第2話 ペンダント
午前八時。
花村探偵事務所のブラインドから、細い朝日が差し込んでいた。
泰充は昨夜から一睡もしていなかった。
机の上には、一枚の写真。
1998年6月17日。
その写真に写っていたのは、泰充の父親、船越康弘、そして神崎修司。
そして写真の裏に残されていた数字。
317。
さらに、あの古びたペンダント。
丸の中に三本の線。
泰充はペンダントを手のひらに乗せた。
「これ……親父からもらったんだよな」
記憶の中では、父親がまだ若かった。
泰充が八歳だった頃。
父親はこのペンダントを首に掛け、
「大切にしろ」
とだけ言った。
なぜ大切なのか。
何のためのものなのか。
父親は教えてくれなかった。
そして、その数日後。
泰充の人生から、22年間消えてしまった記憶が始まった。
*
「所長」
助手の声で、泰充は顔を上げた。
「昨日の依頼人から電話です」
「船越さんの娘?」
「はい」
泰充は受話器を取った。
「花村です」
『昨日、お話しできなかったことがあります』
女性の声は、どこか震えていた。
「何でしょう?」
『父が失踪する前、私に一つだけ言ったんです』
「何と?」
少し間があった。
『もし、いつか父を探すことになったら……』
女性が息を吸った。
『「丸い印を持っている人を探せ」って』
泰充の目が鋭くなった。
「丸い印……?」
『はい』
「それは、どんな印ですか?」
『丸の中に……三本の線が入っている印です』
泰充は言葉を失った。
視線が、机の上のペンダントに向く。
『父は、それ以上何も話してくれませんでした』
「その話、もう少し詳しく聞かせてもらえますか?」
『はい』
通話を終えた泰充は、しばらく黙っていた。
「所長……」
助手もペンダントを見つめている。
「それ、昨日のやつですよね」
「ああ」
「船越さんの娘さんも同じ印を知ってる」
「偶然じゃない」
泰充は立ち上がった。
「もう一人、同じものを持っている人間がいる」
「誰です?」
泰充は答えなかった。
頭の中に、一人の女性の顔が浮かんでいた。
玲奈。
*
午後。
泰充は玲奈のもとを訪ねた。
玲奈は窓際に立っていた。
「どうしたの? 急に」
「見てもらいたいものがある」
泰充はペンダントを取り出した。
玲奈の顔が変わった。
「……それ」
「知ってるのか?」
「うん」
玲奈は自分の首元に手をやった。
そして、服の中から同じペンダントを取り出した。
泰充は息を呑んだ。
形も大きさも同じだった。
裏側に刻まれた小さな傷まで一致している。
「いつから持ってる?」
「子供の頃から」
「誰にもらった?」
玲奈は眉を寄せた。
「……分からない」
「分からない?」
「気がついたときには、もう持ってた」
泰充はペンダントを見つめた。
「俺も同じだ」
「え?」
「父親からもらった。でも、いつもらったのか、正確には覚えてない」
玲奈は不思議そうに泰充を見る。
「じゃあ、私たち……」
「1998年より前から、このペンダントを持っていた可能性がある」
玲奈の表情が曇った。
「1998年……」
その言葉を聞いた瞬間、玲奈の手が胸元で止まった。
「どうした?」
「……何か、聞こえた」
「何が?」
「女の子の声」
玲奈は目を閉じた。
暗い場所。
遠くで車のエンジンが鳴っている。
誰かが走っている。
そして、少女の声。
「お姉ちゃん!」
玲奈は目を開いた。
「……今の、何?」
「何を思い出した?」
「分からない」
玲奈は頭を押さえた。
「でも……私じゃない」
「どういう意味?」
「私が見てるんじゃない」
玲奈の声が震えた。
「誰か別の女の子の記憶みたい」
*
その夜。
泰充は事務所で二つのペンダントを並べていた。
まったく同じ。
ただし、一つだけ違う部分があった。
泰充のペンダントの裏には、
R・M・Y
と刻まれている。
玲奈のペンダントには、
何も刻まれていない。
「……R・M・Y」
泰充は紙に書いた。
何を意味しているのか。
名前なのか。
場所なのか。
それとも組織内部の暗号なのか。
考えていると、事務所の電話が鳴った。
「はい、花村探偵事務所です」
返事がない。
だが、今回は呼吸音ではなかった。
遠くで何かの機械音がしている。
そして男の声。
『ペンダントを調べるな』
