そのぬくもりで温めて
今日の行ヶ岳は、とても機嫌がいいみたい。雪と風が、全力で踊り明かしているもの。
とはいえ、前も見えないほどになると困るけれど。このまま深くなれば、どこに向かうこともできない。
息をついて、山小屋へ向かう。ホワイトアウトしたって、きっと迷わない場所だから。
たどり着いた先で扉を開けると、先客の男が居た。左手には、青いブレスレットが覗く。少し古びていて、だけどしっかりと手入れされている。
私は、自分の右手に触れた。男は暖炉にあたって、手をこすり合わせている。私の方を見て、薄く笑った。
「あんたも、ここで……?」
「はい。誘われたみたいですね」
「まったく、行ヶ岳ってのは困ったやつだ……」
行ヶ岳に誘われたものは、雪に朽ちる。よく言われる話。彼も、思い出しているみたい。
「お互い、大変ですね。あなたと出会えたことは、幸運だったかもしれませんけれど」
「確かにな。悪いことばかり、浮かんできちまったんだ」
男は、分厚い窓を見ている。何度も風と雪が叩きつけられて、真っ白に染まっている。外なんて、まるで見えない。
私の方を見る時も、窓に視線が吸い寄せられている。
少しだけ、私は笑みを浮かべる。穏やかで、落ち着いたものを。
どんな感情か、自分でも判然としない。だけど、出会えて良かったのはお互い様。
「なら、良かったです。邪魔だと思われたら、悲しいですから」
「あんたも、こっちにどうだ? 寒いだろ、そこは」
自分の隣を、何度か軽く叩いている。気のいい笑顔を浮かべていて、私もつられた。
隣に座る前に、軽く暖炉から離れてくれる。男は、薪をひとつひとつ暖炉に入れている。何度も、取り落としかけながら。
今もずっと優しいまま。つい、声が弾む。
「良いですね。せっかくですから、話でもしませんか?」
「そうだな。気も、まぎれるか……」
「よく、ここで遊んでいたんです。ですが、思った以上に吹雪いて」
「似たようなもんさ、俺もな。なんとなく、来たんだ。一度登ったことがあるから、いけるかと……」
私の後ろあたりを見ている。焦点が、わずかにズレたまま。そして、激しく頭をかいていた。
その手を取って、穏やかな笑顔を向ける。触れるだけのように、甲を撫でながら。ブレスレットを、指先に感じた。
「きっと、素敵な未来を迎えられますよ。私たちなら、ね?」
「だと、良いな。晴れたなら、外の空気が吸いたいもんだ」
「ふふっ、幸せそうですね。行ヶ岳も、間違いなく歓迎してくれます」
「花でも、見えるだろうか。それとも、雪景色か……」
「きっと、満開ですよ。暖かい想いが、芽吹くはずです」
ぬくもりを糧にすれば、大輪が花開く。そんな噂も、流れていた。男は、頷いて腕を組む。知っているのか、どうなのか。ほんの小さなうなり声が、漏れていた。
「これが、最後か……」
そうこぼして、首を振る。薪を手にとって、しばらくながめる。そして、ゆっくりと暖炉に入れていった。手放すまで、少し長く握り続けて。
息を手に当てる姿が、見えた。唇は、いくらか青く見える。
「心配しないで。私たちは、ずっと一緒です。だから、ね?」
「だが……。この火が消えたら、俺も、あんたも……」
「あなたがいるのなら、私は大丈夫です」
「なあ、あんた……」
しばらくうつむいてから、こちらを向いた。激しく、瞳を揺らしながら。手を、伸ばしかけている。
すぐに頷いて、近寄っていく。一度、微笑みを見せて。一歩ずつ、確かに。
男の胸に頭をあずける。腕が回される。たくましさを感じた。雪山での定番と言えばそれまで。けれど、それこそが望み。私の、本能。わずかに、唇を濡らした。
「冷てえ、な。あんたも、多少は……」
「とても、暖かいですね……」
「なら、良いんだが。なあ、あんたは本当に……」
男の瞳は、揺れ続けている。心まで、暖かい人。だからこそ、自分の息をいつもより熱く感じる。
相手の背中に、腕を回した。そして、強く抱きしめ合う。お互いの熱を、どこまでも交換できるほどに。強いつながりを、体中で感じながら。
視界の端で、消えそうな炎が揺らめいていた。
「あなたなら、良いんです。いいえ。あなたが良いんです」
「もうすぐ、火が……。どこまで、俺たちは……」
