春、プリマヴェーラの夜の事件
新しい話を書き始めました。読んでくださるとうれしいです。毎週木曜日の20:40公開です。
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「バーベナ・ド・マルヴァーニャ!私はお前との婚約を破棄する!」
その瞬間、煌びやかな音楽が止まり、舞踏会場の空気が凍りついた。
まるで時が止まったかのような静寂が広がる中、ハミルトン帝国の王子アッシュ・チャールズ・ハミルトンは、中央の舞台で堂々と声を張り上げていた。
ハミルトン帝国を象徴する真紅と金の衣装に身を包みながら、その瞳には決意と少しばかりの高揚感が宿っている。
名指しで婚約破棄の宣言を受けたバーベナ・ド・マルヴァーニャ侯爵令嬢は、その場で微動だにせず立っていた。
彼女はブロンドの髪を上品に結い上げ、アッシュと合わせた真紅と金のドレスを纏っている。
その表情は冷たく、まるで石像のようにぴくりとも動かない。
だが、心の中はそうではない。
バーベナは見た目にそぐわず、ひどく焦っていた。
(アッシュ様…?プリマヴェーラでなんてことをおっしゃっていますの?わたくしに婚約破棄を伝えるなど、今ここでなくても良いではないですか!)
バーベナは、自分が婚約者に婚約破棄をされたにも関わらず、どこか他人事だ。
バーベナが気になるのは周囲の貴族たちの視線、扇子の裏でひそひそと話す声、眉をひそめる表情―……
(今日、この日のために、私がどれだけ準備をしたか!アッシュ様が私に押し付けた仕事をこなして、陛下からも開催の段取りに念を押され、胃が痛い思いをしながら、完璧に仕上げたと思っていたのに!)
プリマヴェーラ─それは、ハミルトン帝国で年に四度行われる各シーズンの社交うちの一つであり、春の訪れを祝う華やかな祭典だ。
この舞踏会は、次代を担う若き貴族たちが主役となり、社交界への一歩を踏み出すための重要な場でもある。
そして、そのプリマヴェーラの主催者は、王の跡目候補者たちの役目だった。
そんな祭典を他でもなく王子殿下にぶち壊された。
きっと、バーベナの表情が常人のように動いていれば、唇はわなわなと震え、顔は真っ青になっていただろう。
しかし、それは叶わない。
バーベナはかわりに眉ひとつ動かさず、僅かに首を傾げた。
それがバーベナにできる最大限の感情表現だったからだ。
「アッシュ様、婚約破棄とはいったい…どういうことでしょうか?」
ハミルトン帝国は古き歴史を持つ国であり、周辺諸国からも一目置かれる存在だ。
周辺を山に囲まれ、資源には乏しいが、長年の安定した治世があり、国内には数多の貴族家門が賢王を支える。
侯爵家であるマルヴァーニャ家も、その中で重要な役割を担う家系である。
バーベナは帝国の信頼を受けるマルヴァーニャ家の令嬢として、王太子妃候補を探していた王室の目に留まり、幼い頃から厳格な教育のもと、知性と品格を身につけてきた。
バーベナはその身につけた品性をフル活用し、自前の扇子で口元を隠しながら、静かな声で先の問いを問いかける。
その声からは驚きも、怒りも感じられない。
しかし、バーベナの心の中は、自分の努力が、無に帰しそうになっていることに虚無感でいっぱいだ。
「言葉通りだ。バーベナ、そなたとの婚約破棄を命じている。そなたが社交界でどのようなあだながついているか知っているか?『鉄面皮の侯爵令嬢』や『氷の魔女』だ!そなたと過ごす淡々とした時間。私にはあのお茶会が苦痛で仕方なかった。」
(…………精一杯楽しめるように頑張っていましたのに。)
バーベナは、表情が動かなくなってしまったことと、その完璧さが仇となり、一部の貴族の間で自分が「鉄面皮」と揶揄される存在になってしまったことは知っていた。
表情を表に出さない、いや、出せない彼女の姿勢は、冷徹な人間だという誤解を招き、特にアッシュにとっては耐えがたいものだったのだろう。
だが、本当は心の中では自分は感情豊かな方だと思っている。
