婚約者の浮気で婚約破棄されたマークスは、呪い姫の婿になり、前世の記憶を使って活躍する。
第一話 婚約破棄された伯爵三男
春の陽光が差し込む大講堂。
フランセ王国が誇る名門――シャンゼル学院の卒業式は、華やかな祝福の空気に満ちていた。
色とりどりの礼装に身を包んだ貴族の子弟たち。
笑い声と談笑があちこちで弾け、未来への希望に満ちた空間――
そのはずだった。
(……遅いな)
マークス=リヨンは、人混みの中で小さく息を吐いた。
リヨン伯爵家三男、十八歳。
整った顔立ちに落ち着いた雰囲気を持つ青年だが、その目はどこか冷静すぎる光を宿している。
理由は一つ。
(前世の記憶を持っている……)
彼は転生者だった。
前世はブラック企業に勤める24時間、戦うサラリーマンだった。
理不尽な上司に振り回され、成果を横取りされ、それでも歯を食いしばって働き続けた男。
そんな人生を事故のいう形で終え、気がつけばこの世界に生まれ変わっていた。
そして――
(まあ、その経験が役に立ってるのは間違いないが)
彼は婚約者の家、マルセイユ伯爵家の財政を、執事と相談しながら裏から支えてきた。
無駄な支出の削減。
流通の改善。
帳簿の整理。
前世で培った知識と発想を使い、密かに経営改革を行ってきたのだ。
だが、それはすべて――
「マークス様」
後ろから声をかけられた。
振り向くと、見知った顔の令嬢が立っている。
「イライザ様をお探しですか?」
「ああ。どこにいるか知っているか?」
「それが……先ほど、裏庭の方へ行かれたようで」
「裏庭?」
嫌な予感がした。
だが、すぐに首を振る。
(いや、考えすぎだろ。イライザに限ってそんなことがあるはずがない……)
そう思いながらも、マークスは足を向けた。
学院の裏庭。
華やかな大講堂とは打って変わって、人の気配は少ない。
木々に囲まれた静かな場所。
そして――
「……っ」
その光景を見た瞬間、マークスは足を止めた。
そこにいたのは――
自分の婚約者、イライザ=マルセイユ。
そして、社交界でも有名な遊び人と噂の侯爵令息と――抱き合っていたのだ。
「……何をしている」
思わず口から言葉が漏れる。
二人が同時に振り向いた。
「あら」
イライザは、まるで悪びれる様子もなく微笑んだ。
「見てしまったのね、マークス」
その隣に立つ男。
金髪に整った顔立ち。
いかにも貴族らしい自信に満ちた態度。
(……アクワー=ベルサイユだ)
ベルサイユ侯爵家三男。二十歳。
そして――
(女たらしで有名な男、だったな)
「どういうことだ、イライザ」
問いかける声は、驚くほど冷静だった。
だが内心は違う。
じわじわと、何かが崩れていく感覚。
「どういうこと、って?」
イライザは肩をすくめた。
「見ての通りよ」
そして、はっきりと言い放った。
「あなたとの婚約、破棄するわ」
「……理由は?」
その問いに、彼女はあっさりと答えた。
「簡単な話よ」
ちらりとアクワーを見て、微笑む。
「こちらの方が、顔もいいし、爵位も高いもの」
「……」
あまりにも露骨な理由だった。
だが――
納得してしまう自分もいる。
(ああ、そういう世界か)
前世と同じだ。
結局は価値で判断される。
「マークス君だったかな?」
アクワーが一歩前に出てきた。
軽薄な笑みを浮かべながら。
「悪く思うなよ。女は、より良い男を選ぶものだからな」
「……そうか」
短く答える。
怒りは――不思議と湧かなかった。
代わりにあるのは、冷めた感覚。
「納得したなら話は早いわね」
イライザは満足そうに頷いた。
「正式な婚約破棄は、後日家同士で行いましょう」
「わかった」
あまりにもあっさりとした返答に、彼女は一瞬だけ眉をひそめた。
「……随分と冷静なのね」
「そうか?」
「もっと取り乱すかと思ったわ」
「その必要がないだけだ」
マークスは淡々と言った。
「君がそう選んだ。それだけの話だ」
「……ふん」
つまらなそうに鼻を鳴らすイライザ。
「まあいいわ。せいぜい、身の丈に合った相手を探すことね」
その言葉を最後に、二人は去っていった。
残されたのは、マークス一人。
静まり返った裏庭。
風が木々を揺らす音だけが響く。