「あなたは誰だ?」
『それを持っている人間は、三人いる』
泰充の表情が変わる。
「三人?」
『お前と……あの女だ』
「もう一人は誰だ?」
沈黙。
『まだ生きている』
その瞬間、電話が切れた。
泰充は受話器を握ったまま動かなかった。
もう一人。
ペンダントを持っている人物。
しかも、
まだ生きている。
*
翌日。
泰充は父親の遺品を調べていた。
古い書類。
写真。
手帳。
どれも事件の核心には触れていない。
だが、一冊の古い手帳の最後のページに、奇妙な記述があった。
「三人を離すな」
その下に、
Y
R
M
三つのアルファベット。
泰充は息を止めた。
「Y……R……M……」
ペンダントの刻印とは順番が違う。
だが、三つの文字は同じだった。
そのとき、手帳のページの間から、小さな写真が落ちた。
拾い上げる。
そこには三人の子供が写っていた。
一人は幼い泰充。
そして、その隣に二人の少女。
泰充は写真を見つめた。
「……この子たち」
二人の少女には見覚えがある。
だが、思い出せない。
写真の裏には日付が書かれていた。
1998年6月10日
事件の七日前。
そして、その下に父親の字で一言。
「船越家」
泰充の手が震えた。
「船越家……」
つまり、この二人の少女は、
船越康弘の娘たち。
玲奈と美奈。
泰充は写真をじっと見つめた。
しかし、何かがおかしい。
写真に写っている二人の少女を見ていると、
頭の奥に、また映像が蘇ってくる。
笑い声。
港。
三人で走っている。
そして、一人の少女が泰充に言う。
「約束だからね」
泰充は目を閉じた。
「何の約束だ……」
答えは出ない。
*
その頃。
玲奈は自宅の引き出しを整理していた。
古い箱を開ける。
中には幼い頃の写真が何枚も入っている。
その中の一枚を手に取った。
写真には二人の少女が写っている。
姉と妹。
玲奈は写真を見つめた。
「……お姉ちゃん」
その言葉が自然に口から出た。
自分でも驚いた。
「……今、私……何て言った?」
写真の裏を見る。
そこには母親の字で、
「玲奈と美奈」
と書かれていた。
玲奈の呼吸が止まる。
「玲奈……」
そして、
美奈。
知らない名前ではない。
だが、自分自身の名前として聞いた瞬間、
胸の奥に奇妙な痛みが走った。
突然、映像が蘇った。
燃える車。
泣いている少女。
自分の手を握る、小さな女の子。
そして誰かの声。
「美奈を連れて逃げろ!」
「……美奈……」
玲奈は写真を落とした。
床に落ちた写真。
そこには、
幼い頃の自分と、
姉の…
そして――
一人の少年が写っていた。
*
同じ頃。
港の古い倉庫。
黒い革ジャンの男が、一人で立っていた。
黒田だった。
彼は古びた写真を取り出した。
写真には三人の子供。
泰充。
玲奈。
美奈。
黒田は写真を見つめた。
「まだ思い出せないか……」
そう呟く。
その背後から、別の男の声がした。
「花村が317を開けた」
黒田は振り返らない。
「知っている」
「ペンダントも見つけた」
「それも知っている」
「なら、どうする?」
黒田はしばらく黙っていた。
やがて、
ポケットから一枚の古い写真を取り出した。
そこには、二十二年前の港。
炎に包まれた車。
そして、その車から離れていく一人の少女が写っていた。
黒田は写真を裏返した。
そこには一言だけ。
「玲奈を探せ」
黒田は低い声で言った。
「まだ終わっていない」
*
翌朝。
花村探偵事務所。
泰充の机の上に、一通の封筒が置かれていた。
差出人はない。
中には一枚の写真。
1998年6月17日の港。
そして、写真の裏にはこう書かれていた。
「お前が忘れているだけだ。」
泰充は写真を握りしめた。
その瞬間、
失われていた記憶の一部が、突然つながった。
炎。
父親。
神崎修司。
船越康弘。
黒い革ジャンの男。
そして二人の少女。
幼い泰充は、そのうちの一人を指差している。
誰かが叫ぶ。
「泰充、見るな!」
そして、
少女が叫んだ。
「やっちゃん!」
泰充は目を開いた。
「……俺は、何を見たんだ?」
答えはまだ記憶の奥に眠っている。
だが、
ペンダントはもう単なる父親の形見ではなかった。
それは22年前に起きた事件の、
最初の鍵だった。




