トマト
きなこさんが起こしにくる声。
朝ごはんの匂い。
揺り起こす、手。
きなこさんと暮らし始めて、僕の暮らしが変わって、きなこさんも変わって。
僕にも変化が訪れていた。
それは、本当に微妙に、ちょっとずつ変わっていっていたんだと思う。
その変化に気がついたからって、僕にはどうすることもできなかった。
細かい粒子が手の指の間をすり抜けるように、ただそのことを呆然と受け入れるしかなかった。
※※※
リビングに行くと、きな粉さんが朝食を並べている。
僕に気がつくと振り向いて、笑う。
「チハ君、寝癖がひどいや」
僕は、ただ頷いて椅子に座った。
いつもと同じ椅子。朝の光。きなこさん。おいしそうな朝食。
だけど。
いつも、騒がしい妖精たちの声はしない。
気がつくと居た彼らは、気がついたら僕の周りにいなくなっていた。
それは本当に気がついたら。
きなこさんには言っていない。
きなこさんは、僕が妖精の話をしたら嬉しそうにしたから、妖精が見えなくなっちゃった僕はつまんないだろうかって実はこっそりと不安に思っていたりする。
がっかりさせちゃうかなって。
「今日も、佐山君と?」
きなこさんも席について二人で静かに合唱した後、きなこさんが僕に尋ねた。
注いだ牛乳を渡されながら、僕は頷く。
喧嘩した佐山とはあの後なぜか、仲良くなった。
そのうち僕は学校でも一人ではなくなった。
休憩時間になれば、誘われるままに校庭で遊んだ。
だんだんと、薄くなる妖精の気配に気がついていたんだ。
僕が最初に彼らを見放した。
妖精だけだったのに。
僕が見放した。
握ったホークでトマトを突き刺す。
トマトの中のグシュグシュがちょっと苦手だけれど、気にせず口に放り込んだ。
きなこさんが、僕を見てゆっくりと首を傾げている。
変だよね。僕だって僕が変だって気がついてる。
イライラしてるんだ。
きなこさんが僕に気遣うそぶりをみせるとイライラする。
僕の喪失感なんて、わかんないでしょって勝手に思う。
喉の奥から勝手に酷い言葉が湧き出そうになって、僕は必死に押し殺す。
トマトと一緒に飲み下す。
言葉を飲み込むと耳の奥が、じわりとする。
こんな時に聞こえる妖精の歌はもう聞こえない。
僕はそっと、ため息をついた。
※※※
おはよう
そう言った僕の声に佐山は吃驚と言わんばかりに目を見開いた。
「チハ!なんだその声」
「ひどいでしょ」
僕は、佐山より一足早く声変わりの時期に突入したらしい。
声は風邪をひいた時みたいにガラガラで、喉も変な感じがする。
「うわー。なーなー。なんか言ってみて」
「うざい」
佐山が、変な声だなと笑う。
また僕がうざいと言う。
妙なイライラは鳴りを潜め、なんだかおかしくなってちょっと笑った。
「俺も早く声変わりしてえなあ」
佐山が呑気そうにわらう。
何のてらいもなく成長することに期待している。
変わることを怖がらない。
まっすぐでいいなと思う。
「かーちゃん、じゃないや。きなこさんはその声なんて?」
佐山に聞かれて、別にと答える。
「最近ちゃんと話してないんだ」
僕の呟きを聞いてだいぶ傷んだランドセルを揺らしながら、佐山が振り返る。
「あー。なんか分かる。親ってなんか面倒だよな」
そうかな。
僕はそうは思わないけど。
僕は、ただーー。
※※※
「おかえり。遅かったね」
きなこさんが、台所からスリッパを鳴らしながら、僕を迎えた。
僕は一つ頷いて、ランドセルを部屋に置きに行く。
つむじに視線を感じて妙な気分になってくる。
ランドセルをその場で床に叩きつけたいようなそんな気分だ。
「チハ君」
呼び止められて、僕は止まった。
イライラは止まってはくれなくて、振り返らずにじっと俯いていた。
「千春」
そう呼ばれて、しぶしぶ振り返る。
若々しくて綺麗なきなこさん。
記憶の中のお母さんとはちっとも似ていない。
困ったように眉毛を下げてる。
「ほっておいて」
僕の声にびっくりしてるみたい。
それとも、僕の言葉にかな。
ダメなんだ。
僕にはもう妖精は見れない。
僕にはもう妖精を感じられない。
きなこさんは僕を信じるって言った。
僕を通して妖精を見るって言った。
僕は、もう妖精を見れない。
僕は、僕は。
僕はただ、きなこさんが今の僕に、がっかりするんじゃないかって思うんだ。
気がついたら、目から涙が溢れていて、それを強引に拳で拭った。
きなこさんが僕に近づいてそっと僕の肩に触れた。
きなこさんは、何にも言わなかった。
僕はしばらく泣いていた。
なんでかわからないけれど、朝ホークで突き刺したトマトのグシュグシュを思い出した。