(笑顔が難しいから知的な面白さを目指していたのですが、アッシュ様には響かなかったのね)
バーベナが、お茶会の態度を少しだけ反省していると、アッシュはとんでもない事を続ける。
「そして、私はこのマリーナ男爵令嬢と婚約することにする!」
アッシュは興奮しているのか少し紅潮した頬で舞台脇に立つ女性へ視線を送り、彼女を舞台中央へと招いた。
その女性─マリーナ男爵令嬢は、甘い砂糖菓子のようにふんわりと髪をセットし、フリルがふんだんに使われたドレスを纏い、可愛らしい微笑みを浮かべている。
登場した男爵令嬢に、あっけにとられていた貴族たちも、ようやく声を出し始める。
「あれは…ローザリア男爵家の令嬢か?」
「あれは誰だ?」
「まさか、王子殿下が男爵令嬢を?身分違いもはなはだしいのでは?」
プリマヴェーラに似つかわしくない人物の登場に、一瞬にしてざわつきが波紋のように広がる。
彼女はこの国の男爵家に生まれた、いわば社交界の最下層に属する令嬢で、本来的には一国の王子とは交わらないところであるが、バーベナと正反対であるその愛らしい容姿と純朴そうな雰囲気でアッシュの心を掴んだらしい。
周囲のざわつきを抑えるかのように、アッシュが声高々に台詞をつむぐ。
「マリーナは私の話に心から笑い、涙してくれる。バーベナ、君とは違って!」
(……確かに、わたくしと違って可愛らしいわね。でも、それってわたくしに直接言えばよろしくなくて?)
バーベナの心中には、自分が捨てられたという不安や怒りはまったくなく、ただただプリマヴェーラが取り返しのつかないほどに台無しにされたことへの怒りがじわじわと広がっていた。
「アッシュ様、陛下とわたくしの父は、この件をご存知ですの?」
「う…父上や侯爵にはこれから話すつもりだ。マリーナの立場では、謁見の機会を得るのも難しい……だからプリマヴェーラだったのだ!」
(なるほど…?ですから、あえてのプリマヴェーラ…)
堂々と言い切るアッシュの姿を見て、バーベナは――その無謀さに、ある種の納得を覚えてしまった。
確かにプリマヴェーラは、未熟な王子や王子妃が開催することから、家門の中でも特に年若い令嬢や令息が参加し、些細なマナー違反や無礼講には伝統的に目をつむるのだ。
「おっしゃることはわかりましたわ。」
朗々と別の女性への愛を語り出したアッシュに何の感情も抱かなかった事を改めて認識したバーベナは、口元を覆っていた扇子を左手でピシッと閉じ、静かながらもよく通る声ではっきりと告げる。
「では、わたくしバーベナ・ド・マルヴァーニャは、この婚約破棄を受け入れます。」
その瞬間、再び会場がざわついた。
(果たしてこれは、皆様に目をつむっていただける範疇なのかわからないけれど…。もういいわよね?王子妃候補でもなくなったわけですし。)
バーベナはその場を振り返ることなく、優雅に一礼して会場を後にする。彼女の背中には微塵の迷いも見られず、むしろ婚約破棄を言い渡された側とは思えないほどの威厳が漂っていた。
「まさか、アッシュ殿下があのような宣言をするとは…。そりゃ婚約者が鉄面皮の令嬢だものな…くくく。明るい生活は想像できないさ。」
「あら、マルヴァーニャ侯爵令嬢は見事な対応でしたわね。泣き喚くような真似をしないなんて。わたくしでしたら卒倒してしまいますわ…。あ、氷の魔女は泣き喚くこともできないのかしらね。」
「それにしても、これは大きく議会の勢力が変わるのではないか?マルヴァーニャ侯爵家に味方していた家門は手のひらを返すぞ。」
バーベナを揶揄する様々な声が飛び交う中でも足は止めない。バーベナの「鉄面皮」というあだ名は、今夜の出来事を機に、さらに広まるだろう。
(アッシュ殿下の勢いに任せて婚約破棄を受け入れてしまったけれど…。もしかして、私とんでもないことをしでかしたかしら?)
その小さな出来事が、やがて帝国中を揺るがす騒動の始まりだと、この時のバーベナは、まだ知らなかった。
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