「……はあ」
大きく息を吐く。
(終わったな)
婚約も。
これまでの努力も。
すべてが無に帰した。
――そう思った、その時。
「いや、違うか」
マークスは小さく呟いた。
(俺の努力は、あいつらのものじゃない)
マルセイユ伯爵家の財政改革。
あれは確かに、自分の手で成し遂げたものだ。
だが、それを評価するかどうかは――別の話。
「……なら、いい」
静かに目を閉じる。
そして開く。
その瞳には、わずかな決意が宿っていた。
(もう、他人のために尽くすのはやめだ)
前世と同じ失敗は繰り返さない。
報われない努力はしない。
自分の価値は、自分で使う。
「さて」
マークスは踵を返した。
「これからどうするか、考えるか」
その背中には、もはや未練はなかった。
ただ一つ――
マークスを失った代償の大きさを知らないのは、イライザたちの方だ。
彼らが捨てたものが、どれほど大きいかを。
そして――
その代償を、やがて思い知ることになるということを。
◇
第二話 呪い姫との婚約
あの日から一か月。
春の華やかな卒業式での婚約破棄は、予想以上に尾を引いていた。
マークス=リヨンは、自室の窓辺に立ちながら、ぼんやりと庭を眺めていた。
かつては婚約者だったイライザ=マルセイユと過ごした日々。
その裏で自分がどれほど尽くしてきたかを思い出すたび、胸の奥に鈍い痛みが走る。
「……本当に、馬鹿みたいだな」
前世――ブラック企業で働いていた頃の記憶が蘇る。
理不尽な上司。成果を横取りする同僚。
どれだけ努力しても報われない環境。
それでも、あの頃の自分はこう思っていた。
“努力はいつか報われる”
だが現実はどうだ。
この世界でも同じだった。
裏で支え、帳簿を整え、無駄を削減し、利益を出し――
マルセイユ伯爵家の財政を立て直したのは間違いなく自分だ。
それなのに。
「顔と爵位で選ばれた、か……」
苦笑が漏れる。
あまりにも単純で、あまりにも現実的な理由。
そして――それが、この世界の「正解」なのだ。
「マークス様」
控えめなノックとともに、執事が声をかけてきた。
「旦那様がお呼びです」
「……ああ、今行く」
どうせろくな話ではない。
そう思いながら、マークスは部屋を出た。
応接室に入ると、父――リヨン伯爵が腕を組んで座っていた。
厳格な顔つき。鋭い視線。
その視線が、息子を値踏みするように向けられる。
「遅い」
「申し訳ありません」
「……まあいい」
父は短く息を吐いた。
「一月前の件だが」
やはりそれか。
マークスは静かに頷く。
「我が家の名に泥を塗ったこと、どう責任を取るつもりだ」
「……」
内心で苦笑する。
(責任? 浮気されたのはこっちなんだがな)
だが、それを口に出しても意味はない。
この世界では「結果」がすべてだ。
「申し訳ありません。ですが――」
「言い訳は聞かん」
ぴしゃりと遮られる。
「婚約を維持できなかった時点で、お前の負けだ」
冷酷な言葉だった。
だが、否定はできない。
マークスは黙って頭を下げた。
「……だが」
父の声が少しだけ和らぐ。
「今回の件、マルセイユ家にも非はある」
「!」
「表立っては言わんがな。あちらも評判を落とした」
つまり――完全な一方的敗北ではない、ということか。
「そこでだ」
父は一枚の書類を差し出した。
「新しい婚約をまとめた」
「……もう、ですか」
「貴族にとって婚約は戦略だ。感情ではない」
その通りだ。
理解はしている。
理解しているが――
「相手は、ニース侯爵家」
「……ニース?」
思わず顔を上げる。
王国でも有数の大貴族だ。
「一人娘、マーガレット=ニース」
その名前を聞いた瞬間、マークスの脳裏にある噂が浮かぶ。
「……呪い姫、ですか」
「ああ」
父はあっさりと頷いた。
「顔に刻まれた呪いの紋様。あれのせいで、今まで婚約者が決まらなかった」
「……」
「年齢は二十四。お前より六つ上だ」
完全に条件だけ見れば“訳あり物件”だ。
だが――
「侯爵家としては、信頼できる婿が欲しい。こちらとしては、上位貴族との繋がりが得られる」
利害は一致している。
「お前に断る権利はない」
「……承知しております」
