「過ぎ去れど 失せぬモノ」:04
ーー大陸歴1969年 熾枝の月末日
静かに、されど明確な音と共に幕は開く。
フロムがそっと鍵盤に両手をかける。ペダルへ足先を踏み込むことなく、ただのせる。
弦楽器であり、打楽器であるピアノは伴奏に過ぎない。ゆえにスポットライトを浴びるのは歌い手のみ。
だが欠くことのできない隣人でもある。
「………」
無言でフロムは視線の先にいる女子にうなずく。
それに目だけで答え、そのまだ年若い、20歳ほどだろう女性はほんの一瞬だけ目を瞑る。
「………」
「………」
互いに音もなく、ただ二人の呼吸の重なるところを図り合う。
はたして、静寂の後に伴奏が始まる。
ステージ上に立つ女性はすっと息を吸って、歌い出す。
『Ubinunc, Ubi sunt』
"いつも誰かの影を追っていた"
"あるいは太陽に背を向けて" "昔のわたしを"
"ある時" "この光を浴びることを夢見た"
"そして後悔もした" "なにより諦める理由を探して"
"いったいどうして" "わたしの痕に失敗がある?"
"夢見ていたわたしは?"
"もはやここがわからない"
"選べると思い上がったわたしがいただけだった"
"きっと誰かの真似をし続けていた"
"だからか知識ばかり浮かべて" "変わらぬわたしを"
"今まで" "この鼓動を無気力に鳴らしてきた"
"何も知らなかった" "心臓を動かす術さえも"
"それでもどうして" "世界の中に色を見つける?"
"願ってやまぬわたしは"
"やはり消えはしない"
"彼らに続けと信じるわたしは何を選びとろう"
歌い終え、続くようにピアノの音も絶える。
女性が一礼し、幕の裏へとはけていく。それに目立たぬようにフロムもまたステージから下がる。
ホールの広がる空間に鳴り響く拍手を他所に、フロムは彼女が緊張の糸をほぐすのを待つ。
しかしそれよりも前に。舞台裏にいれば拍手の音も絶えていく中で、観客らの上ずった声も聞こえてくる。
「いや、素晴らしい。流石はアルス一と名高いディラシック商会の紹介なだけはありました」
「いいえ、わたくしとしても伝手と縁があっただけです」
「ご謙遜を。あれほどの歌姫の卵を抱えていた店をご存知とは」
「ええ、是非ともウチでプロデュースしたいほどですぞ」
ウチならいくら出しましょう、いやいやわたしのところで、それより我々ならあの上玉ならより育てがいがありますとも…。
お客の方には聞こえはしないとはいえ、小さくため息がされる。
フロムは何も言えずにまだ待つ。
「…お疲れ、"マリン"」
「ありがと」
マリンは今度こそふっと息を吐くと、舞台の方からはトランペット奏者の"ショウ"の紹介がなされている。
一度、幕の方へ顔を向けてから気を取り直して言葉を発する。
「すぐ行かないとか」
「ショウさんとのセッション、楽しみにしてたんでしょ。…お客も待ってるのだし」
「お客様だよ。…行ってくる」
足早に、舞台袖の方へ駆けていくフロムをつい目で追ってから、マリンも自分の待機室へと踵を返す。
もう間も無く、また新たな旋律が流れ始めた。
◇◇◇
「あ、いたいた」
団体の予約への対応や演奏を終え、皆の裏庭。一種の空き地となっている小さな空間へと足を向けていた。
「…フロム、終わったんだ」
マリンは一人で階段に腰掛けている。歌唱の時の衣装姿のままに、夜の空を見上げていた。
「ようやくね。久々の、それも大勢の前だとやっぱり疲れる」
「お疲れ」
「となり、いい?」
黙って腰をずらして空けられた場所にフロムも座る。
「あの、さ。マリンは。マリンとして歌手として、復古祭の話、どう思う?」
「フロムはどう思うの、あの人も含めて」
質問に質問を返され、それでも素直な気持ちが吐き出されていく。
「あのジェーンさんは、悪い人じゃないし、これはチャンスじゃないかなと思ってる。だってさ!」
勢いよく立ち上がり、振り返るようにしてマリンに向きなおる。
「オーナーの、この店は決して大きな劇場でもないし、著名な楽団を抱えてるわけじゃない。でも一緒にいるみんなは確かに芸術を愛する人たちばかりだ!」
