【第10話 港の帆印:検疫と「碇の鞘返し」】
外港は、風の言葉で動く街だ。帆は風を拾い、噂は帆を真似てふくらむ。検疫の旗が上がると、岸壁の色が一段濃くなった。黄の旗、赤の旗、そして白の旗。色は簡単なのに、人の順番は簡単じゃない。
リサが外港の沖を見て、虹彩の奥で色をすくう。
「帆の森に、濃い筋が三本。ひとつは積荷の布。ひとつは水。もうひとつは人。どれも順番がねじれてる。噂の風が押してる」
岸壁には机が四つ。港湾管理、神殿、商務、検疫。四机は並んでいるが、風は並びを信用しない。列は曲がり、人は怒り、船は揺れ、紙は濡れる。条文ざまぁ係は油を引いた板を抱えて現れた。
「港湾複式検疫票、作った。防水版。表は帆印、荷印、人印、水印。裏は碇と舫の記録。順番は、風→帆→荷→人→水。最後に通行蝋。碇の鞘返しは、碇座の微細線で逆写しにする」
エルマーが白手袋を外す。
「神殿は浄めの机を構える。ただし味の時と同じだ。濃い浄めで誤魔化さない。掃除は紙で、清めは順番で」
グレンが船縁で帽子を押さえ、笑い皺を寄せた。
「帆印って名がいい。紙が帆なら、印は風見だ。風向で回るのか?」
「回る。帆印は帆桁の影で押す。防水版の矢印は風向で回る。陸からの北風なら、港→検疫→神殿→商務。沖からの南風なら、港→商務→神殿→検疫。最後に通行蝋。蝋には薄く、非干渉の文」
◇
布陣は四段。
一、帆印。
帆桁の影に帆印台を吊るす。帆が鳴る高さに小鈴を一つ。風が吹けば鈴が鳴り、視線が上へ吸い上がる。上を見れば、下は少し静かになる。静かになれば、見られていない帯が生まれる。
二、碇の鞘返し。
岸壁の下に逆写し板を沈める。碇座の溝に微細線を刻み、印が順番通りなら線が波になって繋がる。順番を外せばにじんで消える。船側に残るのは正書、岸側に残るのは逆印。どちらか片方だけでは完了しない。陸海連理、港版。
三、舫。
着岸位置に二重もやいを標準化。結びに小さな紙札を添える。紙札の墨は薄く、風に読ませる。読めない者でも真似できる絵柄。真似できる結びは、怠け者への親切だ。
四、防水版。
票そのものが板。油紙の層に樹脂を引き、角に四机の印座。最後の角に小さく、最初の深呼吸は帆の下で、と誓約文。
◇
午前。沖から三本マストの船が帆を畳みながら入る。検疫旗は黄。隊長格の役人が口を開く前に、風が帆印の鈴を揺らした。見物人の視線が上に逃げ、甲板の気配が一拍軽くなる。俺は帆桁の影から帆印台を下ろし、通詞に合図する。
「港の印から。次に、風向で回し、最後に通行蝋。寄付は神殿机、仮受納で」
検疫机の隊長が眉を上げる。目に薄い油。
「検疫が先ではないのか」
「順番は風に従う。帆が風を受け、港が呼吸し、その次に人の順番を整える。検疫の印は、順番を壊さないための最後の鍵。壊れた順番を検疫で直すのは遅い。直す前に怒りが増える」
エルマーが静かに口を添える。
「検疫の記録は厚く、群衆の息は短い。息が続く順番にしよう」
隊長は舌打ちを飲み込み、印台を取った。港→商務→神殿→検疫。最後に通行蝋が落ち、碇座の微細線が波になる。岸壁下、逆写し板が通行蝋を受け、港帳に逆印が並ぶ。鞘返しが港で効くのを見届けて、隊長は小さく鼻を鳴らした。
「港の流行りを覚えておこう」
◇
帆の森に噂の風が走る。黄旗が一枚、赤旗が一枚。赤は強い。人の心は赤に引きずられる。列がざわめき、誰かが怒鳴り、別の誰かが泣く。鈴を一度低く鳴らし、幕を半歩だけ動かす。視線は音に弱い。音を曲げれば群れの首が曲がる。俺は見られていない帯を通って、赤旗の船の舫に手を入れた。
舫の結びが悪い。力が一点に集まり、怒りと同じ形でほどける。
「二重もやいを。余りを短くしない。余りが短い舫は、舌打ちと同じで戻りが効かない」
水夫の手に覚えが戻り、舫が息を引き受ける。怒りの形が変わる。紙札の絵柄を結び目に添えて、標準を残す。標準は心棒だ。人にも、船にも効く。