マークスは迷わず答えた。
どうせ、ここで拒否しても意味はない。
それに――
(むしろ、好都合かもしれないな)
そう思った。
恋愛感情など、もう期待していない。
ならば、条件で結ばれた関係の方が、よほど楽だ。
「一週間後、顔合わせだ」
「はい」
「それまでに、恥をかかぬよう準備しておけ」
「……はい」
父の言葉に頭を下げながら、マークスは静かに決意した。
(もう同じ失敗はしない)
今度は、感情に振り回されない。
合理的に、冷静に、そして確実に。
◇
一週間後。
ニース侯爵家の屋敷は、想像以上に壮麗だった。
白い石造りの外壁。広大な庭園。
そして、無駄のない洗練された空気。
(さすがは侯爵家だな)
前世の感覚で言えば、一流企業の本社ビルのようなものだ。
無駄がなく、効率的で、そして威圧感がある。
「リヨン伯爵家三男、マークス=リヨン様、ご到着です」
案内された応接室。
そこにいたのは――
「ようこそ、マークス殿」
柔らかな笑みを浮かべる中年の男。
ニース侯爵本人だ。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。さあ、楽にしてくれ」
形式的な挨拶が終わると、侯爵は本題に入った。
「娘を呼ぼう」
その一言で、部屋の空気がわずかに張り詰める。
そして――
静かに扉が開いた。
入ってきたのは、一人の女性。
長い銀髪。落ち着いた雰囲気。
年上らしい大人の気品を纏っている。
だが――
(……あれが、呪いか)
彼女の左頬には、黒い紋様が刻まれていた。
まるで蔦のように広がる、不気味な印。
だが不思議なことに、それはあまり気にならなかった。
むしろ――
(……美しい、な)
前世の記憶があるせいかのか?
どこか神秘的で、目を引くように感じれた。
「マーガレット=ニースです」
彼女は静かに頭を下げた。
声は落ち着いていて、凛としている。
「マークス=リヨンです。本日はお会いできて光栄です」
形式的な挨拶を交わす。
だが、その一瞬。
彼女の瞳が、わずかに揺れた。
(……警戒しているな)
無理もない。
これまで何人もの男に見た目で拒絶されてきたのだろう。
あるいは――
彼女の財産目的で近づいてきた者もいたはずだ。
マークスは一歩、踏み出した。
「その紋様――呪い、と聞いていますが」
部屋の空気が凍る。
侯爵の眉がわずかに動いた。
だがマークスは続ける。
「差し支えなければ、詳細を教えていただけますか?」
「……え?」
マーガレットの目が見開かれる。
予想外だったのだろう。
「私は無知です。ですので、正しく理解したい」
それは本心だった。
前世のビジネスマンとしての習慣。
不明点は確認する。曖昧にしない。
マーガレットはしばらく沈黙し――やがて、小さく息を吐いた。
「……この呪いは、幼い頃に受けたものです」
「原因は?」
「不明です。ただ――」
彼女は一瞬だけ視線を伏せた。
「この紋様に触れた者は、運が悪くなると言われています」
「なるほど」
マークスは頷いた。
(いわゆる厄災系の呪いか)
貴族社会では、これは致命的だ。
誰も近づきたがらない。
だからこそ、彼女は――
(今まで結婚できなかったのだ)
「……それで、マークス様は」
マーガレットが静かに問いかける。
「この婚約を、どうお考えですか?」
試すような視線だった。
マークスは少しだけ考え――
そして、あっさりと答えた。
「合理的だと思います」
「……え?」
「私は三男で、家を継ぐことはありません。あなたは侯爵家の後継者」
淡々と続ける。
「利害は一致しています。問題ありません」
その言葉に、マーガレットは一瞬呆けた後――
ふっと、小さく笑った。
「……正直な方ですね」
「よく言われます」
「嫌われませんか?」
「そうですね。一部の方たちには嫌われていると思います」
その返答に、彼女はくすりと笑った。
先ほどまでの緊張が、少しだけ緩む。
「……では、もう一つ」
「はい」
「もし、この呪いが解けなかったとしても」
彼女はまっすぐに見つめてきた。
「それでも、婚約を続けますか?」
マークスは、迷わなかった。
「はい」
即答だった。
