【第7話 仮面神遊:古い手順と“無音の一撃”】
朝の太鼓が一度、腹の底で鳴った。王都の空気が一斉に伸びをし、露店の鈴がぱらぱらと答える。紙は昨夜のうちに順番を覚え、灯りは無音で系統を通った。——さて、今日の難物は仮面だ。
神殿の倉から出された木箱は、乾いた海の匂いがした。海のない国の古い塗料は、どうしても海を思い出す。エルマーが白手袋を外し、息を整えてから蓋を外す。布に包まれた仮面が四つ。喜、怒、哀、そして無。
リサが指先で空気を撫で、虹彩の奥の色をすくい上げる。
「無の仮面、色が欠けてる。欠片が神殿の記録のほうに落ちてる」
「記録の穴か」と俺。
条文ざまぁ係が、どこからともなく板を出した。
「昨夜のうちに**“祭礼順次票”を起こした。演目の順番、詠唱の長さ、交代の印。——だが、“仮面の清め”の段が空欄だ。資料がない」
エルマーが頷く。
「古い台帳が欠けている**。無の仮面は“無音の一撃”を司る。演者が見られていないあいだに打つ仕草をする——記録はそこまでだ。清めの手順が、途中で切れている」
行列の時間は迫る。仮面神遊は大祭の中盤、太鼓が二巡してから。穴を塞ぐには、紙と紐と……必要なら、本物の無音。
◇
午前、まずは紙で手を打つ。
俺は祭礼順次票の空欄に、仮清めの段を挿した。名付けて《沈黙の半歩》。
・仮面の前で一息止める(数は四、拍は三)
・演者は客の視線から半歩ずれる(目線誘導は鈴)
・無の仮面だけ、裏に薄紙を一枚貼る(粉の落下防止)
根拠? 無音の一撃は、音の代わりに順番で効く。なら、息と半歩で順番を刻む。薄紙は落ちた粉が悪さをしないための“紙の鞘”だ。
次に紐。
大通りの角に目隠し幕を二枚追加。鈴の位置を半寸下げて、客の視線を舞台の縁に集めすぎないよう散らす。“半歩ずれ”の余白を確保するためだ。
親方連合の男が腕を組んだ。
「幕、増やすのか」
「火の回りが空く。安全。料金表の再点検半銀、ここで使える」
「商売がうまいな」
「火は落ちる。落ち先を決めておくのが商売だ」
エルマーは神事側の机で、僧たちに仮清めの説明をしていた。
「四呼三拍、沈黙を刻む。順番は“息→半歩→受け”。受け印は、僧が鈴で合図。——古い記録が欠けているからこそ、欠けたぶんを余白で守る」
僧の一人が眉を寄せた。
「余白で守る?」
「紙の守りは、書くことだけではない。書かないことの枠を決めるのも、守りだ」
僧はしばらく考え、それから頷いた。宗教はときどき編集の学問になる。
◇
昼、行列が始まる。提灯が光の川を作り、太鼓が二巡目の拍を刻む。舞台脇、無の仮面の演者が衣装の紐を結んでいる。痩せた若い男。気配は薄いが、癖のない薄さだ。
リサが彼を見て、小さく囁く。
「色が、綺麗に空いてる。けど、仮面の欠片が足りない。無音の一撃の“止め”が古い影に吸われる」
「古い影?」
「仮面の裏に、誰かの息が残ってる。昔の演者。——未提出の記録みたいに、宙ぶらりん」
未提出の記録。紙にとっての怨霊は、たぶんそれだ。なら、出すところを用意する。
俺は統合許可票の裏に、空の枠を三つ増やした。
《沈黙提出欄(観客)》
《沈黙提出欄(演者)》
《沈黙提出欄(仮面)》
観客は拍に合わせて息を半歩だけ飲む。演者は半歩ずれる。仮面は薄紙で粉を受ける。三つの提出が揃ったら、無音が帳簿に載る。帳簿に載れば、影は影の仕事に戻る。
条文ざまぁ係が目を丸くした。
「“提出欄(仮面)”って、どの口で言うんだ」
「仮面は口がない。だから私が代理」
彼は吹き出した。
「代理の定義が伸びる伸びる」
◇
午後、舞は佳境。喜が笑い、怒が叫び、哀が祈り、通りの空気がきれいに回る。残るは無。
太鼓の合図、鈴がちと鳴る。舞台の正面で視線が一点に集まり、次の瞬間——鈴がもう一つちと、縁で鳴った。半歩の余白。客の視線がわずかに散る。
演者は一息四つ、三拍で半歩ずれる。俺は幕の影から梁へ、梁から柱の影へ、見られていない帯を滑る。背中の加護が伸び、指先の迷いが消える。
無の仮面が、演者の顔に載る。薄紙が粉を受ける。粉は影になる前に紙になる。
その瞬間。
舞台の床下、古い板が息を吐いた。影が、仮面の裏から、上へではなく下へ伸びる。
リサが鋭く囁く。
「下! 床の梁に絡む!」
「見られていない——今だ」
俺は床下へ飛ぶ。人の視線は舞台の中央、鈴が視線を縁に流す。見られていない。
