第5話 転生したら人間だった
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
……老いていた。
目を開けた瞬間、体が重かった。
ワレは布団の中で横たわっていた。窓から朝日が差し込み、部屋を淡く照らしていた。起き上がろうとしたが、体が言うことを聞かなかった。関節が軋み、背中が痛み、息をするだけで肺が苦しかった。
七十年、生きた。
その記憶が、ワレの中にあった。
生まれた日。
初めて歩いた日。
誰かを愛した日。
誰かを憎んだ日。
喜びも、悲しみも、すべてがワレの中に残っていた。
……重かった。
記憶が、重かった。
長く生きれば生きるほど、記憶は積み重なり、体を重くしていく。それは宝物であり、同時に荷物だった。
ワレは、ゆっくりと起き上がった。
窓の外を見た。
街が、見えた。
かつて、ワレが走り回った街。
今は、もう走れない。
ただ、眺めることしかできなかった。
人間は、矛盾していた。
ワレは、それを知っていた。
愛しながら、憎む。
与えながら、奪う。
救いながら、傷つける。
すべてが同時に存在し、どちらも本当だった。
ワレも、そうだった。
誰かを愛した。心から、深く。けれど、同じ人を憎んだこともあった。些細なことで腹を立て、傷つけ、後悔した。
誰かを助けた。手を差し伸べ、支えた。けれど、同じ人を見捨てたこともあった。自分を守るために、背を向けた。
……それが、人間だった。
矛盾を抱えたまま、生きる。
完璧ではない。
正しくもない。
ただ、不完全なまま、それでも生きていく。
部屋の隅に、鏡があった。
ワレは、鏡を見た。
そこに映ったのは、老いた顔だった。
皺が刻まれ、髪は白く、目は窪んでいた。
けれど、その目には、何かが宿っていた。
……生きた証、だった。
この顔の皺一つ一つが、ワレの歴史だった。
笑った跡。
泣いた跡。
怒った跡。
すべてが、ここに刻まれていた。
美しくはなかった。
けれど、これがワレだった。
不完全で、矛盾だらけで、それでも確かに生きた証だった。
誰かが、訪ねてきた。
扉を開けると、若い者が立っていた。孫だった。ワレの、孫。
「おじいちゃん、大丈夫?」
その声が、優しかった。
ワレは、頷いた。
「ああ、大丈夫じゃ」
嘘だった。
体は辛かった。息をするのも、立っているのも、すべてが辛かった。けれど、心配させたくなかった。だから、笑った。
孫は、椅子に座った。
「最近、どう?」
「……まあ、ぼちぼちじゃな」
ワレは答えた。
「年を取るというのは、こういうことじゃ」
孫は、静かに笑った。
「でも、おじいちゃんは元気だよ」
「そうかのう」
ワレは、窓の外を見た。
「元気、かどうかは、わからん」
「ただ、まだ生きとる。それだけじゃ」
会話は、続いた。
他愛もない話。
今日の天気。
昨日の出来事。
未来の計画。
それだけの話だった。
けれど、ワレにとって、それは大切な時間だった。
……人と人が、繋がる瞬間。
それは、こうした何気ない時間の中にあった。
特別なことは、何もなかった。
ただ、一緒にいる。
それだけで、十分だった。
孫は、やがて帰っていった。
「また来るね」
そう言って、手を振った。
ワレも、手を振った。
また、会えるだろうか。
わからなかった。
ワレの命が、いつまで続くのか。
それは、誰にもわからなかった。
夜が来た。
ワレは、一人で座っていた。
部屋は静かで、時計の音だけが響いていた。
……影が、長かった。
窓から差し込む月明かりが、ワレの影を壁に映していた。それは長く、歪んで、まるで別の生き物のようだった。
影は、記憶だった。
ワレが生きてきた証。
すべての選択、すべての後悔、すべての喜びが、影となって残っていた。
ワレは、影を見つめた。
……後悔が、あった。
もっと優しくできたはずだった。
もっと理解できたはずだった。
けれど、できなかった。
傷つけた人がいた。
見捨てた人がいた。
それは、消えない事実だった。
……けれど、喜びも、あった。
誰かを笑顔にした瞬間。
誰かを支えた瞬間。
それも、消えない事実だった。
両方が、ワレだった。
善も、悪も、すべてが混ざり合って、ワレという存在になっていた。
……それでいい、と思った。
完璧である必要は、なかった。
正しくある必要も、なかった。
ただ、矛盾を抱えたまま、それでも生きてきた。
それが、人間だった。
他の生き物にはない、特別な苦しみ。
けれど、同時に、特別な美しさ。
矛盾を受け入れること。
それが、人間の強さだった。
ワレは、目を閉じた。
疲れていた。
けれど、心は満たされていた。
長く生きた。
たくさん、間違えた。
たくさん、傷ついた。
けれど、たくさん、愛した。
たくさん、笑った。
……それで、十分だった。
やがて、体が軽くなった。
いや、軽くなったわけではない。
意識が、体から離れ始めていた。
ワレは、それを感じていた。
終わりが、近い。
けれど、恐怖は、なかった。
ただ、静かな受容だけがあった。
生きた。
十分に、生きた。
もう、後悔はない。
矛盾だらけだったが、それでもワレは生きた。
……光が、差した。
それは、静かな光だった。
ワレを包むように、光が降りてきた。
影が、消えていく。
記憶が、溶けていく。
けれど、何かは残った。
……愛した記憶。
笑った記憶。
誰かと一緒にいた記憶。
それだけが、ワレの中に残っていた。
……ワレは、還っていく。
どこへ還るのか、わからない。
ただ、人間の世界での時間は終わった。
矛盾を知った。
不完全を知った。
そして、それでも生きることの美しさを知った。
それだけで、十分だった。
光が、ワレを包んだ。
温かく、静かで、優しい光だった。
ワレは目を閉じた。
人間で学んだこと。
それは、受容だった。
完璧でなくていい。
正しくなくていい。
ただ、矛盾を抱えたまま、それでも生きていく。
その勇気こそが、人間の尊さだった。
……ワレは、それを忘れない。
次に生まれる時も、きっと。
影の記憶が、静かに沈んでいく。
ワレは呼吸を整えた。
そして、次の流れへと還っていった。
(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




