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辺境追放の俺、実は神々の“秘匿加護”持ちでした —スローライフ予定が、美少女とついでに世界救済—  作者: 妙原奇天


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【第12話 蔵の灰青と半歩戻る印】

 神殿の蔵は、朝よりも夕方の匂いが似合う。乾いた紙と木、古い油、そして湿り気のない塩。扉の前に立つと、埃ではなく時間が目にしみた。エルマーが白手袋を外し、鍵束を静かに鳴らす。


「ここに、昔の祭りの帳がある。事故の日の記録だ。頁が抜けている。抜けた頁の番号だけが残り、内容は風のほうへ行ってしまった」


「風に行ったなら、帆印を使えば戻せる」と俺。


 リサが蔵の空気を指で撫で、虹彩の奥で色をすくった。

「灰の中に青。誰かの息が、まだ薄く残ってる。怒りじゃない。悔いと、順番への未練」


 条文ざまぁ係は油を引いた板を抱え、肩で息をした。

「失われた頁、復元プロトコル。名前は堅苦しいけど、やることは三つ。欠番の囲い、半歩戻る印、そして提出欄」


「提出欄は誰のためだ」とエルマー。

「観客、神職、そして紙。紙にも提出欄が要る。紙に書いて、紙が受け取ったら、次に人が読む」


     ◇


 蔵の中は、光を嫌う物たちが整列していた。扉を閉め、灯を最小に落とす。鈴は鳴らさない。音は外にいる人のためだ。ここでは、紙が聴衆だ。


 最初にやるのは、欠番の囲い。

 俺は帳の背から外れた糸のほつれを拾い、薄い防虫紙で背の内側を「ぐるり」ではなく「半周」だけ補強する。全部やると紙が窒息する。半周は呼吸が残る。


 次に、半歩戻る印。

 欄外に小さな四角を作り、四角の片側だけを墨で濃くする。四角の中に、短い文を置く。


 戻るときは一息止める

 止めたら半歩だけ引く

 半歩引いたら、置いていく


「置いていくのは何を」とリサ。

「怒りでも悔いでも、好きなほう。両方でもいい」


 エルマーが空の一頁をめくる手を止め、目を閉じた。灰青が薄くゆらぐ。

「半歩の印は、紙の上で効くのか」

「効く。紙は順番の入れ物だ。半歩は順番の隙間だ」


     ◇


 次は提出欄。

 条文ざまぁ係が筆を走らせる。

 沈黙提出欄(神職)

 沈黙提出欄(観客)

 沈黙提出欄(紙)


