「芸術の国」:01
ーー大陸暦1986年 熾枝の月末日
昔々、或いは遥か未来の時代。
アルス公国はおよそ20年前まで、アルス民主国として、そして"芸術の国"として栄えた。否、栄えていた、が正しいのだろう。
人は、国民は、アルスという国家は民主主義では存続できなかった。かつてのアルス公国の名を取り戻した王政主体の社会で、アルス公国は再び、緩やかながら纏まりを見せていた。
それはアルスに限らず、幾つかの民主主義国家崩壊の狼煙にすぎなかった。
政治史逆流の始点となった地は今、社会秩序の復興とは裏腹に、ある一角においては影を落としていた。
例えばだ。
それはこのような、音楽をともにする者達のように。
音楽を奏でる者と、それに聴き入るお客様の集っていた、街の喫茶と演奏の場を兼ねた店。時には劇団が一時の間、演劇を披露する会場ともなる街の集い場。
開店前にお客様がいないのは当然だが、関係者がいるのは自然だ。
開けたホールで、椅子に浅く腰掛けた青年が、ギターを点検している。今日でもアルスの民は、商売道具、という言い方は嫌う傾向にあるが、そうでなくとも、手入れは何かと必要だ。
そして、少年と青年の狭間の男子が、心に抱えるものがあるのもまた、なんら不可思議ではない。
「この国は間違えています。芸術の国の名折れです。こんなときこそ芸術こそが人を、世を、心を救えるというのに!」
背を向けたまま、この場にいるもう一人の女性がやおらに声を出す。
スタッフルームにて、声は響く。
「はぁ、いいですか。…"フロム"、この国の原則は?」
「"芸術は政に関与されず、又干渉する術としてあってはならない"。芸政不干渉の可笑しな法です、オーナー」
「…それでも法は法なの。芸術と人の過ちを未然に抑えるための、ね」
オーナーである女性は、振り向きながら、あえて無色な声音で告げる。
諭すのではなく、事実として。
それでも。
「それでもっ、音楽が縛られたままなのは! この店だってこのままじゃあいつかは!」
「それは自分の音楽にのせなさい、というのも今はダメだったわね。…コレドール家の娘として謝罪するわ」
「…いえ、オーナーのせいでは」
オーナーが軽く頭を下げれば、フロムはやはり感情の行き場を失ったようだ。静かな静寂、しかし裏腹には乱れたままの思いの丈がある。
「……少し、頭を冷やしてきなさい。感情は、ままならないだろうけれど、とりあえず落ち着くのがいいわ」
「…ッ、……、はい、そうします」
フゥー、とフロムは重い息を吐いてから、失礼します、と告げてオーナーに背を向ける。
扉が閉まり、一人になるオーナー。
もとより、そうある他なかった筈の身だというのは知られる必要のない。
それでも。
「…そうだとしても、ままならないのは想いだけではないのよね」
◇◇◇
短い廊下を移動して、再度、扉を開いてホールへと移動したフロム。
「おー、フロムか。おはよ……ぉう?」
ギターケースの蓋と扉の閉まる音が重なる中、普段の彼らしからぬ気配を見て、ホールにいた青年が静かに腰を上げる。
「んー、気ぃ張ってるなぁ」
微かな陽光のみが射し込むホール。
青年は大部分の明るさを遮っていた立役者に休みを与えてやる。幾つかのカーテンが開かれ、その内の一つの両開きの窓も開放される。
春のそよ風というには、まだよそよそしい感触の小風が室内にも吹き入れる。
「まだちょっと寒いが、丁度いいか」
ほら座れ、とガタガタと音を立てて、青年は少しばかり左手を庇いつつ近くのテーブルから一脚を拝借する。
並べられた椅子に、フロムはため息を吐きつつ、座り込む。
「ありがとう、ございます。"エリオ"さん」
「ずばり、オーナーに頭冷やしてこいとでも言われたところだろう?」
エリオは腰掛けながら応じる。
風のおかげか、少しばかり力を抜いたフロムはゆっくりと口を開く。
「えぇ。…聞こえちゃってましたか」
「いやいやなんとなく、さ。そうじゃないかって」
いかに音楽や劇の催される場とはいえ、大して距離もない廊下に加え、扉を幾つか挟んだ程度の遮音性能はたかが知れている。
ましてや己のあの声の大きさぐらい、分かっているのだが、フロムにとってその物言いはありがたかった。
「…エリオさんはどう思ってますか、あの法律のこと」
気にしないようにしてきたフロムでも、他人の意見を聞かずにはいられない。
「芸政不干渉の法なら、行き過ぎってのが正直なところかな」
「エリオさんも完全には否定派じゃない、…そうですか」
「言論、いや表現の自由かな。ともかく、"人の為にない法とは法ではない"、なんて国王様だって知ってるだろうさ」
右の人差し指を立てながら、エリオはある一説を引用する。
「じゃあどうして、どうしてこんな非道な法と行いが許されるのでしょうか……ッ…」
フロムはそう言って、知らず知らずに握りしめていた新聞を広げた。
ぴたりと風は止み、薄っぺらな号外紙は飛ぶことなく、エリオに手渡される。
「…ん。これは…」
