【第13話 四十息の布告と座金の朝】
朝の港は、風より先に紙が目を覚ます。上水の正式修繕の布告札が、宿の前と井戸端と橋のたもとに三枚ずつ。四十息の止水は昨夜の臨時から、今朝は布告の形に変わった。形がつくと、人は呼吸を合わせやすい。
役所の水道吏が工具箱を抱え、ギルドの配管屋が肩で笑い、神殿の僧が薄い浄めの符を胸に差す。エルマーが白手袋を外して小さく息を吐いた。
「座金の交換、逆止板の更新、弁筒の磨き。外部監督の署名は最後に」
「順番は風で回り、紙で止まる」と俺。
リサが地図を胸に抱え、虹彩の奥で色をすくう。
「夜系の色がまだ薄く残ってる。昼の始まりに混ざる直前。今なら、色の境界が見える」
◇
弁室は冷えた石の匂い。昨日の臨時帯で貼った紙封は、今朝は布告札の小型版に替わっている。布告は人に見せる顔、紙封は金具に見せる顔。外と内の礼儀を揃える。
まず止水。四十息。
俺がハンドルに手を添え、リサが静かに数える。
「一、二、三、四……二十……三十七、八、九」
「今」
弁が半回転だけ身を返す。工具は音を出さない角度で進み、逆止板が古い座から抜ける。座金は錆でくすんでいた。錆は時間の誓いだが、水には不親切だ。
ギルドの配管屋が新しい座金を掲げた。
「青銅合金、神殿印付き。摩擦が低い。舌触りがよくなる」
「水にも舌がある」と俺。
座の面を薄金でなで、角だけに粉のように置く。過ぎると滑りすぎる。薄いほど、礼儀に近い。
逆止板を差し込み、弁筒を軽く磨く。銀釘は使わない。金具は細い音を嫌う。代わりに、布告の小札を弁の肩に乗せる。
四十息が満ちる前、リサが頬を上げた。
「境界がつながった。夜がほどけて、昼が入ってくる」
俺はハンドルを元へ戻す。弁が静かに座に落ちる。音は一つ、短い。
水道吏が息をつき、配管屋が袖で額を拭う。
「交換完了。紙封の記録、刻印済み。外部監督、署名を」
俺は板を受け取り、一行だけ書く。
音なし、四十息、順番通り。
◇
地上へ戻ると、使節団の中庭で最初の杯が上がっていた。商務局の役人が巡検票の裏で目・頬・喉を一つずつ確かめ、通詞が短く笑う。
「笑ってる」
味の誓約文に印が増え、昨日の笑顔は今日の形になる。形は怠け者のための親切だが、怠け者の中に人がいる。
そこへ、橋の方から鷹鼻の足音。陸の治安隊の隊長が、今日は鎖帷子を薄くして来た。油の色は、ほとんどない。
「水で剣を鈍らせた男。……いや、鞘を用意した男」
「どちらでも、結果が静かなら」
「静かだ。昨夜の水上でも静かだった。港帳の逆写し、舟運課の帳と一致。剣の出番はなかった」
彼は少し視線を落とし、布告札を見た。
「四十息の布告。いい線だ。怒鳴り声より、数がいい」
「数は人の手の長さに合わせやすい。怒鳴り声は耳が縮む」
彼は短く笑い、印台を掲げた。
「町側の通行印、今日は最後に押す。順番の意味、やっと言葉で分かった」
◇
港は風向で欄が回る。黒い帆は沖に半身だけ残り、帆印の鈴を一度だけ鳴らした。外洋条約欄の逆印は、外洋台帳にも綺麗に並んでいる。幽霊の名は、もう幽霊ではない。
親方連合の男が、舟べりで飾り羽根をいじった。
「薄い儲けは薄い喧嘩。喧嘩が薄い日は、腹が減るが寝つきがよい。来年、帳面は太る」
「太った帳面を、薄い鈴で読ませる」と条文ざまぁ係。
「薄い鈴は軽い。軽いものは遠くまで届く」とグレン。
エルマーが封筒を一つ出した。
「神殿の週報に、港の欄と蔵の欄を並べた。最初の一口の笑い、半歩戻る印、風向、鈴の位置。君の署名は余白に」
「余白は呼吸。署名は息の終わりに置くと、次が楽だ」
◇
昼の終わり、王都の中央広場で、薄い裂け目の色が立った。リサが顔を上げ、虹彩の奥の色が細かく震える。
「穴。大きくはない。けど、指で押せば広がりそう。広場の掲示板の、祭礼日程の貼り替えがずれてる。紙が二重に重なって、順番が絡んだ」
「紙の怨霊は紙で宥める」
俺たちは広場へ向かった。掲示板には古い日付と新しい日付が半分ずつ重なっている。重なりは喧嘩に似て、しかも喧嘩より持久力がある。
条文ざまぁ係が板を起こす。
「重なり外しの手順。古い紙を半歩だけ剥がす。新しい紙は端を折って余白を作る。余白に、半歩戻る印」
エルマーが人垣に短く声を掛ける。
「見る人は半歩だけ下がる。読む人は一息止める。鈴は縁で鳴らす」
鈴が軽く鳴り、視線が半歩散る。俺は掲示板の端に指を入れ、古い紙の角を一枚だけ持ち上げた。紙は意地を張るが、順番には弱い。
古い紙を半歩剥がし、新しい紙の端を半歩折り、二枚の間に薄い帯を滑らせる。帯には短い文。
ここで呼吸
順番は紙の上で合う
人の足は紙に従う
裂け目の色は、ひと呼吸で薄くなった。穴は影に戻る。影は踏みしめられる。
人垣の中で、誰かが小さく拍手をした。波紋みたいに二つ三つ増え、すぐ止む。長く続けないのが、町の礼儀。
◇
夕刻、神殿の蔵で最後の一押し。写真板は保管箱に戻り、欠番の頁には半歩戻る印が静かに座る。蔵の空気は朝より軽い。
エルマーが白手袋をはめ、箱に鍵を掛け直す。
「私の灰青は、まだ消えない。でも、濃くはならない」
「濃くしないのが順番。消すのは信仰じゃない。仕事でもない」
彼は一つ頷き、少しだけ笑った。
「明日の予定は」
「黒い帆が一度だけ戻る。約束の追記。——それと、広場の穴が小さかったのは、運が良かった。最後に大きいのが来る」
「どこに」
「王都の中心、神殿と広場の境。祭りと政治と商いが重なる場所」
リサが袖に指を引っ掛け、虹彩の奥の色を落ち着かせた。
「色の縒りはほどける。でも、ほどけた糸は束ね直さないと絡む。——明日は束ねる」
◇
夜。港の帆印が一度だけ風に鳴り、橋の櫓の上で鷹鼻が帽子を外して空を見る。
神殿は薄い鈴を一つ蔵に置き、広場の掲示板は半歩分の余白で呼吸を続ける。上水の弁は座に静かに落ち、四十息の布告は人の会話に変わった。
のんびり暮らす予定表の明日の欄に、細い線を三本。
黒帆の追記
中心の束ね直し
終わり方の相談
線は道になる。明日はその道の結び目。結び方を間違えなければ、世界は少しだけ静かになる。静かなら、強くできる。
——
次話予告:結び目の日。神殿と広場の境で三つの順番を束ね直し、最後の大きな穴を紙と紐と鈴で鞘に入れる。黒い帆は約束を一行足し、鷹鼻は剣を言葉に置き換える。最終話、静かな総決算。




