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婚約者の浮気で婚約破棄されたマークスは、呪い姫の婿になり、前世の記憶を使って活躍する。

作者: 山田 バルス
掲載日:2026/03/24

第一話 婚約破棄された伯爵三男


 春の陽光が差し込む大講堂。

 フランセ王国が誇る名門――シャンゼル学院の卒業式は、華やかな祝福の空気に満ちていた。

 色とりどりの礼装に身を包んだ貴族の子弟たち。

 笑い声と談笑があちこちで弾け、未来への希望に満ちた空間――

 そのはずだった。


(……遅いな)


 マークス=リヨンは、人混みの中で小さく息を吐いた。

 リヨン伯爵家三男、十八歳。

 整った顔立ちに落ち着いた雰囲気を持つ青年だが、その目はどこか冷静すぎる光を宿している。

 理由は一つ。


(前世の記憶を持っている……)


 彼は転生者だった。

 前世はブラック企業に勤める24時間、戦うサラリーマンだった。

 理不尽な上司に振り回され、成果を横取りされ、それでも歯を食いしばって働き続けた男。

 そんな人生を事故のいう形で終え、気がつけばこの世界に生まれ変わっていた。

 そして――


(まあ、その経験が役に立ってるのは間違いないが)


 彼は婚約者の家、マルセイユ伯爵家の財政を、執事と相談しながら裏から支えてきた。

 無駄な支出の削減。

 流通の改善。

 帳簿の整理。

 前世で培った知識と発想を使い、密かに経営改革を行ってきたのだ。

 だが、それはすべて――


「マークス様」


 後ろから声をかけられた。

 振り向くと、見知った顔の令嬢が立っている。


「イライザ様をお探しですか?」

「ああ。どこにいるか知っているか?」

「それが……先ほど、裏庭の方へ行かれたようで」

「裏庭?」


 嫌な予感がした。

 だが、すぐに首を振る。


(いや、考えすぎだろ。イライザに限ってそんなことがあるはずがない……)


 そう思いながらも、マークスは足を向けた。

 学院の裏庭。

 華やかな大講堂とは打って変わって、人の気配は少ない。

 木々に囲まれた静かな場所。

 そして――


「……っ」


 その光景を見た瞬間、マークスは足を止めた。

 そこにいたのは――

 自分の婚約者、イライザ=マルセイユ。

 そして、社交界でも有名な遊び人と噂の侯爵令息と――抱き合っていたのだ。


「……何をしている」


 思わず口から言葉が漏れる。


 二人が同時に振り向いた。


「あら」


 イライザは、まるで悪びれる様子もなく微笑んだ。


「見てしまったのね、マークス」


 その隣に立つ男。

 金髪に整った顔立ち。

 いかにも貴族らしい自信に満ちた態度。


(……アクワー=ベルサイユだ)


 ベルサイユ侯爵家三男。二十歳。

 そして――


(女たらしで有名な男、だったな)


「どういうことだ、イライザ」


 問いかける声は、驚くほど冷静だった。

 だが内心は違う。

 じわじわと、何かが崩れていく感覚。


「どういうこと、って?」


 イライザは肩をすくめた。


「見ての通りよ」


 そして、はっきりと言い放った。


「あなたとの婚約、破棄するわ」

「……理由は?」


 その問いに、彼女はあっさりと答えた。


「簡単な話よ」


 ちらりとアクワーを見て、微笑む。


「こちらの方が、顔もいいし、爵位も高いもの」


「……」


 あまりにも露骨な理由だった。

 だが――

 納得してしまう自分もいる。


(ああ、そういう世界か)


