【第3話 祠の心棒:無音の修繕】
北の丘は、昼間は羊の鳴き声が似合い、夜は風の独奏がよく響く。村の長に案内された祠は、丘の肩にちょこんと乗っていた。石段は三十段、苔むした灯籠が左右に二つ。屋根は片側へ微妙に沈み、賽銭箱は片方の足が石から浮いている。素人目にも「もう少しで倒れます」の顔をしていた。
「祭りの太鼓が鳴るまでに、直したい」と長は言った。「昔からこの祠を起点に、作物の出来を占うんだ。倒れたままじゃ縁起が悪い」
リサが祠を見上げ、虹彩の奥に薄い色を転がす。
「色が濃い。ここ、穴がほころびてる。目で見えるのは傾きだけど、内側の枘も、たぶん割れてる」
「割れてるなら、交換だな」
「本格修理ならそう。でも、今は祭りが先。——心棒で支えるのが現実的」
心棒。建物の芯に通す仮の支え。聞こえは地味だが、地味はだいたい正しい。
問題は二つ。ひとつ、作業に人手がいらないか。ふたつ、信仰の管理。祠は神殿の管轄でもある。勝手に触れば、書類の嵐になる。
長は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「神殿には使いをやったが、黒い馬車は気難しくての。『正式な修繕は後日』としか返事がない。祭りは今夜なのに」
黒い馬車。さっき見送ったばかりの神殿の紋章。俺は顎に手を当て、丘の風を吸い込んだ。
「じゃあ、臨時の保全だ。倒れない、崩れない、祭れる——そこまでこぎつける」
「法に触れない?」とリサ。
「触れない。触れないようにやるのが俺の仕事だ」
◇
準備は簡単だ。いや、簡単に見えるように整える。
まずは道具。長から納屋の鍵を借り、古い槍の柄を数本見つけた。堅く、真っ直ぐで、程よくしなる。これを削って心棒にする。
次に楔。乾いた樫を薄く割って、数種類の角度で用意。
それから、祭具の清め——ここが大事だ。祠に触れるには、清めの手順を踏む必要がある。神殿のやり方と村のやり方、その折衷。桶を磨き、湧き水を汲み、塩と榊を整える。リサが手順を囁く。
「神殿式は塩二度、村式は一度。折衷で一度半」
「半はどうやるんだ」
「少し手を止めて、間を置く」
「なるほど、間の清め」
夕暮れが山の向こうへ沈み、空が群青へ傾く。太鼓の準備が村で始まる。俺は祠の周りに臨時柵を立て、掲示板に板を掛けた。墨で書く。
《臨時保全区域:祠の傾斜矯正および心棒設置——神体非接触・形状変更なし》
下段に、決め手の文言。
《信仰保全規約 第六条二項:倒壊の恐れが明白で、祭礼の中止が村落生活に重大な支障を来す場合、臨時保全は認められる(仮復旧・記録必須)》
条文は万能の護符ではないが、盾としては十分だ。
月が雲に入り、視線が散る。世界がまた、俺のために静かになる。
◇
まず、見立て。
祠の基台に膝をつき、石と木の接点を指で探る。音を立てず、隙間に細い紙を差し、抵抗の有無を確かめる。右前の脚が浮いている。屋根の荷重が左後ろに片寄り、枘のところで亀裂が入っている。
「起こす角度は?」とリサ。
「星を三つ分。——と思ったが、君には通じるな」
「わかる。星三つは、だいたい二度」
「正解」
槍柄を削った心棒を、祠の内部に通す。床板と梁の間、「ここしかない」というところでロックするには、楔がものを言う。
俺は息を潜め、見られていない夜の力を借りる。指が迷わない。木が鳴く前にひと手間。楔の角度は一度半ずつ。規則正しく、しかし規則より少しずらす。リズムは木に効く。
小さな音。木が「よし」と言った。屋根の沈みが少し戻る。
「一度目」
反対側も同様に。心棒は二本、対角線に配置。祠の中心を静かに貫く。
「二度目」
最後に、浮いていた脚の下に薄い石板を滑り込ませる。息を止め、祠の重みがその石を選ぶのを待つ。正解の石は、音が短い。
——コ。
やわらかい音で収まった。
「三度目」
リサが息を吐く。
「色が薄くなった。穴が小さくなってる。……あなた、やっぱり木とも喋る」
「木は正直だ。人より早口だが」
心棒は見えない。見えない支えで建物は立つ。地味だが、地味は繰り返し強い。
◇
作業の終盤、丘下から車輪の音がした。いやな響きだと思ったら、案の定、黒い馬車。神殿の紋章が月に光る。御者台には朝と同じ顔。護衛が二人。後部に新しい影が増えている。
影は、白い手袋をはめた細身の男だった。年若いが鼻筋が鋭く、目だけがすり減った鉄みたいに冷たい。
男は柵の前で馬車を止め、板の文言を一読して、こちらへ視線を投げた。
「臨時保全、か。誰の判断だ」
「村の長と、工事の者の共同記名だ」と俺。
「神殿の許可は?」
「規約六条二項に基づき、事後報告の運用」
男は笑った。笑顔だが、温度がない。
「君、条文が好きだね。だが、信仰は条文の外側にある」
「信仰は守る。倒壊から。祭りの中止から。人の生活から」
瞬間、男の目にわずかな色が走った。リサが、俺の袖をつまむ。
「祭りの中止が“支障”だという判断、誰が下した?」
「村の生活が下した。——そして、俺が記録する」
