第1話 転生したら地獄だった
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
……熱かった。
目を開けた瞬間、炎が見えた。
空の果てまで、赤い炎が渦を巻いていた。地平線はなく、上も下もわからない。ただ、熱だけが世界のすべてだった。空気そのものが焼けていて、息を吸うたびに肺が焼ける。吐き出せば、喉が裂ける。
ボクは地面に倒れていた。いや、地面ではない。焼けた岩の上だった。触れた瞬間、皮膚が焦げる音がした。ジュッという乾いた音が、ボクの意識を引き裂いた。悲鳴を上げようとしたが、声にならなかった。喉も、肺も、すべてが熱に焼かれていた。
立ち上がろうとした。
けれど、体が動かない。手を地面につけば皮膚が剥がれ、足に力を入れれば筋肉が焼ける。痛みだけが、ボクの全身を支配していた。それでも、ボクは這った。這わなければ、このまま焼け死ぬ。そう思った。
……どこへ向かえばいいのか、わからなかった。
周囲は炎だけだった。空は赤く、地面は黒く焼け焦げ、遠くには人の影が見えた。いや、人ではない。炎の中でうごめく何かだった。叫び声が聞こえた。それは悲鳴であり、呻き声であり、絶望そのものだった。
ここは、地獄だった。
ボクは死んだのだ。そして、ここに堕ちた。
なぜ、ボクが。
何をしたというのか。
けれど、答えは返ってこなかった。ただ炎だけが、容赦なくボクを焼き続けた。
這い続けた。
どれくらいの時間が経ったのか、わからない。時間という概念が、ここには存在しないように思えた。ただ、痛みだけが続いた。終わらない苦しみが、ボクの意識を削っていった。
……誰かが、倒れていた。
炎の中で、一人の人間が動かずに横たわっていた。顔は見えない。ただ、背中が小さく震えているのがわかった。肩が上下していた。呼吸をしている。生きている。まだ、生きている。
ボクは、立ち止まった。
助けるべきなのか。
それとも、放っておくべきなのか。
ここは地獄だ。誰も助からない。助けても、意味はない。そう思った。けれど、ボクの体は勝手に動いていた。這いながら、少しずつ近づいていった。
なぜ。
なぜ、近づくのか。
わからなかった。
ただ、一人でいるのが怖かった。炎の中で、一人で焼かれ続けるのが、耐えられなかった。誰かと一緒にいたかった。たとえ、それが地獄であっても。
ボクは近づいた。
なぜ近づいたのか、自分でもわからなかった。助けられるわけがない。ここでは誰も、誰も助けることなどできない。それでも、ボクは手を伸ばした。
触れた瞬間、相手が震えた。
顔を上げたその人は、ボクと同じように焼かれていた。皮膚は焦げ、目は虚ろで、それでも生きていた。その人は、ボクを見た。恐怖ではなく、ただ驚きのような表情で。
「……なんで」
か細い声が、炎の音に紛れて聞こえた。
「なんで、来たの」
ボクは答えられなかった。
なぜ、来たのか。
わからなかった。
ただ、一人でいるのが怖かったのかもしれない。誰かと一緒にいたかったのかもしれない。痛みを分け合いたかったのかもしれない。
……ボクは、その人の手を握った。
炎が、二人を包んだ。
熱さは変わらなかった。痛みも消えなかった。それでも、少しだけ、ボクの中で何かが変わった。一人で焼かれるより、誰かと一緒に焼かれる方が、まだ耐えられる気がした。
「……ありがとう」
その人が、囁いた。
ボクは何も言えなかった。
ただ、手を握り返した。
それだけで、十分だった。
炎の中で、二人は寄り添った。互いの痛みを感じ、互いの呼吸を聞き、ただそこに在った。助け合うことなどできなかった。救うことも、救われることもできなかった。ただ、一緒にいることだけができた。
「……どこから来たの」
その人が、小さく尋ねた。
「わからない」
ボクは答えた。
「ボクも、わからない。気づいたら、ここにいた」
「そう」
その人は、静かに頷いた。
「私も、同じ」
会話は、それだけだった。
それ以上、聞くこともなかった。名前も、過去も、何も知らない。ただ、今この瞬間、一緒に焼かれているという事実だけがあった。
……時間が流れた。
どれくらい経ったのか、わからない。炎は消えなかった。痛みも終わらなかった。それでも、ボクは気づいた。
恐怖が、薄れていた。
最初は怖かった。なぜここにいるのか、なぜ焼かれるのか、いつ終わるのか。すべてがわからなくて、ただ恐怖だけがあった。けれど、今は違った。
痛みは同じだった。
炎も変わらなかった。
それでも、ボクの中で何かが変わっていた。
……共感、だった。
隣にいるこの人も、ボクと同じように痛んでいる。同じように焼かれ、同じように苦しんでいる。その事実が、ボクの恐怖を和らげていた。一人ではない。それだけで、少しだけ楽になった。
「……痛いね」
その人が、呟いた。
「うん、痛い」
ボクは答えた。
「でも、一人じゃないね」
「うん」
それだけの会話だった。
それでも、十分だった。
炎が、少しだけ弱まった。
いや、弱まったわけではない。ボクの感じ方が変わったのだ。痛みは同じだった。熱さも変わらなかった。それでも、耐えられるようになっていた。
……これが、浄化なのかもしれない。
ボクはそう思った。
地獄は罰ではない。ただ、痛みを通して何かを学ぶ場所なのかもしれない。一人で抱える苦しみを、誰かと分け合うこと。それが、ここでの学びなのかもしれない。
炎は、ボクを焼いた。
けれど同時に、何かを焼き尽くしていた。恐怖を、孤独を、自分だけが苦しいという思い込みを。すべてが灰になり、その灰の中から、新しい何かが芽生えていた。
共感、だった。
誰かの痛みを、自分のことのように感じる力。
それは、炎の中でしか生まれないものだった。
「……また、会えるかな」
その人が、囁いた。
「わからない」
ボクは正直に答えた。
「でも、また会えたら、また手を握ろう」
「うん」
その人は、微笑んだ。
炎の中で、焼かれながら、それでも微笑んだ。その笑顔が、ボクの中に残った。
やがて、炎が消えた。
いや、消えたわけではない。ボクの意識が、炎から離れていった。体が軽くなり、痛みが遠ざかり、すべてが静かになった。
……ボクは、還っていく。
どこへ還るのか、わからない。
ただ、地獄での時間は終わった。
痛みを知った。
共感を知った。
誰かと一緒にいることの意味を知った。
それだけで、十分だった。
……光が、灯った。
それは炎ではなく、静かな光だった。
ボクは、その光に包まれた。
痛みは消え、熱も消え、ただ温もりだけが残った。
地獄で学んだこと。
それは、痛みを分け合うことだった。
一人では耐えられない苦しみも、誰かと一緒なら、少しだけ軽くなる。
……ボクは、それを忘れない。
次に生まれる時も、きっと。
炎の記憶が、静かに沈んでいく。
ボクは目を閉じた。
そして、次の流れへと還っていった。
(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