 前世と同じだ。

 結局は価値で判断される。


「マークス君だったかな?」


 アクワーが一歩前に出てきた。

 軽薄な笑みを浮かべながら。


「悪く思うなよ。女は、より良い男を選ぶものだからな」

「……そうか」


 短く答える。

 怒りは――不思議と湧かなかった。

 代わりにあるのは、冷めた感覚。


「納得したなら話は早いわね」


 イライザは満足そうに頷いた。


「正式な婚約破棄は、後日家同士で行いましょう」

「わかった」


 あまりにもあっさりとした返答に、彼女は一瞬だけ眉をひそめた。


「……随分と冷静なのね」

「そうか?」

「もっと取り乱すかと思ったわ」

「その必要がないだけだ」


 マークスは淡々と言った。


「君がそう選んだ。それだけの話だ」

「……ふん」


 つまらなそうに鼻を鳴らすイライザ。


「まあいいわ。せいぜい、身の丈に合った相手を探すことね」


 その言葉を最後に、二人は去っていった。

 残されたのは、マークス一人。

 静まり返った裏庭。

 風が木々を揺らす音だけが響く。


「……はあ」


 大きく息を吐く。


(終わったな)


 婚約も。

 これまでの努力も。

 すべてが無に帰した。

 ――そう思った、その時。


「いや、違うか」


 マークスは小さく呟いた。


(俺の努力は、あいつらのものじゃない)


 マルセイユ伯爵家の財政改革。

 あれは確かに、自分の手で成し遂げたものだ。

 だが、それを評価するかどうかは――別の話。


「……なら、いい」


 静かに目を閉じる。

 そして開く。

 その瞳には、わずかな決意が宿っていた。


(もう、他人のために尽くすのはやめだ)


 前世と同じ失敗は繰り返さない。

 報われない努力はしない。

 自分の価値は、自分で使う。


「さて」


 マークスは踵を返した。


「これからどうするか、考えるか」


 その背中には、もはや未練はなかった。

 ただ一つ――

 マークスを失った代償の大きさを知らないのは、イライザたちの方だ。

 彼らが捨てたものが、どれほど大きいかを。

 そして――

 その代償を、やがて思い知ることになるということを。


 ◇


 第二話 呪い姫との婚約


 あの日から一か月。

 春の華やかな卒業式での婚約破棄は、予想以上に尾を引いていた。

 マークス=リヨンは、自室の窓辺に立ちながら、ぼんやりと庭を眺めていた。

 かつては婚約者だったイライザ=マルセイユと過ごした日々。

 その裏で自分がどれほど尽くしてきたかを思い出すたび、胸の奥に鈍い痛みが走る。


「……本当に、馬鹿みたいだな」


 前世――ブラック企業で働いていた頃の記憶が蘇る。

 理不尽な上司。成果を横取りする同僚。

 どれだけ努力しても報われない環境。

 それでも、あの頃の自分はこう思っていた。


 “努力はいつか報われる”


 だが現実はどうだ。

 この世界でも同じだった。

 裏で支え、帳簿を整え、無駄を削減し、利益を出し――

 マルセイユ伯爵家の財政を立て直したのは間違いなく自分だ。

 それなのに。


「顔と爵位で選ばれた、か……」


 苦笑が漏れる。

 あまりにも単純で、あまりにも現実的な理由。

 そして――それが、この世界の「正解」なのだ。


「マークス様」


 控えめなノックとともに、執事が声をかけてきた。


「旦那様がお呼びです」

「……ああ、今行く」


 どうせろくな話ではない。

 そう思いながら、マークスは部屋を出た。

 応接室に入ると、父――リヨン伯爵が腕を組んで座っていた。

 厳格な顔つき。鋭い視線。

 その視線が、息子を値踏みするように向けられる。


「遅い」

「申し訳ありません」

「……まあいい」


 父は短く息を吐いた。


「一月前の件だが」


 やはりそれか。

 マークスは静かに頷く。


「我が家の名に泥を塗ったこと、どう責任を取るつもりだ」

「……」


 内心で苦笑する。


(責任? 浮気されたのはこっちなんだがな)