俺は懐から、板に綴じた記録票を出した。昨夜の通行票の隣に、新しい紙が増えている。
《臨時保全記録》
作業の目的、方法、神体非接触の宣言、心棒の位置、楔の材、清めの手順、柵の境界。
男は目を走らせ、わずかに眉根を寄せた。
「……神殿の書式より緻密だ」
「神殿は後日の正式修繕で形を整えればいい。今は、倒れるのを止めただけだ」
彼は板を返すと、祠に一歩近づいた。灯火が彼の横顔を掠め、白い手袋が丁寧に指を組む。
「君の名は?」
「ユウト。工事の者」
「私は神殿執務官のエルマー。——巫女を探している。行方を知らないか」
リサの指が、さらに強く袖をつまむ。俺は肩をわずかにすくめた。
「巫女は、神殿の大事な人材だ。もし見かけたら——おとなしく戻るよう伝えてくれ」
「戻れば、何が待つ?」
「義務と栄誉」
「義務は想像できる。栄誉は?」
「家名が上がる。任地が良くなる。——そして、自由時間が減る」
最後の一言に、鉄の目にほんの微かな疲れが滲んだ。エルマーはその色に自分で気づき、すぐに消した。
「夜分に邪魔した。臨時保全は、今回に限り黙認する。だが、記録は提出してくれ。神殿は記録を好む」
彼は馬車を振り返らず、短く合図して丘を下った。御者の舌打ちは風に紛れ、護衛の槍先が月を小さく切った。
リサが長く息を吐いた。
「……色が、擦れ合った感じ。彼、悪い人じゃない。でも神殿の仕組みの色が濃い」
「仕組みは人を守るが、人も削る。心棒が要るのは、建物だけじゃないかもな」
「人にも、心棒」
「折れないように」
◇
祭りの太鼓は、丘の下から腹に響いた。村人たちは上機嫌で、祠の前の石段に小さな灯りを並べる。
長が目を丸くした。
「傾きが……戻っておる……!」
「仮支えです。正式修繕までは、無理をさせないでください。舞の人数を減らす、石段に列を作らない、酔った男を祠に寄せない、など」
「わかった、条文ざまぁの先生」
「そんな肩書きはやめてくれ」
祭りは始まった。太鼓と笛。子どもが笑い、焚き火が立ち上る。祠は静かに立っている。表から見れば何も変わっていない。ただ、見えない芯が通り、全体が少し深く呼吸している。
リサは石段の下から祠を見上げ、瞳の奥で色の揺れを確かめる。
「穴、ほとんど消えた。祠が“ありがとう”って言ってる」
「伝えておいてくれ。こちらこそ、だと」
夜空を見上げる。星が、昨夜よりいくらか近い。見られていない時間は、今日も俺に力を貸してくれた。けれど、視線は増える。評判は足を持つ。
小さな祭りが、静かな風に溶けていくころ、丘の少し離れた暗がりで、布の擦れる気配がした。
リサがさっと目を細める。
「目」
「神殿の?」
「違う。ギルドの目。書類の匂いがする。……それともうひとつ、別の色。えっと、商人」
「祭りに商談。悪くない組み合わせだ」
暗がりから現れたのは、昨日のギルド使いと、幅広の帽子を被った男だった。帽子男は人懐っこい笑みを乗せているが、目の端が常に計算している。
「工事の兄さん!」と使いが声を弾ませる。「昨日の通行票、早速効いた! 神殿は“規約に従った通行”を強調してきたから、こっちは“規約に従った通行人”に“規約に従った協力費”を請求できる! 分かるか、この美しい文の連鎖が!」
「わからなくもないが、落ち着け」
帽子男が帽子の縁を摘んで会釈した。
「旅の商人、グレンと申す。井戸の件、祠の件、耳に届いとります。兄さん、静かにやって静かに勝つ口だね」
「勝ってるつもりはない」
「勝負は相手が決める。負けた側が“負けた”と自覚すれば、それは勝ちだ」
彼は笑みを薄くし、声を落とした。
「明朝、北の関所で検問がある。神殿と税務の共同。書式が合ってない商隊は、三日足止め。——だが、兄さんが使った“臨時保全の書式”は、関所の入出手形にも応用が利く。整えてやる。代わりに、うちの荷の一本を護ってくれ」
「護る?」
「夜のうちに、目に見えない穴を塞いでほしい。道に、穴があくんだ。荷が沈む。人の噂がそれを“妖精”とか“呪い”に盛る。俺は“路面の粘土層の崩れ”に賭けてる」
リサが小さく頷く。
「色が濃い地点、いくつか心当たりある。たぶん、井戸と同じで、水の道が絡んでる」
使いが目を輝かせる。
「そして俺は、関所ざまぁの書式を用意する!」
祭りの光の外側で、次の予定表が静かに埋まっていく。のんびり暮らすつもりは、まだ先送りだ。けれど、空白はやっぱり嫌いじゃない。書き込めるなら、いくらでも。
リサが、祠の前に小さく礼をした。
「心棒、ありがとう」
「どういたしまして」
俺は祠には聞こえない声量で答え、槍の柄に触れた。見えない支えは、声も小さくていい。効き目は、大きい。
――
次話予告:『関所の穴:紙と泥の二重封鎖』——夜の街道に口を開ける“見えない穴”。路面の粘土層を無音で編み直し、関所では書式の網を張る。商人の笑みは二重底、神殿の執務官は三度目の来訪。静かな勝利は、紙の角と泥の粒の数で決まる。