「あの女商人さんのことを疑いはしないんだ。全部嘘かもしれない」
見上げていた空に星は見えていなかった。昼とは打って変わって薄灰の曇り。覆う雲があってなお、まだ冷える風がある。
「オーナーの姉だって言ってたから。オーナーは悪い人じゃない」
「なにそれ。なんでわたしたちが選ばれてしまったかもわからないのに。"芸政不干渉の法"を強いる王が芸術のお祭りを指図するのもおかしい」
途端に抗議デモの一件を思い出したように、フロムの言葉が詰まる。
「それは、そうだ。でも」
「わかってる」
フロムの方へ手を伸ばし、そのマリンの手を引き上げるようにして立ち上がるのを手伝う。
マリンはさっと衣装を整えなおして顔を上げる。
「ほんとは別の要件があったんでしょ。どこに行けばいい?」
「あ、ああ。マスターがお疲れ様の一杯を作ってくれるって」
「わかった。カウンターへ向かえばいいのね」
すたすたとヒールを苦ともせず、マリンは店の中へ行ってしまう。
空を見ても、相変わらず月さえ見透せない模様が広がっている。フロムもまた続くように戻っていくのだった。
◇◇◇
店のホールの一角に置かれたバーカウンター形式の席に幾人かが集まっている。
「戻りました、マスター」
端的に報告して、マリンもまたバーチェアに座る。
「おや、フロム殿のおつかいは上手くいきましたか」
「マスター、もう自分は19です。からかわないでください」
流し目にフロムの方を見やり、すかさず微笑を浮かべるマスター。
「つい。老婆心といったところで」
会話の最中も手の中のシェイカーを器用にかき混ぜ、少量の氷で割ってグラスを満たす。さっと流すようにテーブルを滑らし、注文主のエリオの手元にたどり着く。
どうも、という風に右手でグラスを掲げると、エリオは他の面々の方へ戻っていく。その中には先ほど照明を担当していた"ラテス"や他の奏者たちもいる。
「お二人はどうしますかな、やはりアルコ…」
「辛口のジンジャーエールで」
「わたしも」
苦笑しながらもマスターは二つグラスを取り出し、先ほどよりは短めにシェイクさせていく。
「…マスター、未成年にお酒はダメですよ」
カウンターの方へ近づいてきてそういったのは。
「ショウさん、さっきはお疲れ様です」
「二人もお疲れ。マスター、コーヒーもらっても?」
「ええ、構いません。少しお待ちを」
マスターがジンジャーを作り終え、豆を取りにカウンターを出ていく。
二人が口をつけるのを待ってからショウが言葉を発する。
「おれは、アルス出身ではないから、復古祭を機会の一つと思うだけ。ここでトランペット吹いてるのもある種の道楽にすぎなくて」
「えっと、生まれは"連邦"でしたっけ」
「いいや、アズマだよ。"アズマ皇国"」
独白じみていたショウの言葉を、フロムがあえて軽くしてくれていることに誰も口を挟むことはしない。
マリンも黙ってグラスの中身を口に含むとほんの少し辛そうに、気づけないほどに小さく眉を寄せる。
「残念ながら連邦こと"ウィータ連邦共和国"とはしばらく仲が悪いから。アルスの文化に触れたかったおれとしてはあまり気にしてなかったけど」
壁に掛けてある、アルス周辺の各国を載せた地図を指す。店の真新しい室内電灯が照らすその羊皮紙の上で、【the Principality of Ars】が二つの大国と海洋に囲まれるようにして領土が示されている。
「アズマは、まぁアルスと比べたら宗教国家から大発展した国だからみんな不思議がるけど。歴史的にもアルスは連邦の方が近しいところは多いと思う」
地図の上では【the Inperial of Azuma】と、アルスの西に位置している。また【Federal Republic of Vita】はその逆、東に広大な領土を広げている。
いわばこの二国の緩衝地帯となっているアルス。
「アズマ出身のおれからしたら、国のトップの命令は当たり前に存在してる。行き過ぎたモノを抑える役は必要だろうし」
「必要悪ですか」
いつもの癖なのか、ショウはカウンターに背をあずけ、指を組んだりほどいたりする。