 だが、それを口に出しても意味はない。

 この世界では「結果」がすべてだ。


「申し訳ありません。ですが――」

「言い訳は聞かん」


 ぴしゃりと遮られる。


「婚約を維持できなかった時点で、お前の負けだ」


 冷酷な言葉だった。

 だが、否定はできない。

 マークスは黙って頭を下げた。


「……だが」


 父の声が少しだけ和らぐ。


「今回の件、マルセイユ家にも非はある」

「!」

「表立っては言わんがな。あちらも評判を落とした」


 つまり――完全な一方的敗北ではない、ということか。


「そこでだ」


 父は一枚の書類を差し出した。


「新しい婚約をまとめた」

「……もう、ですか」

「貴族にとって婚約は戦略だ。感情ではない」


 その通りだ。

 理解はしている。

 理解しているが――


「相手は、ニース侯爵家」

「……ニース?」


 思わず顔を上げる。

 王国でも有数の大貴族だ。


「一人娘、マーガレット=ニース」


 その名前を聞いた瞬間、マークスの脳裏にある噂が浮かぶ。


「……呪い姫、ですか」

「ああ」


 父はあっさりと頷いた。


「顔に刻まれた呪いの紋様。あれのせいで、今まで婚約者が決まらなかった」

「……」

「年齢は二十四。お前より六つ上だ」


 完全に条件だけ見れば“訳あり物件”だ。

 だが――


「侯爵家としては、信頼できる婿が欲しい。こちらとしては、上位貴族との繋がりが得られる」

 利害は一致している。


「お前に断る権利はない」

「……承知しております」


 マークスは迷わず答えた。

 どうせ、ここで拒否しても意味はない。

 それに――


(むしろ、好都合かもしれないな)


 そう思った。

 恋愛感情など、もう期待していない。

 ならば、条件で結ばれた関係の方が、よほど楽だ。


「一週間後、顔合わせだ」

「はい」

「それまでに、恥をかかぬよう準備しておけ」

「……はい」


 父の言葉に頭を下げながら、マークスは静かに決意した。


(もう同じ失敗はしない)


 今度は、感情に振り回されない。

 合理的に、冷静に、そして確実に。


 ◇


 一週間後。

 ニース侯爵家の屋敷は、想像以上に壮麗だった。

 白い石造りの外壁。広大な庭園。

 そして、無駄のない洗練された空気。


(さすがは侯爵家だな)


 前世の感覚で言えば、一流企業の本社ビルのようなものだ。

 無駄がなく、効率的で、そして威圧感がある。


「リヨン伯爵家三男、マークス=リヨン様、ご到着です」


 案内された応接室。

 そこにいたのは――


「ようこそ、マークス殿」


 柔らかな笑みを浮かべる中年の男。

 ニース侯爵本人だ。


「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

「こちらこそ。さあ、楽にしてくれ」


 形式的な挨拶が終わると、侯爵は本題に入った。


「娘を呼ぼう」


 その一言で、部屋の空気がわずかに張り詰める。

 そして――

 静かに扉が開いた。

 入ってきたのは、一人の女性。

 長い銀髪。落ち着いた雰囲気。

 年上らしい大人の気品を纏っている。

 だが――


(……あれが、呪いか)


 彼女の左頬には、黒い紋様が刻まれていた。

 まるで蔦のように広がる、不気味な印。

 だが不思議なことに、それはあまり気にならなかった。

 むしろ――


(……美しい、な)


 前世の記憶があるせいかのか?

 どこか神秘的で、目を引くように感じれた。


「マーガレット=ニースです」


 彼女は静かに頭を下げた。

 声は落ち着いていて、凛としている。


「マークス=リヨンです。本日はお会いできて光栄です」


 形式的な挨拶を交わす。

 だが、その一瞬。

 彼女の瞳が、わずかに揺れた。


(……警戒しているな)