床下は、板の陰と塵の匂い。梁に古い樹脂が固まっている。そこに黒い息が殻みたいに張り付いて、にわかに膨らもうとしていた。昔の演者の“止めそこなった息”。
無音で、楔を一本。角度は一度半。心棒の時と同じだ。息の通り道を紙で折る。
俺は細い紙帯を取り出し、梁と梁の間に一筆書きで掛けた。紙は乾いて軽い。軽いものは無音を運ぶ。帯の上に、薄い誓約文を書き込む。
《ここに留まること。仮面の息は舞台の上に置くこと。》
紙の誓約は、群衆が読むことで重さを得る。上では太鼓、下では紙。梁がちと短く鳴り、黒い息は紙の上で形になった。
俺はそこに薄金箔を指でなで、銀釘を一本、音なく打つ。電は抵抗の低い道を好む。無音も道を選ぶ。選ばせれば、行く。
黒い息が紙へ、紙から仮面へ戻る。戻った先は、薄紙の上。影は提出欄に載る。帳簿が閉じる音が、床下でしゅっと短くした。
◇
舞台の上。無の演者が、半歩の余白から一撃の型へ滑り込む。音はない。代わりに、順番が打たれる。
太鼓が空拍を置き、観客が息を一つ飲む。鈴がちと、縁で鳴る。
——無音の一撃。
空気が、薄く、深くたわんだ。
客の胸がわずかに軽くなり、肩の力がわずかに抜け、広場の色が一段明るくなる。穴はない。あるのは影だけ。影は、踏みしめられる。
条文ざまぁ係が涙ぐむ勢いで板を抱え、グレンが帽子を胸に当てた。
「今の、領収書のない救いだな」
「救いは仮受納でいい」と俺。「本受納は、家に帰ってからでもできる」
エルマーは舞台袖で一度だけ目を閉じ、それから僧たちに沈黙の半歩の印を押させた。提出欄(仮面)には、薄紙の粉が静かに乗った。紙が受け取り、群衆が読んだ。
◇
舞は終わり、提灯がゆっくりと昼の明るさに溶ける。人の波がほどけ、露店の匂いが帰ってくる。
親方連合の男が背伸びをし、ぶっきらぼうに言う。
「今年の祭り、太鼓が軽い。悪くない軽さだ」
「上納が寄付になったぶん、腹の音がいい」とグレン。
条文ざまぁ係が祭礼順次票に追記を走らせる。
「“沈黙提出欄(仮面)”の実装、うまくいった。来年も仕様に入れる」
「仕様」とは便利な言葉だ。宗教にも、商売にも、土にも効く。
エルマーが箱に仮面を戻し、白手袋をはめ直す。目の鉄は、今日だけ少し人間寄りだ。
「君の無音は、紙の上で鳴るのだな」
「紙で鳴らせば、記録になる。記録になれば、次が楽だ」
「次を楽にするために、君は今日を忙しくする」
「のんびり暮らす予定表は、いつも明日にある」
リサが箱の上に軽く手を置いた。
「色、きれい。無の仮面、今日は息ができた」
「なら、仮在籍の初日も成功だ」とエルマー。「自由時間は守る。報告は週一。君の色が濃くなりすぎたら、半歩戻る印を用意しよう」
「半歩の印、素敵」
リサは笑った。虹彩の金色が光をひと匙すくって揺れた。
◇
夕方、舞台の撤収が始まる。提灯の系統は無音のまま片づき、統合許可票は鞘返しの印影を残して綴じられた。
その時、通りの端で新しい色が揺れた。
リサが目を細める。
「使節の色。隣国から。文の封蝋が多い。水の色が混じる」
「水?」
「王都の上水に、古い管が混ざってる。使節団の宿の系統。——味が悪くなる」
味が悪い上水は、評判が悪い交渉に直結する。紙より前に、舌が政治を決めることもある。
グレンが口笛を飲み込み、条文ざまぁ係が板を反転。
「来たな、水脈。複式に水道を足す?」
「足そう」と俺。「泥と紙と電はやった。次は水。無音で繋いで、順番で通す」
エルマーが白手袋の縁をつまみ、短く頷いた。
「神殿の浄めも貸そう。だが、上水は役所の所管だ。——三机だけでは足りない。四机の調整だ」
「机が増えたら、台紙を広げればいい」
俺は新しい板を出した。墨の匂いが、祭りの残り香に滑り込む。
《臨時調整窓口:水道複式巡検票(試案)》
《対象:使節団宿泊区域の上水/昼夜二系統》
《根拠:上水管理規則・神殿浄め規定・王都祭礼安全要綱・商務接遇要領》
紙はまた増える。紐もまた張る。鈴は少しだけ位置を変える。見られていない時間は、今夜も細く伸びる。のんびり暮らす予定表は、明日の欄に空白のまま置いておく。空白は嫌いじゃない。心棒を書き込めるから。
――
次話予告:『上水の味:二系統の夜間切替』——使節団の宿で“水の味”が外交案件に。古い管の混入で昼夜の系統が乱れ、群衆の色と評判が濁る。泥で道を通し、紙で机を結び、無音でバルブを回す。複式巡検票は四机対応、最後に“味の誓約文”が鍵になる。