◇
昼。帆の陰で、帆印の小鈴が高く鳴った。風が西へ回る。矢印も回る。順番は港→検疫→神殿→商務に変わる。列が揺れる前に板を返し、新しい順番を声の短さで示す。長く言うほど、順番は崩れる。
検疫机の旗手が赤旗を半分下げ、黄を一枚重ねた。
「症状なし。接触あり。黄に統一」
「統一はいい」と条文ざまぁ係。「票の色も一枚で済む。印影の波が切れない」
帆印、碇の鞘返し、舫。三つが回ると、人の怒りは薄くなる。薄い怒りは足で散る。濃い怒りは舌で燃える。燃えないなら、それでいい。
◇
午後、別の色が岸壁の陰で濃くなった。リサが目を細める。
「古い水の匂い。積荷は樹皮。樹皮の下に、湿った布。湿った布の下に、小瓶。検疫を避けたい人が、瓶に噂を隠してる」
瓶に噂。瓶は割れ、噂は広がる。割れる前に鞘に入れてしまう。
俺は帆桁の影から梁へ、梁からマストの根元へ滑った。見られていない。背中の加護が静かに伸びる。小瓶は樹皮の隙間に横向き。抜けば音が鳴る。鳴らさずに抜くなら、順番で封じる。
防水紙の帯に小さく書く。
ここに留まること。波に飲まれないこと。人の舌でふくらまないこと。
帯を瓶の首に回し、薄金箔をなで、銀釘を一打。瓶の中の噂は紙の上に移る。紙は群衆が読むまでは静かだ。読むときは、窓口で読む。窓口で読む噂は毒になりにくい。
甲板へ戻ると、検疫机の隊長が俺を見ていた。油は薄い。
「今のは違法か?」
「違法を避ける順番を通しただけ。樹皮は申告、瓶は窓口、噂は紙。順番に置けば毒にはならない」
隊長はわずかに肩を落とし、印台を取った。
「帆印の鈴がうるさい。だが、うるさい鈴は怒鳴り声よりましだ」
◇
陽が傾くと、帆の森に影が増えた。順番を回す矢印はもう一度向きを変える。通行蝋の逆写し帳が一冊、波の線で埋まる。鞘返しは今日も剣を抜かせない。
親方連合の男が船縁から声を掛けた。
「儲けは薄いが、喧嘩も薄い。薄い日は腹が減るが、眠りは深い」
「眠りが深ければ、明日の舫も整う」と俺。
エルマーが白手袋をはめ直し、封筒を出す。
「仮在籍の週報、帆印の欄を増やした。風向、帆の高さ、鈴の位置。君の仕事は手順だが、手順は風でも変わる」
「変わるから記録する。記録すれば、次が楽だ」
リサが帆の隙間から沖を見た。
「色が遠くで濃い。帆の群れのさらに外、海の筋。外洋の船。黒い帆。封蝋が多い。疫病の色は薄いけど、別の色が混ざってる。灰の中の青。古い誓いの色」
「誓い?」
「古い条約。港の外で交わされた約束。港の帳に載ってない」
載っていない約束は、紙にとっての幽霊だ。幽霊は鞘がないと徘徊する。
「載せよう」と条文ざまぁ係が言う。「港湾複式検疫票に、外洋条約の欄を足す。帆印の隣。帆は風を読み、条約は風を待つ」
グレンが舵で頷く。
「条約は帆だ。風がなければ進まない」
◇
日が落ち、帆印の鈴が一度だけ低く鳴る。防水版を乾いた布で拭き、碇座の逆写し帳を綴じる。今日の波は波で終わり、明日の風はまだ書かれていない。
岸壁を離れる前、検疫机の隊長が短く声を掛けた。
「工事の者。紙で港を鈍らせた男として覚えておく」
「鈍らせたつもりはない。鞘を用意しただけだ」
「同じことだ」
同じことでもいい。剣が鞘にある方が、紙の音はよく響く。鈴の音も。
見られていない時間が薄くなって、俺の加護は背中で座る。昼の平凡以下に戻る前に、次の欄に一本だけ線を引いた。港の外の約束、外洋条約。帆印の鈴を一つ、少しだけ高い位置に。
のんびり暮らす予定表は、明日の欄でまた空白になる。空白は嫌いじゃない。心棒と鞘と帆を書き込めるから。
——
次話予告:港の外の約束と条約の欄。外洋の黒い帆が運ぶ古い誓いを、港の帳へ静かに載せる。帆桁の影で無音の一撃、碇の座で逆写し、鈴は風を曲げる。