 無理もない。

 これまで何人もの男に見た目で拒絶されてきたのだろう。

 あるいは――

 彼女の財産目的で近づいてきた者もいたはずだ。

 マークスは一歩、踏み出した。


「その紋様――呪い、と聞いていますが」


 部屋の空気が凍る。

 侯爵の眉がわずかに動いた。

 だがマークスは続ける。


「差し支えなければ、詳細を教えていただけますか?」

「……え?」


 マーガレットの目が見開かれる。

 予想外だったのだろう。


「私は無知です。ですので、正しく理解したい」


 それは本心だった。

 前世のビジネスマンとしての習慣。

 不明点は確認する。曖昧にしない。

 マーガレットはしばらく沈黙し――やがて、小さく息を吐いた。


「……この呪いは、幼い頃に受けたものです」

「原因は?」

「不明です。ただ――」


 彼女は一瞬だけ視線を伏せた。


「この紋様に触れた者は、運が悪くなると言われています」

「なるほど」


 マークスは頷いた。


(いわゆる厄災系の呪いか)


 貴族社会では、これは致命的だ。

 誰も近づきたがらない。

 だからこそ、彼女は――


(今まで結婚できなかったのだ)


「……それで、マークス様は」


 マーガレットが静かに問いかける。


「この婚約を、どうお考えですか?」


 試すような視線だった。

 マークスは少しだけ考え――

 そして、あっさりと答えた。


「合理的だと思います」

「……え?」

「私は三男で、家を継ぐことはありません。あなたは侯爵家の後継者」


 淡々と続ける。


「利害は一致しています。問題ありません」


 その言葉に、マーガレットは一瞬呆けた後――

 ふっと、小さく笑った。


「……正直な方ですね」

「よく言われます」

「嫌われませんか?」

「そうですね。一部の方たちには嫌われていると思います」


 その返答に、彼女はくすりと笑った。

 先ほどまでの緊張が、少しだけ緩む。


「……では、もう一つ」

「はい」

「もし、この呪いが解けなかったとしても」


 彼女はまっすぐに見つめてきた。


「それでも、婚約を続けますか?」


 マークスは、迷わなかった。


「はい」


 即答だった。


「問題ありません」

「……どうして?」


 その問いに、マークスは少しだけ肩をすくめた。


「呪いより厄介なものが、この世の中には、たくさんあるからです」

「……?」

「手柄を横取りする上司とか、仕事を押し付ける人とか」


 一瞬の沈黙。

 そして――

 マーガレットは、はっきりと笑った。


「……変わった方ですね」

「よく言われます」


 その日。

 二人の婚約は正式に成立した。

 そしてマークスの新しい人生が、静かに動き出したのだった。


 ◇


 第三話 呪い姫と白粉の奇跡


 ニース侯爵家に婿入りして、六か月が過ぎた。

 当初は利害だけで結ばれた関係――そう思っていたが、マークス=リヨンの予想は、少しずつ変わり始めていた。


「マークス様、本日の帳簿です」

「ああ、ありがとう」


 書斎で向かい合う二人。

 マーガレット=ニースは、相変わらず落ち着いた佇まいで書類を差し出す。

 その左頬には、例の黒い呪いの紋様。

 だがマークスは、それを異質なものとは感じていなかった。

 前世で言うタトゥーのようなものと感じていた。


(見慣れた、っていうのもあるが……)


 それ以上に――


(この人自身が、しっかりしてるからだな)


 彼女は有能だった。

 領地の状況を正確に把握し、数字にも強い。

 感情に流されず、冷静に判断できる。

 貴族令嬢というより、優秀な経営者に近い。


「……やはり、塩の流通が問題ですね」


 マークスは帳簿を見ながら呟いた。


「中間業者が多すぎる。価格が不自然に上がっている」

「私もそう思います」


 マーガレットは頷いた。


「ですが、既存の商人たちとの関係があり……」

「切りましょう」

「……え?」


 あまりにもあっさりとした一言に、彼女は目を瞬かせた。


「直接契約に切り替えます。生産地と領地を直結させれば、中抜きは防げる」

「ですが、それでは反発が……」

「出ますね」


 マークスはあっさり認めた。


「でも、それ以上に利益が出るなら問題ありません。反発は別の仕事を任せれば、少ないかと」

「……」


 マーガレットはしばらく彼を見つめ――

 ふっと、小さく笑った。


「本当に、容赦がないのですね」

「よく言われます」


 軽く肩をすくめる。

 前世の感覚で言えば、これは“リストラと業務改革”だ。

 感情でやっていたら、会社は潰れる。

 領地も同じだ。


「ですが――」

 マーガレットは静かに言った。


「頼もしいです」

「……そうですか」


 その言葉に、マークスはほんのわずかに視線を逸らした。


(こういうのは、慣れないな)


