第2話 転生したら餓鬼だった
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
……渇いていた。
喉が、焼けるように痛い。
オレは目を開けた。視界が霞んでいた。焦点が合わず、ただ白い空だけが広がっていた。いや、空ではない。乾いた砂漠の地平線だった。どこまでも続く荒野に、オレは一人で立っていた。
喉が、渇く。
腹が、空く。
体中が乾燥して、皮膚がひび割れていた。唇は裂け、舌は腫れ、息をするたびに喉が痛んだ。水が、欲しい。何でもいいから、何か飲みたい。その思いだけが、オレの意識を支配していた。
……歩き始めた。
どこへ向かえばいいのか、わからなかった。ただ、立ち止まれば死ぬ気がした。足を動かし続けなければ、このまま干からびて終わる。そう思った。
砂が、熱い。
素足で歩くたびに、砂がオレの足を焼いた。足の裏の皮膚が剥がれ、血が滲んだ。それでも、歩き続けた。止まることが、怖かった。
遠くに、何かが見えた。
オレは目を凝らした。
それは、水だった。
いや、水ではない。蜃気楼だった。揺らめく光が、まるで湖のように見えた。それでも、オレは走った。もしかしたら、本当に水があるかもしれない。その希望だけが、オレを動かしていた。
……たどり着いた時、そこには何もなかった。
ただ、乾いた砂だけがあった。
オレは膝をついた。
絶望が、体を包んだ。
水は、ない。
何も、ない。
このまま、渇いて死ぬのか。
どれくらい歩いたのか、わからない。
時間の感覚が、消えていた。ただ、渇きだけが続いた。喉が焼け、腹が空き、体が干からびていく。それでも、オレは歩き続けた。
……誰かが、いた。
砂漠の中に、人影が見えた。倒れている。動かない。もしかしたら、もう死んでいるのかもしれない。
オレは近づいた。
その人は、オレと同じように干からびていた。唇は裂け、目は窪み、それでもまだ呼吸をしていた。生きている。辛うじて、生きている。
「……水」
その人が、囁いた。
「水、ちょうだい」
オレは答えられなかった。
水なんて、ない。
オレにも、水はない。
それでも、その人はオレを見上げた。懇願するような目で、ただ見つめていた。
「……ごめん」
オレは言った。
「オレにも、ないんだ」
その人は、何も言わなかった。
ただ、目を閉じた。
諦めたのだ。
オレは、その場を離れようとした。
けれど、足が動かなかった。
なぜ、動けないのか。
わからなかった。
ただ、その人を置いていくことが、できなかった。オレも渇いている。オレも苦しい。それでも、一人で死なせることが、できなかった。
……オレは、座り込んだ。
その人の隣に、座った。
「オレも、渇いてる」
そう言った。
「でも、一緒にいよう」
その人は、目を開けた。
驚いたような顔で、オレを見た。
「……なんで」
「わからない」
オレは正直に答えた。
「ただ、一人は嫌だから」
その人は、静かに笑った。
乾いた唇が、少しだけ動いた。それは笑顔だった。苦しみの中でも、それは確かに笑顔だった。
時間が、流れた。
二人とも、動けなかった。渇きは続き、苦しみも消えなかった。それでも、一緒にいた。言葉を交わすこともなく、ただ隣に座っていた。
……その時、オレは気づいた。
自分の口の中に、少しだけ唾液が残っていることに。
ほんの僅かだった。
一滴にも満たない。
それでも、それは水だった。
オレは、迷った。
これを飲めば、少しだけ楽になる。喉の渇きが、少しだけ和らぐ。けれど、それだけだ。一瞬の安らぎが得られるだけで、すぐにまた渇く。
……オレは、その人の口に指を伸ばした。
唇をそっと開き、残っていた唾液を、その人の口に垂らした。
その人は、目を見開いた。
「……何を」
「これしか、ないから」
オレは言った。
「少しだけど、あげる」
その人は、涙を流した。
いや、涙ではない。もう涙を流す水分さえ、体には残っていなかった。それでも、目が潤んだ。その人は、震える声で囁いた。
「……ありがとう」
その瞬間、何かが変わった。
オレの中で、何かが動いた。
渇きは、消えなかった。
喉は、まだ痛かった。
それでも、オレの心は、満たされていた。
……与えることが、こんなにも満たされることだとは。
オレは知らなかった。
ずっと、欲しかった。水が欲しい、食べ物が欲しい、何かが欲しい。そればかりを考えていた。けれど、与えた瞬間、オレの中に何かが満ちた。
慈悲、だった。
誰かに何かを与えること。
それは、自分を満たすことだった。
奪うことでは、決して満たされない。与えることでしか、心は満たされない。オレは、それを知った。
やがて、光が差した。
砂漠の空に、一筋の光が降りてきた。それは太陽ではなく、もっと柔らかい光だった。オレと、その人を包むように、光が広がった。
「……また、会えるかな」
その人が、囁いた。
「わからない」
オレは答えた。
「でも、会えたら、また何か分けよう」
「うん」
その人は、微笑んだ。
光の中で、その人の姿が薄れていった。
オレも、同じように消えていく。
渇きは、もうなかった。
喉の痛みも、腹の空腹も、すべてが消えていた。
ただ、満たされた心だけが、残っていた。
……オレは、還っていく。
どこへ還るのか、わからない。
ただ、餓鬼の世界での時間は終わった。
渇きを知った。
欲望を知った。
そして、与えることの尊さを知った。
それだけで、十分だった。
光が、オレを包んだ。
温かく、静かで、優しい光だった。
オレは目を閉じた。
餓鬼で学んだこと。
それは、慈悲だった。
自分が満たされていなくても、誰かに与えることができる。
その行為そのものが、心を満たす。
……オレは、それを忘れない。
次に生まれる時も、きっと。
渇きの記憶が、静かに沈んでいく。
オレは呼吸を整えた。
そして、次の流れへと還っていった。
(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




