【第11話 外洋条約欄と黒い帆】
外港の夕焼けは、決められたことより決まってないことのほうをよく照らす。沖の水平線ぎわに、黒い帆が一枚、風を薄く飲んでいた。近づくにつれ、帆の黒は煤ではなく、染めの黒だと分かる。染めは約束の色になる。古い条約は、よく黒で記される。
リサが帆の先を見て、虹彩の奥で色をすくう。
「黒の下に、灰の中の青。古い誓い。港の帳に載ってない。」
「載せれば、幽霊じゃなくなる」と俺。
条文ざまぁ係は油を引いた板に新しい欄を開いた。
「港湾複式検疫票、拡張。外洋条約欄を帆印の隣に。必要記載は三つ。条約名、締結年、港内での権利義務の縮約。順番は、風→帆→条約→荷→人→水。最後に通行蝋。碇の鞘返し対応、港帳と外洋台帳に逆写し。」
エルマーは白手袋を外し、港湾管理の書記官に目配せした。
「条約の写しはないか。」
「蔵には抄があるが、抜けが多い。外洋印の図案が欠けている。」
「なら、図案の余白を作る。描いてもらう。」
黒い帆の船が、防波堤の影を舐めて入ってくる。旗は白地に細い線。見慣れない紋。甲板の上、長衣の男が両手を広げて見せた。武器は帯びず、目は潮に慣れている。
「この港の条約は旧名で締まっている。我々は新名だ。旧名と新名は同じ身のはずだが、帳簿は名前を嫌う。」
通詞が訳し、男がゆっくり笑った。
「つまり、幽霊扱いになりがち、ということだな。」
幽霊は鞘があれば徘徊しない。俺は帆桁の影から帆印台を下ろし、黒帆の陰で小鈴をひとつ揺らす。視線が上へ逃げ、甲板の気配が一拍分軽くなる。見られていない帯が細く通る。
「外洋条約欄の書き込みを。条約名、新旧併記。締結年は海の年号も並記。権利と義務は縮約。港内での免責はなし、検疫は通常。寄付は仮受納。」
条文ざまぁ係が筆を走らせ、エルマーが神殿机を整える。港湾管理は外洋台帳を開き、商務は接遇の簡略文を添える。
男は袖から折りたたまれた羊皮紙を出した。水を嫌う匂いがする、丁寧な保存。封蝋の縁に、欠けた印影。
「外の海で、烏が一度ついばみました。」
「なら、港で足りない線を描く」と俺。
防水版の片隅に、印影の欠けを補う図案の余白。薄い線で、必要な部分だけを写す。写したものはこれ一本の票でしか使えない。そういう余白の設計にしてある。
順番は西風。港→検疫→神殿→商務。帆印の鈴が短く鳴り、通行蝋が最後に落ちる。碇座の微細線が波になってつながり、逆写し板が港帳と外洋台帳に逆印を並べる。鞘返し、港の外でも成立。
◇
黒帆の船は舫を取った。結びが独特だ。輪がひとつ余計に潜っている。真似できるが、真似すると一瞬、力の逃がし口が消える。
「この結び、怒りに似てる」とリサ。
「港内では二重もやいに揃えよう。余白を作るために」
外の海の結びは身を守るが、港の結びは隣を守る。標準は心棒だ。心棒は場所で少しずつ違っていい。ただ、順番は合うように。
貨物の申告は樹皮、布、白い砂。白い砂の樽に、気配が少し濃い。検疫旗は黄に上がる。隊長が口を開くより先に、鈴をひとつ低く鳴らす。視線が上へ逃げ、甲板の熱が半度下がる。
「白い砂は何に使う。」
「灯り。火ではない光。」
「魔火の芯の代替か」とグレン。
「なら、港内での試運転は帆桁の影、通路から三歩以上。灯りは落ちる。落ちた先を決めておく。」
樽の栓を半拍だけゆるめる。気配は冷たい。油ではなく、静電の舌触り。電の親戚だ。
俺は薄金箔を指で撫で、樽の縁にひと筋だけ留めた。銀釘は打たない。釘は音を連れてくる。今日は音を嫌う。
「薄金は摩擦の舌を滑らかにする。電は礼儀正しい。低い抵抗へ行く。」
検疫机の隊長は短く頷き、印台を取った。
「港→検疫→神殿→商務→通行蝋。順番を変えない。怒りも変わらない。」
「怒りは変えなくていい。流れだけ変えればいい。」
通行蝋が落ち、逆写しの波が伸びる。荷は帆の下の陰で試され、光は落ちず、香は騒がず、客は一人も眩暈を起こさなかった。
◇
昼過ぎ、外洋条約欄を見た港湾管理の書記官が小声で言った。
「条約名に旧名が混ざると、書式の名寄せが面倒だ。」
「面倒は親切だ」と条文ざまぁ係。
「親切は怠け者救済だ」とグレン。
「怠け者救済は港を太らせる」と俺。
書記官が苦笑して、欄外に一行、細く書いた。
「旧名はこれにまとめます、の一文を。」
名前の問題は、港に限らず人に刺さる。刺さったままだと、舫が切れる。切れた舫は怒りと同じ形で流れる。名前は鞘の内側に書くものだ。外側に大書するほど、刃が出る。
◇
夕刻、黒帆の船の船長が、帆桁の影で俺を待っていた。
「おまえの鈴は、潮より静かで、剣より騒がしい。」
