【第8話 上水の味:二系統の夜間切替】
王都の水は、昼と夜で機嫌が違う。昼は人に合わせて流れ、夜は石に合わせて眠る。使節団の宿で出された水は、眠り足りない石みたいな味がした。鉄が舌を押し、古い膠が鼻の奥で長居をする。外交は言葉で始まるが、最初の交渉相手はたいてい水だ。
リサが杯を傾け、虹彩の奥で色をすくう。
「夜系が昼系に混ざってる。古い管の“記憶”が、夜のうちに昼へ滲む。味の色が鈍い」
四机の顔合わせは宿の中庭で行われた。王都役所(水道・衛生)、神殿(浄め)、公的ギルド(職人・配管)、商務局(接遇・使節対応)。机が増えれば、紙も増える。紙が増えれば、順番が問題になる。
条文ざまぁ係は、いつもより大きい板を抱えて現れた。
「水道複式巡検票(試案)——四机対応。表に“配水経路”、裏に“味の要因”。営業→安全→協力の順は変えないが、水は安全→味→礼で読む。だから二段の順番を縦横で組む」
グレンが唸る。
「縦が紙の順、横が舌の順。表計算の気配がする」
エルマーは白手袋を外し、神殿の僧に目を向けた。
「仮浄めの用意を。——ただし、浄めで“味”をごまかすのは禁止。味は配管で直す」
「禁じ手抜きは禁止、ですね」と俺。
「それは名言か?」
「禁じ手抜きは禁じ手よりタチが悪い」
◇
まず地図。宿と周辺の上水は、昼系(高架槽)と夜系(地下水頭圧)の二系統切替。昼は塔から落差で、夜は地下の貯溜から押す仕組み——のはずが、切替弁が古く、昼夜の境界に逆流が起きている。
ギルドの配管屋が眉に汗を浮かべて言った。
「弁筒の逆止板がねじ切れてる。交換は昼間じゃないと危ない。夜は水が走りすぎる」
「夜じゃないと俺は強くない」
視線が一斉にこちらへ向いた。俺は肩をすくめる。
「見られていない時にしか、最高の手が出ない体質でね。だから夜にやる。——ただし、無音で」
役所の水道吏が腕を組む。
「夜間止水は布告が要る。使節団の宿ならなおさら」
条文ざまぁ係が板を返した。
「臨時切替帯の運用。範囲を宿の敷地と小路一本に限定、止水は半拍——四十息。布告は商務局の使者に口上で補完、紙は掲示で数を稼ぐ。四机合意の印は、ここ」
四つの印欄が並び、順番の矢印が方形に組まれている。最後の角には薄く小さな文字が潜んでいた。
《味の誓約文:直後の杯は笑って飲むこと》
グレンが吹く。
「義務で笑わせるのやめてやれ」
「笑顔が味の検証に要る。顔は嘘を吐きづらい」
◇
準備は三つ。泥、紙、水。電は今日はお休み——と言いたいが、最後に少しだけ出番が来る。
一、泥。
地下のバルブ室へ行く通路は滑る。夜に人を落としたくない。俺は粘土と砂の配合を井の字に敷き、板を渡して踏み板の音を消した。足音が小さいと、視線も小さくなる。
リサが指で空気を撫でる。
「色が薄くなった。見られていない帯が太る」
二、紙。
水道複式巡検票の前置を整える。
表:配水図、昼夜切替の現況、臨時切替帯の境界。
裏:味の要因チェック(鉄・膠・藻・油)、杯の顔の三段評価(目・頬・喉)。
最後に、味の誓約文の欄。
《味が整ったら、最初の一口は笑って飲む》
神殿の僧が苦笑する。
「誓いに笑いを入れる記録、初めて見た」
「**御神笑**は古い言葉にもある。笑いは浄める」
三、水。
切替弁の部屋は、石の匂いと湿った鉄の気配。弁筒の首に古い鉛の封印が残っている。昔の技師が“触るな”と残した合図だ。
「触るけどな」
俺は封印の上に、薄い紙封を貼った。破る前に、上書きする。
《臨時切替帯:四十息/四机合意》
エルマーが静かに頷く。
「上書きの清め、悪くない」
◇
夜。使節団が宴の席で前菜に手を伸ばしかける半拍前——四十息の臨時切替を始める。
俺は弁のハンドルに手を置き、リサが息の数を数える。
「一、二、三、四……二十……三十七、八、九——」
「今」
見られていない。宴の視線は料理へ、楽の音へ、杯へ散っている。背中で加護が伸びる。指が迷わずハンドルを半回転だけ返し、逆止板を仮留めの角度へ送る。音を出さない角度、一度半。心棒と同じルールは、水にも効いた。
同時に、弁の前後に亜麻の栓を噛ませる。逆流の衝撃を吸うためだ。
ギルドの配管屋が息を呑む。
「そんな柔らかい留めで、持つか?」
「持つ。四十息だけな」
水の音が、低く、短く変わる。昼系から夜系へ、夜系から昼系へ——切替の境界が、紙の上で一筆書きになった。
上では、杯が上がる。使節団長の髭が揺れ、通詞が笑い、最初の一口が舌に触れる。
——顔。
頬がほどけ、目尻がやわむ。
商務局の役人が、慌てて味の誓約文の欄をなぞる。
「笑ってる……笑ってるな? な?」
「笑ってる」と通詞。
条文ざまぁ係が巡検票の裏に三点を打つ。目・頬・喉、合格。
