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アプリコットジャム

この季節になると私はあんずを沢山買って、殆どをジャムに変えてしまう。

ジャムは日持ちするから、たくさんのアプリコットジャムを瓶詰めして保存するの。 

 

「スコーンにも合うよ」


今日のおやつのスコーンにも花を添えるアプリコットジャム。

綺麗なオレンジが甘酸っぱく味に花を咲かして、とっても美味しい。

チハ君にも勧めると最初何のジャムだろうといった様子だったのが、一口食べて目をぱちぱちさせた。


「あ、あんずのジャム」

 

「食べたことあった?」

 

チハ君は、両手にスコーンを持ったまま、じっと私を見る。

その様子が何だか小動物みたいでちょっと笑ってしまった。

でも、どうして固まっちゃてるんだろうね。

 

「あれれ、どうしたのかな。口に合わなかった?」

 

ううんって首を横に振って、もう一口スコーンを頬張ると、チハ君は小さく呟く。


「懐かしくって」

 

「ん?」


「・・・お父さんがよく食べてた」

 

あ。

そうか。

しまった。

アプリコットジャムは彼の大好物。

忘れていた訳ではないけれど。

忘れたふりをすれば平気だと思った。

 

油断、していたんだと思う。

チハ君は、びっくりするくらい両親の話をしないから。

不意に蘇ってくる記憶に動揺してしまいそうになって、咄嗟に笑顔で隠そうとした。


「きなこさん」

 

真剣なチハ君の顔。

私には見えないものが見えるその不思議な瞳で、真直ぐに射抜いてくる。


「隠さないで。きなこさん」


だめ。

見ないで。

チハ君にこんな暗く淀んだ感情を吐露するわけにはいけない。

お願いチハ君見ないで。

 

まだあなたのお父さんに余情があるなんて。

何て情けなくて浅ましい女なんだろう。


「きなこさん。きなこさんの悲しみはねとっても綺麗な色だよ」

 

チハ君やめて。

おねがい。


「薄くて淡い海の色だよ」


そんな風に言わないで。

私の悲しみが、そんな綺麗な色を帯びるはずが無いから。

  

チハ君といる時だけ私は少女のように汚れない純粋さを手に入れた気持ちになる。

その時だけは、全ての醜い感情から解放されるよう。

けれど。

一人暗い寝室のベットに潜ると、闇が私にのし掛かってくる。

知らないふりをするな、と幾度も私を責めるの。

 

***

 

春都と私は恋人同士だった。

顎のラインが繊細で、困ったとき少し首を傾げるのが彼の癖。

私は彼の顎から首にかけてのラインをとても愛していた。

 

衝撃の告白の時、彼は何時ものように小首を傾げて言ったわ。

『ごめん子供ができた』って。

春都の隣に当然のように座る人は私の姉だった。

黙って俯いて、私の顔を見もしなかったの。

自分が哀れでしかたなくって、私は絶えきれずに二人の前から立ち去った。

ただ惨めで、憎しみばかり心に募った。

憎くて、許せなくて死んでしまえばいいって何度も何度も思った。


再会は、二人のお葬式。

雨で車がスリップしたんだって、カーブを曲がりきれなかったって。

なんて・・・なんてあっけなく。

最悪の再会に私は立ち尽くした。

 

私の憎しみは宙ぶらりんのまま行き場を無くしてしまった。

  

ねえ。待ってよ。

私にまだ何も弁解してないじゃない。

何年かかっても説得して謝ってみせて。

そしたら。

そしたら「もういいよ」っていつか笑うから。

 

こんな風に終わらせるなんて、あんまりじゃない。

 

そんな時、大人たちの不気味なモノクロ世界のなかにチハ君を見つけたの。

一人でうずくまって、どうしたのかなって近付けば、小さな声で見えない何かとお話してた。

 

『ねえ、何してるの?』


『…妖精と話してた。…お父さんとお母さんがいなくなったから僕はもう妖精としか話さないんだ』


それが始まり。

衝動的に抱きしめて、名前を尋ねた。

 

 チハル

 千春

 

春都と姉さんの宝物。

姉さんは茜。

そして、私の名前は『千代子』。

 

『千代子はきな粉が好きねえ、きなこちゃんね。きなこちゃん』

お姉ちゃん。


どうして姉さん。どうして?

千に隠された意味をどうか教えてよ。

それとも私の考えすぎ?


運命と呼ぶには単純すぎるかな。

だけどその時、この子を守らなければと、使命のように直感したの。


***

 


決壊した涙腺。

一つ二つと涙を零す私に、チハ君はそっと近づいて涙を拭ってくれる。

座り込んで泣きじゃくる私のこうべを立ち上がったままのチハ君が小さな身体で精一杯抱きしめてくる。

おかしいな、守るはずの私が逆に慰めるように抱きしめられて。

おかしいな。

 

けれど、その包み込むぬくもりに抗えるはずもなく、そっと頬をすり寄せた。

いつもとまるで正反対の私とチハ君。

 

「やっと近づけた」  

 

チハ君も私の髪に頬をすり寄せて、なんだか満足そうな溜息をついて言った。

 

もうきっと私は。

この子なしで生きてなどいけない。

 

***

 

裏切られた気持ちが強すぎて死んでしまえなんて、幾度も思った。

だけど。ねえ、それくらいに二人ともとても大切だったから。

本当に愛していたからなの。

 

ねえ。

春都さん、ねえさん。

チハ君を私の宝物にしてもいい?

私がチハ君をもらってもいいかな?

せんのはるに誓います。

この腕の中のぬくもりをどうか私に守らせてください。

 

憎しみはまだ心の中に燻るけれど、チハ君との幸せを前に私はそれを許そうとしている。

ごめんね。あの時苦しんだ私、たくさん泣いた私。

憎しみよ、もうどうか私を責めないで。

何の弁解もなかったけれど、彼らは私に『千春』を残してくれた。

だから、「もういいよ」って笑って暮らそう。

どうかもうなにも責めずに、ただこの子とと幸せの一歩を。


 

アプリコットジャムを食べる度、きっとあなたを思い出す。

けれどその苦い悲しみが、毎年毎年甘酸っぱく、色付くように変わって行きますように。




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