私は、回した腕に力を込めた。同じように、返ってくる。言葉なんてないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
炎は、少しだけ膨らんでいた。ぬくもりが、伝わり続けた。私に、染み込んでいく。
「大丈夫。ずっと、一緒ですよ。ほら、ね?」
抱きしめる力を強めると、同じように返ってくる。
「あんたも、暖かくなってきたな……」
そう言いながら、まだ震えたまま。私には、確かにぬくもりが届いた。だから、必然ではある。
「動くことができれば、少しは違うんでしょうけれど」
「狭すぎなければ、だがな……」
私を抱きしめる腕も体も、震え続けている。だけど、決して私を離そうとしない。熱のすべてを、伝えるように。
危機的状況だとしても、他者を思いやれる人。とても強く、伝わっていた。誰よりも、理解できた。
「でしたら、提案があるんです」
「提案……?」
何も言わずに、ふわりと想いを押し付ける。口の奥から、熱を交換していく。喉を通して、吸い取るように。相手は目を見開いて、すぐに返してくれた。
腕に、もっと力を込める。つながりが、だんだん広がっていく。窓を叩く風が、勢いよく喜びを叫ぶ。
「あり、がとう……」
「いいえ。私こそ、です」
先に私が、寒さに触れる。男も、続く。後は、言葉なんてなかった。
お互いの熱を、ひたすらに感じ合うだけ。どこまでも深く、すべてを交換しあった。ふたりの体温が、同じになるまで。
視界の端で、炎が激しく揺らめく。どこまでも多くの熱が、贈られてきた。命を、全力で燃やしながら。私の心は、太陽よりも熱かった。
何度も何度も感情をぶつけ合って、多くの熱を受け止める。すべてが、注ぎ込まれた。動きを止めた男は、私の頬にあまやかに触れる。何かを、託すように。心の温度も、届く。
私は、上から手を重ねる。そして、最高の笑顔を浮かべた。花よりも、満開で。
「とても、満たされました。あなたの、おかげで」
「あの噂、半分は当たりなんだな……」
行ヶ岳に誘われたものは、雪に朽ちる。それを、思い出したのだろう。
声も手も、ただ震えている。炎が、だんだんと小さくなっていく。力なく、うなだれている。私は、ただ相手を抱きしめた。わずかなぬくもりが、伝わってくる。
抱き返される力は、私よりも弱かった。
「もう半分は、教えてくれないんですか?」
「さあな……。言わねえよ……」
抱きしめる力が、お互いに強くなる。どちらも、運命を感じるままに。炎は、もう残り火だけになっていた。
「せめて、あんたのぬくもりを……」
「もちろんです。どこまでも、感じてください」
もう一度、想いを押し付ける。私を、すべて届けるように。喉が鳴って、飲み込まれる。少しだけ、涙がこぼれているのが見えた。炎が、一度膨れ上がる。
一度、息継ぎをする。それから、全力で抱きしめられる。赤子よりもか弱いけれど、確かに熱情を込めて。私も、愛を込めて抱き返す。
「ああ、あったけえ……。俺はきっと、行ヶ岳じゃなく……」
「大切な想いに、誘われたのでしょうね」
抱きつく力が、弱まっていく。ゆっくりと、寝転がる。私に向けて、手を伸ばす。右手が、そっと握られる。手首にあるものに、指が届く。目の前の顔が、優しく緩む。ほんのわずかに、炎が震える。暖かさが、私に染み渡ってきた。
「悪か、ねえ……。あんたに、呼ばれたのなら……」
男は瞳を閉じる。薪だけが、やや赤い。最後に、触れ合う程度に唇を重ねる。そして、ゆるやかに布を被せた。
着けられたブレスレットを外して、私の左手に付ける。ぎゅっと握りしめる。右手にある同じ感触を味わってから、お腹に手を当てる。強い熱が、伝わってくる。
「これで、ずっと一緒。あなたの熱は、私に残り続ける。きっと、運命だったのでしょう」
そう、こぼした。もう一度、左手首を握った。お腹を抑えた。頬が、わずかに緩んだ。
それから数年。同じ小屋に、幼子を抱きかかえて入る。ほんの一部だけの、曇り空。
手をつないだ子は、私と同じブレスレットを左手につけている。ぶかぶかになっているけれど、決して手放そうとしない。
小屋に入った途端、子は暖炉のあたりを見て笑う。その手は、とても冷たかった。
窓から外を見ると、一面の花に雪が舞い降りていた。今日の行ヶ岳は、穏やかな心持ちね。
ぬくもりを糧にすれば、大輪が花開く。存外、ただの嘘でもなかったみたい。




