断絶」などという論文を書いているのを読んだときには、思わず笑った。私は断絶した覚えなどない。ただ長く生きすぎただけだった。
百二十一歳の春、窓辺に座って庭を見ていた。そこには桜によく似た白い花を咲かせる樹が一本あり、風が吹くたびに花弁が落ちた。以前の私なら、散ることのできる花を羨ましいと思っただろう。しかしその日は、そうした比喩すら浮かばなかった。花が咲いている。風が吹く。花が落ちる。私は椅子に座っている。それだけだった。そして唐突に、自分の死についても同じような感覚が訪れた。今日死ぬかもしれない。十年後かもしれない。どちらでもよい。生きたいと思ったわけではない。人生は美しいと悟ったわけでも、苦痛には意味があったと納得したわけでもない。前世の自分を悔いたわけでもなかった。ただ、死がいつ来るかを気にすることに疲れたのである。百年以上、私は未来へ死を置きつづけ、「いつ終わるのか」と問いつづけた。その意味で、死を望んでいた私は誰よりも執拗に未来を見ていた。明日こそ死ねるかもしれない、次こそ終われるかもしれないという期待は、形こそ違え、生を期待する者の希望と同じように私を未来へ拘束していた。死にたい人間は未来を捨てているのではなく、死という未来へ異常なほど強く執着している場合がある。そのことに気づいたとき、私は自分の百年を少しだけ滑稽に思った。
その夕方、玄孫の娘が訪ねてきた。十七歳で、私のことを教科書で習ったと言った。「死ぬのは怖い?」と彼女は訊いた。若者は年寄りに対して、死について尋ねても失礼ではないと思っているらしい。「昔は死にたかった」と答えると、「知ってる。有名だから」と彼女は笑った。私は自分の若い頃の醜態まで教育課程へ収録されていることに腹を立てたが、怒る体力もない。「今も死にたい?」と彼女は続けた。私は少し考えた。何万回も自分に投げた質問だったが、その日は答えが異なっていた。「別に」と私は言った。「じゃあ、生きたい?」「それも別に」「どっちなの」「どっちでもいい」。少女は「ずるい」と不満そうに言った。私は笑い、「百年以上考えた結論なんだから、少しくらいずるくても許せ」と答えた。
夜になり、一人で寝台へ横たわった。私はリディアを思い出した。黒い外套を着て、倫理なんて大抵そうでしょう、と笑っていた若い女。次にアンナを思い出した。初めて歩き、三歩目で転び、泣きながら私へ手を伸ばした幼い娘。その後に無数の顔が浮かんだ。私が死のうとして救ってしまった兵士、教え子、友人、敵、名も覚えていない旅人。それらは人生の意味を証明しなかった。私の生が正しかったことも証明しなかった。ただ起こったのである。起こってしまったものを、意味がなければ無価値だと切り捨てる必要も、意味があったことにして救済する必要もない。私の人生は、意味があったから続いたのではない。ただ続いた。私はその事実に、もはや賛成も反対もしなかった。
明日のことを考えなかった。死についても考えなかった。長いあいだ未来の一地点へ置きつづけていた終止符を、初めて探さなかった。目を閉じると、眠気が来た。それが最後の眠りになることを私は知らなかったし、知らなかったからこそ、おそらく死ぬことができた。
私が死んだ後、何が起こったのかを私は知らない。家族が泣いたのか、大学が追悼式を行ったのか、新聞が「不死の哲学者、ついに死去」と見出しを付けたのか、そのいずれも私にとっては確認不能である。死者にとって、自分の死は永遠に未確認の事件として残る。それでよかった。死とは、最後まで私の所有物にならなかった。
少なくとも、そこで終わるはずだった。
最初に感じたのは光だった。赤い。閉じた瞼を通して血の色に染まった光が入り込み、続いて、冷たい空気が新しい肺へ一挙に流れ込んできた。胸が勝手に膨らみ、喉が震え、自分の意志とは関係なく甲高い声が出る。身体が異様に小さい。手足を動かそうとしても思うように動かない。誰かが私を抱き上げ、「元気な男の子ですよ」と言った。別の女が泣きながら笑っている。知らない天井が見えた。知らない顔がいくつも覗き込んでいる。しかし、この状況だけは知らないものではなかった。私は百二十一年を費やして、ようやく死を待つことをやめ、ようやく普通に死んだ。その結末に無も天国も地獄もなく、待っていたのは、また呼吸を始めたばかりの小さな肺であった。
私は赤ん坊の声で泣きながら、ただ一つだけ思った。
またか。




