【第14話 結び目の朝:静かな総決算】
結び目の日の朝は、風より先に鈴が目を覚ます。神殿と広場と市の三つの境目に、細い音が順番に落ちた。紙は昨夜のうちに並び替えられ、紐は一度ほどかれてから、結び直されている。
中心の掲示板には、新しい台紙が一枚。名は三界統合順次票。上段に祭礼、中央に市、下段に神事。左端に風向欄、右端に半歩戻る欄。最後の隅には、小さな文字で、最初の深呼吸は帆の下で、とある。
エルマーが白手袋を外し、紙端を押さえた。
「今日はこの三つを、一つの呼吸で通す。順番を間違えなければ、穴は影に戻る」
「影なら踏める」と俺。
リサが広場の色を見渡し、虹彩の奥で濃淡をならす。
「大きい穴は一つ。神殿の階段と露店の列が十字にかぶる場所。視線が交差して、息が詰まる」
「十字なら、半歩を四つ置けば丸になる」
◇
布陣は三段。
一、紙。
三界統合順次票に、十字の位置を丸で囲い、丸の中に半歩の指示を四つだけ書く。
階段側は半歩下がる
露店側は半歩待つ
市の口上は半拍延ばす
鈴は縁で鳴らす
文字は短く、線は細く。長い言葉は喧嘩に似る。
二、紐。
人の流れを切らない高さで、目隠し幕を半月状に張る。結びは二重もやい、余りは長め。余りは心棒になる。幕の縁に小さな鈴を三つ、音程を少しずつ変えて下げる。
三、鈴。
鳴らす人を決める。僧一人、商人一人、役所の書記一人。三つの音が重ならないよう、順番は紙で刻む。音が重ならなければ、視線は分かれて戻ってくる。
条文ざまぁ係が板を裏返し、余白に一行書いた。
「怠け者救済の最終回。読むだけで動ける紙」
◇
太鼓が鳴り、十字の角に人が集まり始める。鈴が一つ、縁で鳴る。階段側が半歩下がり、露店側が半歩待つ。市の口上が半拍だけ延び、音の隙間に人の息が入る。
人の息が入れば、穴は少しずつ影に戻る。影は踏みしめられる。踏みしめるうちに、丸が輪になる。輪は喧嘩を忘れる。
鷹鼻の隊長が、人の壁の向こうで腕を組んだ。鎖帷子は今日は置いてきたらしい。
「剣を言葉に置き換えるなら、数と鈴が一番速いな」
「剣は錆びる。言葉は伸びる」
「伸びすぎると絡むが、今日は絡まない。紙が短い」
彼は印台ではなく、声で印を置いた。
「通行、最後。寄付、神殿。税、後刻。順番、守れ」
短い言葉は印章に似て、よく効く。
◇
黒い帆が一度だけ戻った。沖で帆印の鈴が高く鳴り、外洋条約欄の隅に船長の一行が増える。
旧名は、港の内では併記する
新名は、港を出るまでに一本化する
港湾管理の書記官が頷き、欄外に小さく矢印を足した。矢印は向きを持つ。向きは喧嘩を減らす。
グレンは舵を離し、半歩幕の束を露店に配って回る。
「視線誘導キット、本日限りの貸し出し。怠け者割、風向次第」
笑いが軽く散って、列の端が柔らかにほどけた。
◇
正午、広場の中心で最後の穴がひと息分だけ濃くなった。太鼓の合図が人の歓声で隠れ、紙を見る目が一瞬上ずる。
鈴が二つ、間を置いて鳴る。
リサが袖をつまんで囁く。
「今、少しだけ視線が余ってる」
「見られていない帯へ」
俺は幕の影から柱の影へ、影の中を半歩ずつ渡る。背中の加護が伸び、指の迷いが消える。十字の中心に、細い紙帯を一本。
ここで呼吸
怒りは変えなくていい
流れだけ変えればいい
帯を掲示板の裏に滑らせ、薄金箔をひと撫で。銀釘は使わない。今日は音を嫌う。
鈴が縁で一つ鳴り、丸の中の空気が半歩分だけ軽くなった。穴は影に、影は輪に、輪は道に。道があれば、歩ける。
◇
午後、神殿の階段で短い儀があった。エルマーが白手袋を胸に、三界統合順次票の端に小さな印を押す。名ではなく、役割の印。
「半歩戻る印、守れた」
「最初の一口は笑っていた」
「風向は二度回った。鈴は三度、重ならなかった」
報告は短く、記録は薄い。薄い記録は遠くまで届く。厚い記録は蔵に向く。どちらも必要で、今日は薄いほうの日だ。
鷹鼻の隊長が最後の印を言葉で置く。
「本日、剣の出番なし」
それは広場の空気に落ち、石段に吸い込まれ、紙の裏に静かに残った。
◇
夕方、黒い帆は沖へ戻る。帆桁の影から船長が片手を上げ、海の鈴が一度だけ鳴った。
「約束を帳に載せる者へ。次も風に従う」
「風は紙でも回る」と条文ざまぁ係。
「紙は怠け者でも読める」とグレン。
「怠け者は、世界を安全にする」と俺。
笑いが短く波になり、すぐ静まった。長く続けないのが、この町の礼儀だ。
◇
夜。最後の片付けが終わり、提灯の系統が無音で落ちる。広場の掲示板は半歩の余白で呼吸し、神殿の蔵は灰青を薄く残して眠る。上水の弁は座に穏やかに落ち、四十息の布告は合図の癖として町に残った。
俺は板の端に小さく書く。
総決算
泥は道を通し
紙は順番を結び
電は礼儀を選び
水は味で笑わせ
風は視線を曲げた
最後に必要だったのは、半歩戻る印だけ
エルマーが封筒を渡す。
「仮在籍、更新の提案だ。自由時間は今のまま、報告は短く、監督署名は余白に。人の削られない条文を増やす約束を、こちらで続ける」
「紙でなら、いくらでも手伝える」
「剣ではなく言葉で、な」
「剣は鞘の中。言葉は幕の陰。鈴は縁だ」
リサが肩を叩く。
「のんびり暮らす欄、明日は空白にする?」
「空白は嫌いじゃない。書き込めるから」
「じゃあ一行だけ。果物、薄金、鈴。台所のメモ」
「台所のメモは、だいたい世界を救う」
◇
見られていない時間が、最後にひと筋だけ伸びる。俺は鈴を一つ、幕の縁に残し、灯のない広場を振り返った。穴は影に、影は輪に、輪は道に。道は静かで、静かなものは強い。
心棒は見えない。見えない支えは、声も小さくていい。効き目は大きい。
紙は薄い。薄い紙は、遠くまで届く。届いた先で、誰かが半歩だけ戻れたら、それでいい。
のんびり暮らす予定表は、明日の欄で眠る。細い線は一本も引かれていない。今夜だけは、ほんとうに空白だ。空白は呼吸。呼吸は次の順番を呼ぶ。次が来たら、静かに強く。
完
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エピローグの余白
三界統合順次票は写しが四つに増え、港の外にも一冊渡った。
鷹鼻の隊長は剣帯を軽くし、言葉を少しだけ短くした。
エルマーの灰青は薄くなり、週報の一行目に半歩戻る印が習い性になった。
条文ざまぁ係は小さな店を出し、怠け者救済の書式屋をはじめた。
グレンは視線誘導の半歩幕を商品にし、風向割で売った。
リサは仮在籍のまま、好きな時間に好きな色を見に行く。
俺は、台所のメモにだけ予定を足す。果物、薄金、鈴。これでだいたい、世界は救える。