神殿の僧は杓で水を掬い、仮浄めの符を空に描いた。文字は、薄い。濃い浄めは味をごまかす。薄い浄めは、順番を守る。
小さなざまぁは、往々にして舌に現れる。言葉が出る前に、顔が出る。顔が出れば、交渉は半分終わる。
グレンが帽子を胸に、低く囁く。
「最初の一口は金貨だ」
「二口めは銅貨でいい」と俺。「一口めが笑うなら」
◇
切替の四十息が満ち、俺はハンドルを元へ戻す。逆止板の仮留めを外し、代わりに薄金箔で座をなで、銀釘を一本、無音で打つ。
電は礼儀正しい。抵抗の低い道を好む。水も同じだ。摩擦の低い道を好む。薄金箔は摩擦の舌を滑らかにする。
機嫌の悪かった石の味が、沈黙へ戻る。味が無味に戻るのは、調理人に対する最大の礼だ。
役所の水道吏が目を剥く。
「弁を替えずに、味が戻った……。だが、仮だな」
「翌朝、正式修繕を。座金と逆止板の全交換。それまでは四十息の臨時切替でやり過ごす」
条文ざまぁ係が頷く。
「水道複式巡検票に“翌朝修繕”の欄を追加。予約印は今、押しておく」
エルマーが白手袋をはめ直した。
「味の誓約文、効いたな」
「紙で笑わせるのは野暮だけど、笑いを記録するのは必要だ」
「記録は、次を楽にするためにある、か」
「その台詞、気に入りましたね」
「うむ。寝言の候補にする」
◇
宴は滑らかに進んだ。使節団長は上機嫌で、商務局の起案した条文の形に不満を見せる余裕すらあったが、形の議論は笑ってやれるときが一番速い。
終盤、使節の随員が杯を置き、通詞を通さずに拙い王都語で言った。
「最初の一口、笑えた。——礼を」
「こちらこそ」と俺は頭を下げた。「最初の一口の笑顔、記録させてもらいました」
随員は目を丸くし、次に笑った。
「記録に笑顔を、か。変わった都だ」
小さなざまぁ、三件目。味で始まる交渉は、味で救える。
◇
片付けにかかるころ、地下のバルブ室に別の色が滲んだ。
リサが眉を寄せる。
「油。——誰かが古い管を経由で盗水してる。昼夜の切替の境界を狙ってる」
ギルドの配管屋が歯噛みした。
「いたちのような連中だ。昼の圧が低いときに、夜の頭圧を横取りする。蛇腹と刺し金でこっそり」
役所の水道吏が拳を握る。
「摘発は昼だ。夜は危険……」
「見られていない帯なら、俺が行く」
俺は梁に沿って、弁室のさらに下へ滑る。古い石段の陰に、蛇腹が黒く動脈めいて曲がっていた。刺し金の先が弁箱の影に潜り込んでいる。
無音で、鈴を一つ。
音は上では鳴らない。石の間で、水にだけ聞こえる高さで鳴る。
水は礼儀正しい。呼ばれたら、呼んだほうへ一瞬だけ首を向ける。
その一瞬、蛇腹の腹がたわむ。俺は紙帯を差し込み、鞘返しの誓約文を書き込む。
《ここを通る者は、通行印の順に従う》
蛇腹に順番はない。だが、紙にはある。紙の順番が、蛇腹の自由を一瞬だけ囲う。
俺は薄金箔をひと撫で、銀釘を一打。
盗水の先にいた奴らは、明朝、順番のない配管を抱えて役所の机で固まるだろう。通行印の逆写しが、そこにあるからだ。
地上へ戻ると、条文ざまぁ係が待っていた。
「盗水ざまぁ、入ったか?」
「順番ざまぁ、と言ってくれ」
◇
夜が薄くなり、空に色が戻る。使節団の宿は静かな笑い声の残り香だけを残して眠りに入り、四机の印影は水道複式巡検票の端で冷えた。
役所の水道吏が、弁室の鍵を俺に見せて言った。
「明朝の正式修繕、君も来てくれ。外部監督の立会いがほしい」
「心棒は目立たないのが仕事だが、印は目立たせていい」
「印は目立つほど、怠け者の親切になる」
エルマーは封筒を出した。
「仮在籍一週目の週報フォーマットだ。報告の最初に、“笑って飲んだ一口”の欄を入れた」
「神殿の報告書に笑いが入るの、初では」
「神は笑いを嫌わない」
リサは空の杯を胸に寄せて小さく頷く。
「色、きれい。味の誓約文、効いてる。……でも、別の色が遠くで濃くなる。橋。——水上の徴収」
グレンが眉を上げた。
「水上関所か。祭りで陸が取れなくなると、川で取る」
条文ざまぁ係が板を反転した。
「紙は陸で効くが、水の上では濡れる。防水版の出番だな」
「泥、紙、電、水。次は風かも」と俺。
「風?」
「帆がある」
鈴がちと鳴り、朝の一筋の風が提灯の骨を渡る。見られていない時間は、薄皮みたいに剥がれはじめる。昼は平凡以下だ。それでも、順番と鞘と心棒があれば、折れない。
のんびり暮らす予定表の明日の欄に、また一本、細い線が増えた。線は道になる。道があれば、歩ける。歩くなら、静かに強く。
――
次話予告:『水上関所:帆と印の“防水版”』——祭りの余波で川に臨時の関所が立つ。帆に風、荷に水、机は舟。防水版の統合許可で“通行印”を逆写しにし、橋の上納を寄付へ引き直す。薄金箔は錨の座、銀釘は**舫**の結び目。無音の一撃は、波の裏で。




