【第9話 水上関所:帆と印の“防水版”】
川は祭りの翌朝にだけ、街より早口になる。露店の片付けを載せた小舟、使節団へ贈る果実籠、親方連合の木箱、そして「水上関所」の札を掲げた仮設の櫓。橋のたもとに、濡れた机が三つ並び、男たちが縄の先で権限を振るう。陸が紙で塞がれたなら、水で取り返す算段だ。
リサが川面を覗き、虹彩の奥で色をすくう。
「上納の色が、波で揺れてる。橋の下の渦が“寄付”を“徴収”に引き戻す形」
「渦なら、舫で形を変えられる」と俺。
条文ざまぁ係は、油紙に包んだ板を抱えてきた。
「新作、『防水版:統合通航票』。紙は樹脂引き、印は蝋、写しは逆写し板。……さすがに水には弱いから、板ごと票だ」
板の片面に、細い溝が格子状に走っている。溝の奥で微細な矢印が方形を描き、四つの角に小さな記号が刻まれていた。
「四机の頭文字?」
「王都役所(W)、神殿(S)、ギルド(G)、商務局(C)。Water, Shrine, Guild, Commerce。順番は風の向きに合わせて回す。舟は風を読む。机も風に乗せる」
エルマーは白手袋を外し、川風を一度だけ吸った。
「神殿は供灯と水渡り祈祷の机を用意する。——ただし、上納は受けない。寄付のみ」
「橋の櫓は徴収の構えだ」とグレンが舷側で帽子を押さえた。「“通行印”の逆写しで、剣を鞘に入れられるか?」
「濡れる鞘が要る」と俺。「だから防水版。鈴は舟でも効く」
◇
布陣は三段。
一、風。
橋の下流に風鈴縄を渡す。竹に穴を穿ち、鈴を低い音と高い音で交互に吊る。風が吹けば音がさざめき、視線が流線になる。視線が流れれば、【秘匿加護】の見られていない帯が細くても通せる。
二、舫。
渡し場の杭に、二重もやいと巻き結びを指で描く。見た者が真似できる結びは、監視にも安全にもなる。結びの余りに小さな銀釘を一打。縄は声を上げないが、座が決まれば暴れない。
三、防水版。
舟の進路上、橋脚の影に逆写し台を沈める。水を吸わない木(神殿倉の古材)に、油紙を挟んだ複写層。通行印は蝋印。順番通りに押せば、逆写しが橋側の従量帳に残る。順番を間違えると滲みが出て、神殿机の供灯記録と合成できない——つまり**“通ったことにならない”**。
条文ざまぁ係が板の縁を叩いた。
「順番の矢印は風向で回る。南風ならW→G→S→C、北風ならW→C→S→G。最後に通行蝋。蝋には微細線で『非収受』の文」
「鞘返しが水の上でも働くか」とエルマー。
「働かせる」と俺。「紙が濡れるなら、蝋に文を書く」
◇
午前、櫓の上から声が落ちた。
「舟は止まれ。橋下の通行料を納め、通行印を受けよ」
鷹鼻……ではなく、水上担当の鵜みたいな顔の隊長。目の色に油が浮く。
彼らの机は一つ。通行印の枠は太く、上納袋が机の足元に見えた。
俺は舟べりから、防水版を見せた。
「統合通航票(防水版)。四机仮合意。順番は風向に従い、最後に通行蝋。寄付は神殿机で、仮受納にて」
隊長の口角が上がる。
「仮合意は陸の話だ。水は水の掟。橋の下は治安隊の腹の内」
「腹の内に蝋は溶けない」と条文ざまぁ係。「蝋印の逆写しは、監察局舟運課の帳にも連動する。陸海連理¹——最近の流行りだ」
隊長の眉がわずかに跳ねた。
「流行り言葉を得意げに……。よかろう。通行印は押す。だが通行料は櫓で受ける」
ここで鈴を一つ、低く鳴らす。風が変わり、人の目が橋脚の影に滑る。俺は竿の影で舟を半艇身だけずらし、逆写し台の上へ滑り込ませた。見られていない。背中で加護が伸びる。
順番——南風。
俺は防水版の一角、Wに王都役所の水運検査印を蝋で置く。次にG、ギルドの通航安全印。S、神殿の供灯協力印。C、商務局の接遇印。最後に、橋の櫓から伸ばされた治安隊の通行印。
蝋が水の上で薄く固まる。逆写し台の溝が小さく吸い、橋側帳に逆印が並ぶ。
隊長の副官が焦った声を上げる。
「隊長、橋の帳面に逆写しが——」
「黙れ。——おい、料金は?」
「寄付は神殿机で仮受納を」とエルマー。白手袋の指が静かに示す。
隊長の口角が少し下がる。油が薄くなる。
「……神殿が寄付で受けるなら、我らは通行印のみ、か」
「剣は鞘の中」と俺。
隊長は櫓の上で短く舌打ちし、印台を掲げた。通行印が最後の枠に落ちる。微細線が波になり、非収受の文が浮く。
鞘返し、成立。
◇
最初の舟が抜けると、列は少しずつ学習した。舟べりに防水版を掲げる者、神殿机へ寄付を持っていく者、結びを二重もやいに替える者。
親方連合の男が、舟の上でも飾り羽根を揺らしながら笑った。
「水でも料金表は要るな。再点検半銀は舟にも効く」
「舟は風で曲がる。料金表は風向で一段変えよう」と条文ざまぁ係。「南風割。風が味方の日は、上限を半銀下げる」