 前世では、評価されることなどほとんどなかった。

 だからこそ――少しだけ、くすぐったい。

 その日の午後。

 庭園を歩いていたマークスは、ふと足を止めた。

 視線の先には、マーガレットの姿。

 彼女は一人、静かに花を眺めていた。

 だが――


(やっぱり、気にしてるよな)


 頬の呪いの紋様。

 普段は気にしていないように振る舞っているが、視線を向けられる瞬間は確かにある。

 それを、彼女自身も分かっている。


「マーガレット」

「マークス様?」


 振り向いた彼女に、マークスは少し考えてから言った。


「その……紋様だが」


 一瞬だけ、彼女の表情が固まる。

 だがマークスは続けた。


「隠す方法を考えてみた」

「……え?」

「完全に消すのは無理だろうが、目立たなくすることはできるかもしれない」


 前世の知識が頭をよぎる。


(化粧品、ファンデーション……)


 この世界にも化粧はあるが、質は低い。

 ならば――


「肌の色に近い粉と油を混ぜて、表面を均一にする」

「それで……隠れるのですか?」

「試してみないと分からないが、理屈上は可能だ」


 マーガレットはしばらく黙り――

 やがて、静かに言った。


「……どうして、そこまで?」


 その問いに、マークスは少しだけ考えた。

 そして――


「見えにくい方が、楽でしょう」


 あっさりと答える。


 それは、特別な理由ではなかった。

 ただの改善案。

 だが――


「……そう、ですね」


 マーガレットは小さく微笑んだ。

 その笑顔は、どこか柔らかかった。


 ◇


 翌日。


 マークスは、地元のル・スークレ商会に指示を出していた。


「この配合で試作品を作ってくれ」

「承知しました、マスター」


 そう――

 その商会の裏のマスターは、マークスだった。

 前世の経験を活かし、密かに立ち上げた商会。

 流通、製造、販売。

 すべてを押さえることで、領地の経済をコントロールするための基盤だ。


「期間は?」

「最低でも半年はかかるかと」

「構わない。品質を優先しろ」

「はっ」


 商人が頭を下げる。

 マークスは頷き、踵を返した。


(これが成功すれば……)


 単なる化粧品では終わらない。

 貴族社会全体に広がる可能性がある。

 つまり――新たな市場だ。

 それからの日々。

 マークスとマーガレットの関係は、少しずつ変わっていった。


「無理はしないでください」

「これは仕事ですから」

「それでもです」


 つい、そう言ってしまう。

 自分でも気づいていた。


(……おじさんみたいだな、俺)


 前世では三十七歳。

 今の肉体は十八歳だが、精神年齢はどうしても高い。

 だから――


「今日はもう終わりにしましょう」

「ですが……」

「明日でもできます」


 そう言って、書類を取り上げる。

 マーガレットは一瞬驚き――

 やがて、困ったように笑った。


「……本当に、過保護ですね」

「そうですか?」

「ええ」


 くすり、と笑う。


「まるで、年上のお兄さまのようです」

「……気のせいです」


 マークスは視線を逸らした。


(当たってるけどな……)