「紙の沈黙はどうやって提出する」とエルマー。

「余白で提出する。余白の四角を、塗らないで残す。塗らないことを、明記しておく。これが紙の沈黙」


 蔵の奥で、風のような頁めくりの音がした。誰もめくっていないのに、一冊だけ、背が軽く鳴った。

 リサが小さく身を固くする。

「灰青が少し濃くなる。昔の祭りの、太鼓が一つ遅れた瞬間。そこで、視線が集まりすぎた」


「視線は音に弱い。音を曲げれば、視線も曲がる」

 俺は帯から小さな玉鈴を出した。港でもらった海の鈴だ。蔵の中の空気に似合う高さで、いちどだけ短く鳴らす。上を向く音ではなく、紙へ吸い込まれる音。


 視線が集まりすぎたなら、半歩散らす。散らした隙間に、心棒を一本通す。


 心棒は槍の柄ではなく、紙の帯。

 防水紙の細い帯に、誓いを短く書く。

 ここに留まる

 ここで呼吸する

 次に進むのは、半歩戻ってから


 帯を帳の欠番に滑り込ませ、背の糸にそっと通す。通した場所に薄金箔をひと撫で、銀釘は打たない。今日は音がいらない。


     ◇


 蔵の外では、祭りの後片付けの音が遠くなっていく。人の視線が街へ向き、蔵の中は見られていない帯で満ちる。加護が背の骨に触れ、手が迷わない。


「事故の日付のずれ、見えるか」と俺。

 リサは帳の端に指を置き、目を細める。

「祭りの二日目と三日目が、半日ぶん重なってる。太鼓の合図が、雨で一つ遅れたせい。帳は合図に従って書かれてるから、書き手が知らぬ間に日にちをまたいだ」


「なら、合図の帳に合図を足す」

 俺は「祭礼順次票・蔵内版」を起こし、太鼓の合図欄の隣に「雨合図」を作る。雨合図は点ではなく線。三拍ぶんの緩い線。線の端に小さく、合図は自然に従う、と書く。


 条文ざまぁ係が笑う。

「自然を条文に入れるのは、よい背伸びだ」


 背伸びは時々必要だ。人と仕組みの身長差が広がりすぎると、視線が届かない。


     ◇


 足りない頁の番号から、内容が少しずつ浮いてきた。観客の沈黙、神職の沈黙、紙の沈黙。三つが揃った行の端に、短い走り書きが滲む。


 灯の扱いを減らす

 舞台の縁を一手広げる

 鈴は縁で鳴らす


 誰かが書いた。書いたが、提出されなかった。提出されなかった文は、蔵の中で怨霊になる。怨霊は怖くないが、疲れる。


「提出欄に写そう」

 俺は走り書きを「提出」の形に小さく整え、欄に移す。欄の下に、名を残す空白を置く。名を書かなくてもいい。書きたい人だけ、書けばいい。


 エルマーが墨を含ませ、迷いのない手で一文字だけ書いた。

 印


 名前ではなく、役割。役割は鞘の外側、名前は鞘の内側。それでいい。


     ◇


 蔵の空気が浅く弛む。灰青が一段薄くなる。

 リサが息を吐き、肩の力を落とす。

「紙が息をし始めた。怒りは残るけど、とがりは丸くなった。半歩戻る印、効いてる」


「紙が息をしてくれるなら、次は人の番だ」

 俺は週報のテンプレートを取り出し、欄をひとつ増やす。

 半歩戻る報告

 今日はどこで半歩戻ったか

 戻して何を置いてきたか

 置いてきたものは拾いに戻るか


 エルマーが目を細める。

「拾いに戻るか、の欄は必要か」

「必要。置いてきたものを忘れっぱなしにするのは、親切じゃない。いつか拾い直すか、誰かにあげるか、決めておく」


 条文ざまぁ係が顎で笑い、板の余白にひとこと書き足した。

 忘れ物は申告


「税じゃないぞ」とグレンの声が外からして、みな少し笑った。笑いは浄めだ。濃いのは要らない。薄いのでいい。


     ◇


 蔵の一番奥に、鍵のかかった小箱があった。鍵穴は欠けている。昔の金具は、錆と敬意で動かなくなる。

「ここに、事故の当夜の写真板がある」とエルマー。「開けられない。鍵は失われた」


「鍵穴は金属だ。金属は電の親戚」

 俺は薄金箔を指で撫で、鍵穴の縁に静かに置く。銀釘は打たない。代わりに、鈴を指先で擦って微かな音を作る。音は鍵に届き、電の気配が薄く揺れる。

 鍵穴の中で、小さな歯車が一度だけ呼吸をした。

 無音の一撃は、こういうときに使う。音を出さず、順番だけを動かす。


 蓋が半歩分だけ浮く。俺は布を挟み、焦らず、もう半歩。開いた箱の中から、写真板が一枚、静かに現れた。

 板の上で、光が時間を握っている。舞台の縁、鈴の位置、太鼓の皮、観客の肩。すべてが半歩ずれている。

 半歩ずれたなら、半歩戻せばいい。戻せないなら、半歩許せばいい。


 俺たちは写真板の縁に「半歩戻る印」を小さく押し、裏に短い誓いを書いた。

 ここに留める

 次に進む人のために

 戻る道を欄外に描いておく


 条文ざまぁ係が小声で言う。

「欄外の地図、好きだ」

「迷子のためではなく、怠け者のために」

「怠け者救済、港でも蔵でも効くな」


     ◇


 最後の仕上げは、港と蔵を同じ台紙で綴じること。

 港湾複式検疫票の片隅に、神殿蔵用の小欄を作る。外洋条約欄の隣に「半歩戻る欄」。港の風は条約を運び、蔵の余白は祈りを抱える。別々に見えて、同じ台紙。


 エルマーが白手袋をはめ、静かに言う。

「神殿の報告に、今日の欄を増やす。最初の深呼吸は帆の下で、半歩戻る印は蔵の中で。人の順番は風で動き、紙の順番は余白で守る」


「順番が生き物であること、やっと分かってきた顔だな」とグレンが入口に寄りかかって笑う。

「風向欄、増やしておいてよかった」と条文ざまぁ係。

「風はいつも先に来る」とリサ。


     ◇


 蔵を出る頃、夕暮れの色が街の角を柔らかく丸めていた。鈴を一度だけ鳴らす。人の視線が上へ抜け、誰もこちらに気づかない。見られていない。背中で加護が伸び、今日の仕事が紙の上で呼吸を始める。


「週報の第一行目」とエルマー。

「最初の一口は笑って飲む、の横に、半歩戻る印を書いておく。今日は、蔵で半歩戻した。置いてきたのは、焦り。拾い直すかは未定」


「未定は、余白の友だ」と俺。


 リサが袖で口元を隠し、笑った。

「今日は台所のメモが二枚分ある。買い出しのほうが難しい」


「難しいことほど、欄外に書くと楽になる」

「じゃあ、欄外に果物と釘と薄金、あと鈴をもう一つ」

「鈴は借り物を返してからだ」


     ◇


 夜。港の帆印は風にささやき、神殿の蔵は半歩分だけ軽くなった。怒りは残るが、とがりは丸い。未提出の記録は提出欄で眠り、写真板の中の時間は半歩分だけ前に進んだ。


 のんびり暮らす予定表の明日の欄に、細い線を三本。

 上水の正式修繕の立会い

 港の外の条約の追記

 蔵の週報の一行目


 線は道になる。道があれば、歩ける。歩くなら、静かに強く。強さは無音で、無音は順番で、順番は紙で、紙は余白で、余白は息で、息は半歩で戻ってくる。


——

次話予告:上水の正式修繕と座金の交換。朝の四十息は布告の形になり、弁は無音で回る。港は風向で欄が回り、蔵の半歩は帳に載る。水と風と紙がそろう朝、黒い帆は一度だけ鈴を鳴らし、隊長は鞘の意味を言葉で知る。

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