「問題ありません」
「……どうして?」
その問いに、マークスは少しだけ肩をすくめた。
「呪いより厄介なものが、この世の中には、たくさんあるからです」
「……?」
「手柄を横取りする上司とか、仕事を押し付ける人とか」
一瞬の沈黙。
そして――
マーガレットは、はっきりと笑った。
「……変わった方ですね」
「よく言われます」
その日。
二人の婚約は正式に成立した。
そしてマークスの新しい人生が、静かに動き出したのだった。
◇
第三話 呪い姫と白粉の奇跡
ニース侯爵家に婿入りして、六か月が過ぎた。
当初は利害だけで結ばれた関係――そう思っていたが、マークス=リヨンの予想は、少しずつ変わり始めていた。
「マークス様、本日の帳簿です」
「ああ、ありがとう」
書斎で向かい合う二人。
マーガレット=ニースは、相変わらず落ち着いた佇まいで書類を差し出す。
その左頬には、例の黒い呪いの紋様。
だがマークスは、それを異質なものとは感じていなかった。
前世で言うタトゥーのようなものと感じていた。
(見慣れた、っていうのもあるが……)
それ以上に――
(この人自身が、しっかりしてるからだな)
彼女は有能だった。
領地の状況を正確に把握し、数字にも強い。
感情に流されず、冷静に判断できる。
貴族令嬢というより、優秀な経営者に近い。
「……やはり、塩の流通が問題ですね」
マークスは帳簿を見ながら呟いた。
「中間業者が多すぎる。価格が不自然に上がっている」
「私もそう思います」
マーガレットは頷いた。
「ですが、既存の商人たちとの関係があり……」
「切りましょう」
「……え?」
あまりにもあっさりとした一言に、彼女は目を瞬かせた。
「直接契約に切り替えます。生産地と領地を直結させれば、中抜きは防げる」
「ですが、それでは反発が……」
「出ますね」
マークスはあっさり認めた。
「でも、それ以上に利益が出るなら問題ありません。反発は別の仕事を任せれば、少ないかと」
「……」
マーガレットはしばらく彼を見つめ――
ふっと、小さく笑った。
「本当に、容赦がないのですね」
「よく言われます」
軽く肩をすくめる。
前世の感覚で言えば、これは“リストラと業務改革”だ。
感情でやっていたら、会社は潰れる。
領地も同じだ。
「ですが――」
マーガレットは静かに言った。
「頼もしいです」
「……そうですか」
その言葉に、マークスはほんのわずかに視線を逸らした。
(こういうのは、慣れないな)
前世では、評価されることなどほとんどなかった。
だからこそ――少しだけ、くすぐったい。
その日の午後。
庭園を歩いていたマークスは、ふと足を止めた。
視線の先には、マーガレットの姿。
彼女は一人、静かに花を眺めていた。
だが――
(やっぱり、気にしてるよな)
頬の呪いの紋様。
普段は気にしていないように振る舞っているが、視線を向けられる瞬間は確かにある。
それを、彼女自身も分かっている。
「マーガレット」
「マークス様?」
振り向いた彼女に、マークスは少し考えてから言った。
「その……紋様だが」
一瞬だけ、彼女の表情が固まる。
だがマークスは続けた。
「隠す方法を考えてみた」
「……え?」
「完全に消すのは無理だろうが、目立たなくすることはできるかもしれない」
前世の知識が頭をよぎる。
(化粧品、ファンデーション……)
この世界にも化粧はあるが、質は低い。
ならば――
「肌の色に近い粉と油を混ぜて、表面を均一にする」
「それで……隠れるのですか?」
「試してみないと分からないが、理屈上は可能だ」
マーガレットはしばらく黙り――
やがて、静かに言った。
「……どうして、そこまで?」
その問いに、マークスは少しだけ考えた。
そして――
「見えにくい方が、楽でしょう」
あっさりと答える。
それは、特別な理由ではなかった。
ただの改善案。
だが――
「……そう、ですね」
マーガレットは小さく微笑んだ。
その笑顔は、どこか柔らかかった。
◇
翌日。
マークスは、地元のル・スークレ商会に指示を出していた。
「この配合で試作品を作ってくれ」
「承知しました、マスター」
そう――