 だが、そのやり取りが――

 どこか心地よかった。


 ◇


 そして、半年後。


「完成しました、マスター」


 差し出された小さな容器。

 中には、滑らかな肌色のクリーム。

 マークスはそれを手に取り、頷いた。


「……上出来だ」


 その日、マーガレットの部屋。


「これを、少しだけ使ってみてください」

「これが……?」

「はい。例の隠すものです」


 彼女は少し戸惑いながらも、頷いた。

 鏡の前で、侍女が彼女の頬をそっと塗る。

 そして――


「……え?」


 思わず声が漏れた。

 黒い紋様が、ほとんど目立たなくなっている。

 完全ではない。

 だが――


「……すごい」


 彼女は、鏡を見つめたまま呟いた。


「本当に……見えにくくなっています」

「成功ですね」


 マークスは満足そうに頷いた。

 だがその時。


「……ありがとうございます」


 振り向いたマーガレットの瞳は、わずかに潤んでいた。


「ここまでしてくださるなんて……」

「いえ、これは――」

「マークス様」


 彼女は一歩近づいた。


「私は、この婚約を……良かったと思っています」

「……」

「最初は、ただの取引だと思っていました」


 静かに言葉を紡ぐ。


「ですが今は――違います。私はマークス様をお慕いしています」


 その瞳は、まっすぐだ。

 マークスは一瞬だけ言葉を失い――

 そして、笑みを浮かべた。


(……参ったな)


 これは、仕事ではない。

 感情が先走る。

 恋心であり、気が付けば彼女を愛しているのだ。

 だから――


「……俺も、あなたを愛していいます」


 そう答えていた。


 ◇


 ニース侯爵領は、確実に変わり始めていた。

 流通改革による利益増加。

 新商品の開発。

 無駄の削減。

 そして――

 新たな産業の芽。

 それらすべての中心にいるのは、マークス=リヨン。

 かつて婚約を捨てられた男は、今――

 次の時代を動かし始めていた。


 ◇


 第四話 愚かな選択の代償


 冬の冷風が吹き抜けるマルセイユ伯爵家の屋敷。

 かつては優雅さと余裕に満ちていたその空気は、今や見る影もなく荒れていた。


「――どういうことですの!? この支出は!」


 応接室に響く、鋭い声。

 イライザ=マルセイユは、机に叩きつけるように帳簿を広げた。

 その向かいに座るのは、夫――アクワー=ベルサイユ。

 だが、彼はまるで気にした様子もなく、ワイングラスを揺らしている。


「ああ、それか? ちょっとした交際費だ」

「ちょっとで済む額ではありませんわ!」


 イライザの声が一段高くなる。

 そこに記されているのは、信じがたい数字の羅列だった。

 高級酒、贅沢な宴、宝飾品、そして――


「……この女性への贈り物は何ですの?」

「ああ、それは――まあ、知り合いだ」

「知り合い!?」


 思わず立ち上がる。

 怒りで手が震えていた。


(こんなはずでは……!)


 アクワーは侯爵家の三男。

 爵位も高く、見た目も良い。

 社交界でも華やかな存在で――


(それなのに……!)


 実態は、ただの浪費家で女たらし。

 しかも、その金は――


「まさか、うちの資金を使っているのではないでしょうね?」

「細かいことを気にするなよ」


 軽く笑うアクワー。


「夫婦だろう? 共有財産ってやつだ」

「ふざけないでください!」


 イライザは叫んだ。

 その声には、もはや余裕はない。

 焦りと怒り、そして――後悔。


「あなたは何も分かっていない!」

「何がだ?」

「この家が、どれだけ綱渡りの状態か――!」


 言葉を止めた瞬間、アクワーの表情がわずかに歪む。


「……は? どういう意味だ」

「そのままの意味ですわ」


 イライザは震える声で言った。


「以前のような余裕は、もうありませんの」

「そんなはずないだろう」


 アクワーは鼻で笑う。


「伯爵家だぞ? 金なんていくらでも――」

「ありません!」


 叩きつけるような否定。

 沈黙が落ちた。

 やがてイライザは、ゆっくりと呟いた。


「……あなたが来る前は、まだ持ちこたえていました」

「……」

「でも今は違う。支出は増える一方、収入は伸びない」


 その理由は、はっきりしていた。


(マークスが、いないから……)


 あの男が裏で支えていた財政。

 無駄を削り、利益を生み出し、流れを整えていた。

 だが、それを理解していなかったのは――


(……私だ)