きれいではないが、落とせなくなった床の汚れを見つけても直せないままでいる。どんなに掃除したってきりはある。
「そうというより義務かな」
「義務?」
ショウの返す言葉に、今度はマリンが問う。つい問うてしまったのか、気まずそうにまた辛めのジンジャーを喉に流し込む。
それに黒髪の異国人は淡々と述べる。
「"責任をもって止める義務"。元をただせば、アルスの芸政不干渉の法だって10年前のクーデター未遂の後に出されたようだし」
「それはわたしから説明するべきね」
三人がぎょっとして後ろを振り返る。そこには飲み干したグラス片手に立つオーナーがいる。
「お、オーナー、酔ってます?」
「大丈夫、そんなに飲んでないわ」
少しばかり動揺したショウが問うが、オーナーはグラスをカウンターの上に置きながら、いつもと変わらぬ声で応える。
「10年前のクーデター未遂。当時のコレドール子爵、まぁわたしの父と祖父のことね。それと公王陛下の弟君のリグエート伯爵とが王権簒奪しようとした。これがきっかけ」
続けて、否、一気に語り終えてしまえるように言葉を続ける。
「それだけならまだよかったのだけれど。彼らはそのプロパガンダや市井へのアピールで積極的に音楽や、画家に描かせた絵を使って正当性をうったえていた。とはいえ、クーデター軍を正規軍が早く制圧できたから影響は比較的小さく留まったらしいわ」
人伝てに聞いたことを話すようにオーナーは語った。
「平和のしっぺ返しかしら。安易に関連をもたせた行いは不安視されて、二年後に筆頭宰相の提案で芸術と政治が互いに過干渉しないように芸政不干渉の法が施行された」
知らず知らずのうちにフロムは拳をきつく握り締めていた。はっとしたようにグラスから手を放す。
「そうして反逆を犯した諸々の貴族を死罪として、今にいたるわ」
「王政に変わった20年前は大飢饉や流行り病もあって、"銀の平和"も崩れかかっていた時期だったと、本で」
ショウの補足に、そうね、と小さく応えてオーナーは締めくくりの言葉を探す、ふりをした。
「民主制が崩れてからも混乱の続いたアルスが連邦やアズマに吸収されなかったのは、どの国も余裕がなかったおかげね」
あえてオーナーが明言しなかった、ある貴族家の没落には誰も触れられない。
「そんな中で国中の人間が協力して、なんてのはフィクションだけね。間違いだらけ、正しくないこともいっぱいあった。権利を枕と勘違いしてた市民は、なにか、すがるものが欲しがって、そして今に」
「オーナー…」
誰ともしれず、呟かれた呼び名は、過去の名前を思い出さなくて済む、そのために都合がよかったのだろうか。
この国のどの地図からも消された名前。過去に祖先が長らく統治し、そしてほんの一昔の時間だけ統治を担った場所。
もう戻りはしない記憶だけが誰かの中に遺されている。
「わたしは法を過ちだとは、言えない」
そして、ここには沈黙した者らが残される。
「でも、ジェーンお姉さまが来て」
それでもどうにか、目を瞑り続けることはすまいと、あるいはもう今はないものが視線の先の壁よりも遠いところにあるかのように見つめている。
「今まで声を潜めていた、わたしでもできることはあったのではと。今更、遅いと母なら叱りそうだけど」
過去と現在と、そして未来の万人が好き勝手に罵る下劣や無力さか、遥か先の高潔を忘れぬ矜持を抱えていく幾千もの茨の路か。
誰かが言った。
茨の路もまた、路であると。
路とは誰かが既に歩んだのだとしても、わたしたちにとっては未知であるのだろう。
「賭けてみても、いいかしら」
みんなを巻き込むことになる、とは言えなかった。
それでも。
「やりましょう」
想いは違えど、願いは重なった。
フロムがなんの根拠もない、ただの自信をもって応える。
「…オーナーが好きにしていい。ここはオーナーの場所」
「微力ながら頑張りますよ」
あとの二人も重ね合わせる。
「ありがとう。みんな」
これに応える声はないが、小さな微笑みは確かにあった。
第二章「過ぎ去れど、失せぬモノ」:04.<歌い手と奏者と、>