その商会の裏のマスターは、マークスだった。
前世の経験を活かし、密かに立ち上げた商会。
流通、製造、販売。
すべてを押さえることで、領地の経済をコントロールするための基盤だ。
「期間は?」
「最低でも半年はかかるかと」
「構わない。品質を優先しろ」
「はっ」
商人が頭を下げる。
マークスは頷き、踵を返した。
(これが成功すれば……)
単なる化粧品では終わらない。
貴族社会全体に広がる可能性がある。
つまり――新たな市場だ。
それからの日々。
マークスとマーガレットの関係は、少しずつ変わっていった。
「無理はしないでください」
「これは仕事ですから」
「それでもです」
つい、そう言ってしまう。
自分でも気づいていた。
(……おじさんみたいだな、俺)
前世では三十七歳。
今の肉体は十八歳だが、精神年齢はどうしても高い。
だから――
「今日はもう終わりにしましょう」
「ですが……」
「明日でもできます」
そう言って、書類を取り上げる。
マーガレットは一瞬驚き――
やがて、困ったように笑った。
「……本当に、過保護ですね」
「そうですか?」
「ええ」
くすり、と笑う。
「まるで、年上のお兄さまのようです」
「……気のせいです」
マークスは視線を逸らした。
(当たってるけどな……)
だが、そのやり取りが――
どこか心地よかった。
◇
そして、半年後。
「完成しました、マスター」
差し出された小さな容器。
中には、滑らかな肌色のクリーム。
マークスはそれを手に取り、頷いた。
「……上出来だ」
その日、マーガレットの部屋。
「これを、少しだけ使ってみてください」
「これが……?」
「はい。例の隠すものです」
彼女は少し戸惑いながらも、頷いた。
鏡の前で、侍女が彼女の頬をそっと塗る。
そして――
「……え?」
思わず声が漏れた。
黒い紋様が、ほとんど目立たなくなっている。
完全ではない。
だが――
「……すごい」
彼女は、鏡を見つめたまま呟いた。
「本当に……見えにくくなっています」
「成功ですね」
マークスは満足そうに頷いた。
だがその時。
「……ありがとうございます」
振り向いたマーガレットの瞳は、わずかに潤んでいた。
「ここまでしてくださるなんて……」
「いえ、これは――」
「マークス様」
彼女は一歩近づいた。
「私は、この婚約を……良かったと思っています」
「……」
「最初は、ただの取引だと思っていました」
静かに言葉を紡ぐ。
「ですが今は――違います。私はマークス様をお慕いしています」
その瞳は、まっすぐだ。
マークスは一瞬だけ言葉を失い――
そして、笑みを浮かべた。
(……参ったな)
これは、仕事ではない。
感情が先走る。
恋心であり、気が付けば彼女を愛しているのだ。
だから――
「……俺も、あなたを愛していいます」
そう答えていた。
◇
ニース侯爵領は、確実に変わり始めていた。
流通改革による利益増加。
新商品の開発。
無駄の削減。
そして――
新たな産業の芽。
それらすべての中心にいるのは、マークス=リヨン。
かつて婚約を捨てられた男は、今――
次の時代を動かし始めていた。
◇
第四話 愚かな選択の代償
冬の冷風が吹き抜けるマルセイユ伯爵家の屋敷。
かつては優雅さと余裕に満ちていたその空気は、今や見る影もなく荒れていた。
「――どういうことですの!? この支出は!」
応接室に響く、鋭い声。
イライザ=マルセイユは、机に叩きつけるように帳簿を広げた。
その向かいに座るのは、夫――アクワー=ベルサイユ。
だが、彼はまるで気にした様子もなく、ワイングラスを揺らしている。
「ああ、それか? ちょっとした交際費だ」
「ちょっとで済む額ではありませんわ!」
イライザの声が一段高くなる。
そこに記されているのは、信じがたい数字の羅列だった。
高級酒、贅沢な宴、宝飾品、そして――
「……この女性への贈り物は何ですの?」
「ああ、それは――まあ、知り合いだ」
「知り合い!?」
思わず立ち上がる。
怒りで手が震えていた。
(こんなはずでは……!)
アクワーは侯爵家の三男。
爵位も高く、見た目も良い。
社交界でも華やかな存在で――
(それなのに……!)