「剣を抜かせないための鈴だ。」
「わかる。海では、剣はすぐ錆びる。」
彼は掌に小さな布包みを乗せた。中は細い紐。片端に小さな玉鈴、片端に輪。
「海で使う視線誘導だ。風が通るところに掛ける。おまえの幕の前で鳴らすと、風が二度振り向く。」
「礼は帆印の欄に書いておく。鈴は借りる。」
鈴は音で視線を曲げる。視線が曲がれば、加護が伸びる。加護が伸びれば、無音の一撃が出る。出す必要があるなら、の話だ。
◇
夜にかかるころ、港のはずれで色が濃くなった。リサが息を短くした。
「黒い帆の向こう。小舟。帆も旗もない。水面に薄い油。樽の影。」
「盗水の仲間か。」
「違う。陸の税から逃げた樽。水ではなく、密造の香。」
検疫机の隊長が眉を寄せた。
「密造の香は火のほうが危ない。港の喧嘩の半分は香で起きる。」
「香も順番で鞘に入る」と俺。
帆印の鈴を二つ、間を空けて鳴らす。上を見た視線が戻る前に、俺は帆桁の影から梁へ、梁から岸壁の下へ、影を渡る。見られていない。背中の加護が伸びる。
小舟は樽の上に薄い布をかけ、呼吸するみたいに揺れていた。布の下、細い管が岸壁の隙間に伸びている。管の先に手のひら大の箱。箱の蓋に印がある。見慣れた微細線。
条文ざまぁ係の微細線だ。
「俺じゃないぞ」と、頭の中に彼の声がした気がした。たぶん気のせいだ。
箱の印を読む。線は波になりかけて、途中で切れている。逆写しは港帳に届かない。届かない線は、怒りの線になる。
俺は防水紙の帯を取り出し、蓋の上に薄く貼る。誓約文を短く走らせる。
「ここで止まること。香は風に渡さないこと。」
薄金箔を一撫でする。銀釘は打たない。音を嫌う。
箱の蓋が呼吸をやめ、管が少しだけしぼむ。樽が重さを思い出したように落ち着く。
岸壁の上では、鈴が一度だけ高く鳴り、検疫旗が黄に戻った。
戻ると、条文ざまぁ係が息を吐いた。
「箱の線、どこから拾った。」
「君の過去からかもしれない。」
「俺の過去は線が多い。」
エルマーが短く頷いた。
「港の闇は、線を増やすと静かになる。線があるところに、人は怒鳴りにくい。」
◇
黒帆の船は、外港に泊まった。帆は半分だけ降ろし、鈴は風に少し鳴った。外洋条約欄は港帳に載り、外洋台帳にも逆印が残る。幽霊だった約束は、鞘の中に納まった。
船長は甲板から手を振った。
「約束を帳に載せる者へ。次に来るとき、海の向こうの名前はさらに増えている。帳は太り、鈴は軽く鳴るだろう。」
「鈴は軽いほうがいい。」
「重くなるのは碇で十分だ。」
グレンが舵を離し、帽子を深くかぶる。
「黒帆は商売を変える。港の規格をひとつ増やす必要がある。帆印の鈴の位置を一つ上げる。」
「上げるのは簡単だ。上げる前に記録するのが面倒だ。」
「面倒は親切だろ。」
「親切は怠け者救済だ。」
「怠け者救済は港を太らせる。」
くり返すほど、標語になる。標語は標準の入口だ。入口を増やせば、喧嘩は減る。
◇
夜更け、波の音に混じって、別の色が薄く立った。リサが肩を寄せる。
「王都の内側から、細い線。神殿の蔵。色は白。その輪郭に灰青。……エルマーの色が少し。」
彼は白手袋の縁を抑え、わずかに目を伏せた。
「古い祈りの帳が、欠けたままになっている。昔の祭りの事故の日の。——直視が遅れた記録だ。私の名前が、そこに薄く載る。」
「薄いなら、太くする必要はない。余白を決めて、囲えばいい。」
「囲った余白に、何を書く。」
「半歩戻る印。」
エルマーの口元が、短く、やっとのことで笑った。
「週報に半歩戻る欄を増やそう。君の監督署名の横に。」
「半歩は、戻るための心棒だ。」
◇
見られていない時間が、夜の底でまた少し増える。俺は帆桁の影で、新しい板を取り出した。墨の匂いは潮と仲がいい。
港湾複式検疫票に外洋条約欄。帆印の鈴。碇の鞘返し。舫の結びの絵柄。最初の深呼吸は帆の下で。
最後に小さく、今日の一句を欄外に。
「怒りは変えなくていい、流れだけ変えればいい。」
リサが袖で口元を隠し、笑った。
「名言みたいで、台所のメモみたい。」
「台所のメモは、だいたい世界を救う。」
「じゃあ、明日は買い出しも入れておいて。」
のんびり暮らす予定表の明日の欄に、買い出しと、外洋条約の続きと、神殿蔵の半歩戻る印。細い線を三本。線は道になる。道があれば、歩ける。歩くなら、静かに強く。
——
次話予告:神殿の蔵に残った古い祈りの帳。灰青の跡を囲む半歩戻る印と、港で使った鈴のやり方。蔵の影で無音の一撃、祭りの日付のずれを紙で繕い、外洋条約と内側の祈りを同じ台紙で綴じる。