芸政不干渉の法施行後に度々、"不適切な"表現をしたとして刑罰が与えられるようになってから10年近く。
そうして長らく公国に陰を生んできた法律は、この時において、より不穏な前例を歴史に刻み込んだ。
「『かの法施行後、初の重禁固刑』か。ついにというか、ここまでよくもった方か?」
エリオは、ちらりとフロムを見やるが、怒りが再燃してきたのか、口を固く閉じたままだ。
『……現代画で名高いガラリ伯画。半年前に公開された「民の嘆き」の作画思想に法令違反が認定され、逮捕となった。また刑罰は従来の罰金や短期拘置等の軽い刑罰ではなく、法施行後最長の執行猶予なしの懲役十二年判決となった。今後、取締り強化や厳罰化の可能性もあり、注視していきたい……』
かの法律に完全反対派でないエリオでさえ、真綿を絞める音を聴いているように感じる。
「公国は、…芸術の国は変わっていくんだな…」
エリオは最早、少年でない。だからフロムの怒り、いや本質は不安だろうか。その気持ちには共感はすれど、同感というわけではない。
いわば大人の酷さ、つまるところは諦めに近い。
「まったく、ハハハ、ハハ、…。なにやってるんだろうな、俺たちの国は」
乾ききった笑いだ。同時に、誰へとも分からぬ誰かへの渇いた願いだった。
「子どもだって分かる話だ。人が一度手にしていた自由は、大義のあるなしに関係なく、奪われるのはヤなもんで、」
そこでふと、エリオは目を伏せる。
たった五年。
目の前の少年と、合理性を捨て切れない大人の差。
エリオは振り切るように、首を横に振って続ける。
「…そして君のように、未来ある若者が苦しみに自ら飛び込むように強いる。行くつもりだったんだろう? 抗議デモに。でも止められた」
「やっぱりお見通しですか。エリオさんには敵わないなぁ」
「話をすり替えるんじゃあない」
鋭く声が返され、フロムの愛想笑いが崩れていく。ただただ、哀しみを堪えた顔へと。
「…だって、間違ってるじゃないですか。人の創造性と自由な表現を縛って、抑えつけて。枷さえ甘いと言わんばかりに未来さえ奪う、いや奪い続けていくんです…。それを変えたいと、糺したいと、間違っていると叫ぶのは、間違いでしょうか」
「……」
その言葉は眩いとも、危ういともとれる。
「…はぁ、…どーして大人って奴はイヤな性格してるんだろうな」
「エリオさん…?」
幾つもの意味で、見ていられないのだから、自然とエリオの視線はフロムから外れていく。
心底嫌そうに、言葉を滲ませるように口を開いた。
「一人じゃ無駄さ」
「一人じゃありません。志を同じくする仲間が、トランペットの"トーラン"さんや"ペーター"さんたちだっています!」
デモに参加する者らは確かに光と熱をもっている。それは紛れもない、エリオの正直な所感であった。
「"あれ"が? 本気でそう思うのか」
だが、どんなに強い衝動も、役に立たない輝きと燃え盛るだけではやはり、手に負えないとしかいえない。
「あんな烏合の衆にはどんな栄誉も訪れない。まず、やることが間違ってる」
「…っ、もう失礼します! やっぱり自分の信じるところを往くことにします」
先ほどオーナーにもしたように、フロムは礼節だけは守って一礼をする。そしてエリオに背を向け、振り返ることなく歩き出す。
「あ、おい待てよ、フロム!……まだ話は終わってない、待ってくれ」
今度は扉が閉まる音だけが響いた。
まもなくエリオが嘆くよりも前に、フロムが出ていった扉とは逆方向の扉が静かに開閉する。それはフロムがホールへと入ってきた扉で、店の奥につながる扉でもあった。
「相も変わらず、言葉足らずね」
「…オーナー、聞いてましたか」
後ろ手で器用にドアノブをいじりつつ、エリオへと視線を合わせるオーナー。一瞬、フロムの出ていった扉に視線を向けるが、すぐにエリオの方へ近づいてくる。
「あら、お互い様でしょう?」
「そうですね。…伝わってないんですかね」
そうね、と同意する声が返ってくる。
「だから言ったでしょう。言葉が足りない、と。それに貴方がまだまだ若いのもあるかしら」
「オーナーだってお若いでしょうに」
「レディに言うことじゃないわね。そういう貴方の無思慮な言動もあるし、あの子に全てと向き合いきれというのも酷な話よ」
大人と子ども。あるいはそのどちらでもない人。
この場に残っているのは大人だけだ。
「それに貴方の伝えたいこと、誤解されてる気がする。尻込みと諦めの混じったのが多くの大人たちだもの。せめて嫌な後悔だけはしないようにするのがいいわ」
「経験談ですか?」
エリオは聞いてから、しまったという顔をする。少なくともオーナーに問うべきことではなかった。
それでもオーナーはそこには構うことなく、淡々と告げる。
「いいえ」
エリオはほっとしつつ、続く言葉を待った。
そうして放たれた言葉は、定型文のようで、全く異なる意味をもちえている。
「箱入り娘でも分かる、一般論よ」
第一章「芸術の国」:01.<嘆き>