実態は、ただの浪費家で女たらし。
しかも、その金は――
「まさか、うちの資金を使っているのではないでしょうね?」
「細かいことを気にするなよ」
軽く笑うアクワー。
「夫婦だろう? 共有財産ってやつだ」
「ふざけないでください!」
イライザは叫んだ。
その声には、もはや余裕はない。
焦りと怒り、そして――後悔。
「あなたは何も分かっていない!」
「何がだ?」
「この家が、どれだけ綱渡りの状態か――!」
言葉を止めた瞬間、アクワーの表情がわずかに歪む。
「……は? どういう意味だ」
「そのままの意味ですわ」
イライザは震える声で言った。
「以前のような余裕は、もうありませんの」
「そんなはずないだろう」
アクワーは鼻で笑う。
「伯爵家だぞ? 金なんていくらでも――」
「ありません!」
叩きつけるような否定。
沈黙が落ちた。
やがてイライザは、ゆっくりと呟いた。
「……あなたが来る前は、まだ持ちこたえていました」
「……」
「でも今は違う。支出は増える一方、収入は伸びない」
その理由は、はっきりしていた。
(マークスが、いないから……)
あの男が裏で支えていた財政。
無駄を削り、利益を生み出し、流れを整えていた。
だが、それを理解していなかったのは――
(……私だ)
胸の奥が、じくりと痛む。
「……つまり、俺のせいだと?」
アクワーの声が低くなる。
「ええ、その通りですわ」
「ほう」
次の瞬間。
ガシャン、とグラスが床に叩きつけられた。
「ふざけるなよ」
先ほどまでの軽薄さは消え、苛立ちが滲む。
「俺は侯爵家の人間だぞ? この程度のことで――」
「侯爵家の三男でしょう!」
イライザも引かなかった。
「あなた自身に、何の力があるというのです!」
「……っ」
一瞬の沈黙。
そして――
「……もういい」
アクワーは立ち上がった。
「そんなに気に入らないなら、好きにしろ」
「どこへ行くのです!」
「決まってるだろう?」
振り返り、にやりと笑う。
「楽しいところだよ」
そう言い残し、部屋を出ていった。
残されたイライザは、力なく椅子に崩れ落ちる。
「……なんで……」
ぽつりと呟いた。
「こんなはずじゃ、なかったのに……」
脳裏に浮かぶのは、一人の男。
落ち着いた瞳。
冷静な判断。
そして――自分を支えていた、あの存在。
「マークス……」
名前を呼んだ瞬間、胸が締め付けられる。
(どうして、あの時……)
顔と爵位で選んだ。
それが正しいと思っていた。
でも――
大切なのは相手の中身だったのだ。
「……違った」
ぽろり、と涙がこぼれた。
「あなたを選ぶべきだった……」
だが、その後悔が届くことは、もう二度とない。
◇
一方その頃。
ニース侯爵家の庭園には、穏やかな空気が流れていた。
「……本当に、消えています」
マーガレット=ニースは、鏡を見つめながら呟いた。
かつて左頬にあった呪いの紋様は――
もう、どこにもない。
「完全に、です」
マークス=リヨンは静かに頷いた。
あの白粉の開発と並行して進めていた調査。
呪いの原因を突き止め、対処法を導き出した。
そして――ついに解除に成功したのだ。
「……信じられません」
マーガレットはそっと頬に触れる。
「長い間、これと共に生きてきたのに……」
「なくなって困りますか?」
「……少しだけ、寂しいです」
そう言って、彼女は微笑んだ。
だがその表情は――以前よりもずっと明るい。
「ですが、それ以上に……嬉しいです」
「それは良かった」
マークスは、どこかほっとしたように息を吐いた。
その様子を見て、マーガレットはくすりと笑う。
「マークス様の方が、嬉しそうですね」
「……そう見えますか?」
「ええ」
彼女は一歩近づいた。
「私のために、ここまでしてくださって」
まっすぐに見つめる。
「ありがとうございます」
「……いえ」
マークスは少しだけ視線を逸らし――
そして、言った。
「俺がやりたかっただけです」
それは、もう仕事ではなかった。
ただ――大切な人のために。
自然と、そう思えたのだ。
「マークス様」
「はい」
「これからも――」
一瞬の間。
そして、はっきりと。
「共に歩んでいただけますか?」
その問いに、迷いはなかった。
「もちろんです」
即答だった。
マーガレットは、嬉しそうに微笑む。
その笑顔は、もう何にも縛られていない。
自由で、柔らかく、そして――美しかった。
ニース侯爵領は、さらに発展を続けていた。
新たな商業ルート。
化粧品事業の拡大。
安定した財政基盤。
その中心にいるのは、二人。
マークスとマーガレット。
かつて呪い姫と呼ばれた彼女と、
かつて捨てられた男だった彼。
だが今は違う。
互いに支え合い、未来を築く存在だ。
そして――
遠く離れたマルセイユ伯爵家では、
その対比のように、崩壊が静かに進んでいた。
選択の違い。
その結果は、あまりにも明確だった。
――愚かな選択は、必ず代償を伴う。
だが賢い選択は、未来を切り開く。
その差を、彼らはこれからも思い知ることになるのだった。
【完】