 胸の奥が、じくりと痛む。


「……つまり、俺のせいだと?」


 アクワーの声が低くなる。


「ええ、その通りですわ」

「ほう」


 次の瞬間。

 ガシャン、とグラスが床に叩きつけられた。


「ふざけるなよ」


 先ほどまでの軽薄さは消え、苛立ちが滲む。


「俺は侯爵家の人間だぞ? この程度のことで――」

「侯爵家の三男でしょう!」


 イライザも引かなかった。


「あなた自身に、何の力があるというのです!」

「……っ」


 一瞬の沈黙。

 そして――


「……もういい」


 アクワーは立ち上がった。


「そんなに気に入らないなら、好きにしろ」

「どこへ行くのです!」

「決まってるだろう?」


 振り返り、にやりと笑う。


「楽しいところだよ」


 そう言い残し、部屋を出ていった。

 残されたイライザは、力なく椅子に崩れ落ちる。


「……なんで……」


 ぽつりと呟いた。


「こんなはずじゃ、なかったのに……」


 脳裏に浮かぶのは、一人の男。

 落ち着いた瞳。

 冷静な判断。

 そして――自分を支えていた、あの存在。


「マークス……」


 名前を呼んだ瞬間、胸が締め付けられる。


(どうして、あの時……)


 顔と爵位で選んだ。

 それが正しいと思っていた。

 でも――

 大切なのは相手の中身だったのだ。


「……違った」


 ぽろり、と涙がこぼれた。


「あなたを選ぶべきだった……」


 だが、その後悔が届くことは、もう二度とない。


 ◇


 一方その頃。

 ニース侯爵家の庭園には、穏やかな空気が流れていた。


「……本当に、消えています」


 マーガレット=ニースは、鏡を見つめながら呟いた。

 かつて左頬にあった呪いの紋様は――

 もう、どこにもない。


「完全に、です」


 マークス=リヨンは静かに頷いた。

 あの白粉の開発と並行して進めていた調査。

 呪いの原因を突き止め、対処法を導き出した。

 そして――ついに解除に成功したのだ。


「……信じられません」


 マーガレットはそっと頬に触れる。


「長い間、これと共に生きてきたのに……」

「なくなって困りますか?」

「……少しだけ、寂しいです」


 そう言って、彼女は微笑んだ。

 だがその表情は――以前よりもずっと明るい。


「ですが、それ以上に……嬉しいです」

「それは良かった」


 マークスは、どこかほっとしたように息を吐いた。

 その様子を見て、マーガレットはくすりと笑う。


「マークス様の方が、嬉しそうですね」

「……そう見えますか?」

「ええ」


 彼女は一歩近づいた。


「私のために、ここまでしてくださって」


 まっすぐに見つめる。


「ありがとうございます」

「……いえ」


 マークスは少しだけ視線を逸らし――

 そして、言った。


「俺がやりたかっただけです」


 それは、もう仕事ではなかった。

 ただ――大切な人のために。

 自然と、そう思えたのだ。


「マークス様」

「はい」

「これからも――」


 一瞬の間。

 そして、はっきりと。


「共に歩んでいただけますか?」


 その問いに、迷いはなかった。


「もちろんです」


 即答だった。

 マーガレットは、嬉しそうに微笑む。

 その笑顔は、もう何にも縛られていない。

 自由で、柔らかく、そして――美しかった。

 ニース侯爵領は、さらに発展を続けていた。

 新たな商業ルート。

 化粧品事業の拡大。

 安定した財政基盤。

 その中心にいるのは、二人。

 マークスとマーガレット。

 かつて呪い姫と呼ばれた彼女と、

 かつて捨てられた男だった彼。

 だが今は違う。

 互いに支え合い、未来を築く存在だ。

 そして――

 遠く離れたマルセイユ伯爵家では、

 その対比のように、崩壊が静かに進んでいた。

 選択の違い。

 その結果は、あまりにも明確だった。

 ――愚かな選択は、必ず代償を伴う。

 だが賢い選択は、未来を切り開く。

 その差を、彼らはこれからも思い知ることになるのだった。


 【完】

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