「詩だな」とグレンが舵で笑う。「風の割引」
小さなざまぁは、今日も誰の面子も削らない形で効いた。櫓の上の隊長は剣を抜かず、神殿机は寄付の帳を薄く綴じ、川面には鈴の音が流れた。
◇
昼前、別の色が橋の影で濃くなった。
リサが目を細める。
「刺し蛇腹。昨日の盗水と同じ匂い。今度は川底の旧取水口。——底から抜く」
隊長もさすがに気づいたらしい。副官に短く合図するが、縄の先では手が届かない。
「陸の鎖は水に届かない」と俺。
「風なら届く」とリサ。
俺は竿を寝かせ、帆を半分だけ上げた。風鈴縄が低い音で一拍、高い音で一拍。視線が上に抜けた隙で、舟を逆写し台のさらに下流へ滑らせる。見られていない。
川底に、壊れかけの石枠。そこから蛇腹が黒い舌を出している。
俺は紙帯を取り出し、水に溶けない樹脂で縁を固めた防水紙に、誓約文を走らせる。
《舫の誓い:ここを通る水は、順番を守る》
紙は水に弱い。だから、舫と蝋で鞘を作る。防水紙の端に薄金箔をなで、銀釘を一本、無音で打つ。
蛇腹が一瞬、たわむ。
その隙に二重もやいで蛇腹の腹を縛り、巻き結びで旧取水口の石枠に返す。結び目に通行蝋を一滴。
水は礼儀正しい。順番のある舫を選ぶ。蛇腹は自分の自由より楽な道を好み、音もなく力を失った。
水面に戻ると、隊長が櫓からこちらを見ていた。目の油が薄い。
「……今のは、法か、技か」
「順番だ」と俺。「順番は法にも技にも宿る」
隊長は鼻を鳴らし、笑いとも溜息ともつかない音をこぼした。
「覚えておく。水で剣を鈍らせる男として」
「鞘を用意しただけだ」
「同じことだ」
◇
午後、風はすこし向きを変えた。防水版の矢印は北風の順に回り、舟は風鈴縄の高低で視線を曲げ続けた。統合通航票は逆写しを重ね、神殿机の寄付は薄い帳面を増やした。
エルマーが白手袋をはめ直し、短く言う。
「仮在籍の報告に『風向』の欄を増やす。——順番は風でも変わる」
「順番が生き物である証拠ですね」と条文ざまぁ係。
「生き物なら、餌が要る」とグレン。「怠け者救済の餌」
彼は舟縁から布袋を差し出した。中身は鈴と小さな幕。
「行商用の視線誘導キット。これがあると、見られていない帯が自分で作れる。——売れると思うが?」
「名前が悪いと敵を増やす」と俺。
「じゃあ『半歩幕』。——さらに敵を増やす名だな」
リサが袖で口元を隠し、笑いをこぼした。
◇
夕方、関所の櫓が音を止めた。通行蝋の逆写し帳が一冊、きれいに埋まり、非収受の文が波のように連なる。親方連合の男が舟から手を振る。
「今年は儲けが薄いが、揉め事も薄い。来年、多分、濃い」
「濃さは順番で割ればいい」と俺。
隊長が短く顎を上げ、櫓を片付け始めた。剣は一度も抜かれないままだ。
小さなざまぁ、本日も完了。舟は軽く、橋は静か、鈴は低い音で余韻を残す。
◇
日が傾き、風が川面から街へ戻る。見られていない時間は薄くなり、俺の背中の加護はゆっくりと座る。
そのとき、リサが遠くの空を掬った。
「色、遠くで濃い。——王都の外港。帆の森。封蝋が多い荷。疫病の色が混ざる」
エルマーの横顔に一瞬、あの灰青が走る。消せない跡。
「検疫だ」と彼。「神殿にも、役所にも、台帳が足りない。港は風が強い。順番が乱れやすい」
条文ざまぁ係が板を返し、木口に油を引いた。
「港湾複式検疫票、要るな。風→帆→荷→人の順で読む票。防水版に印を足して、帆印を作ろう。鞘返しは——碇でやる」
グレンが頷く。
「船なら舫と碇だ。紙は帆になる」
俺は油紙に新しい台紙を置き、墨で最初の線を引いた。
《臨時調整窓口:港湾複式検疫票(草案)》
《対象:外港入港船/帆印・荷印・人印・水印》
《根拠:検疫規程・神殿浄め規定・港湾安全要綱・商務接遇要領》
《誓約文:最初の深呼吸は帆の下で》
風が提灯の骨を撫で、鈴がちと短く鳴る。のんびり暮らす予定表は、また一行、細く延びた。空白は嫌いじゃない。心棒と鞘と帆を書き込めるから。
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次話予告:『港の帆印:検疫と“碇の鞘返し”』——外港に帆の森。検疫の順番は風で乱れ、噂は波で増幅する。帆印で視線を曲げ、碇で印を沈め、防水版で“通行蝋”を逆写しに。最初の深呼吸は帆の下、無音の一撃は**帆桁**の影で。
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¹ 陸海連理:陸の帳と舟の帳を“連理”の木のように結び、どちらか一方だけで不正が完結しない設計、の意。用語は条文ざまぁ係のノリ(造語)。




