愛のない結婚を繰り返そうとする夫に、賛同します
「あなたを娶った理由は、貴族としての務めだったからです。ゆえに、この結婚に愛は求めておりませんし、あなたに妻としての義務を強いることもありません。あなたはただ平穏に生活し、穏やかに人生を終えるまで、この公爵家に滞在してくださればよろしいのです。それまでは公爵家が誠心誠意、お仕え致しますので」
結婚初夜の、寝室。そう言って夫となったばかりのクライドは部屋から出て行った。
(時間が巻き戻っても、同じことの繰り返しなのね……)
国王の私生児として生まれたアリアの人生は、決して良いものではなかった。
離宮で隠すように育てられ、たまに様子を見にくる王妃からは、ストレスのはけ口として暴言や暴力を振るわれてきた。
そんなアリアがクライドと結婚できたのは、父親である国王の見栄によるものだった。
私生児にも幸せを施す、慈悲深い国王。
そんなイメージ作りのために利用されたのが、クライドであり、アリアだった。
それでもアリアは、やっと自分が何者かになれたような気分だった。
彼からは「何もするな」と言われたが、少しでも公爵家のためになりたくて、夫に認められたくて。自ら公爵夫人としての務めを果たすようになる。
しかしアリアがいくら頑張ろうとも、公爵家の使用人たちには鬱陶しく思われ、夫も認めてはくれない。
次第にアリアの行動は過剰になり、公爵家の足を引っ張るようになってしまう。
公爵家の財政は緩やかに傾いてゆき、貴族たちも公爵家から距離を置くようになった。
領地を維持するには税金を上げるしかなくなったクライドは、領民の反感を買い、アリアとクライドは領民によって処刑されてしまった。
(この未来だけは変えなければいけないわ)
公爵家を振り回し続けたアリアを、最後まで見捨てなかったのはクライドだ。彼は初夜での約束をずっと守り続け、最後は「妻だけは見逃してくれ」と領民に懇願しながら死んだ。
(私さえおとなしくしていれば、きっと大丈夫よね)
全てはアリアが招いた結果。初めから夫の言いつけを守っていれば、穏やかな人生が待っていたというのに。
(今度こそ、絶対に何もしないわ)
「奥様。よろしければ本日は、邸宅の使用人を紹介させてくださいませ。そのあと、邸宅をご案内いたします」
翌日。執事長が挨拶に来た際、そのような提案を受けた。彼はアリアを認めてくれなかった者の一人だ。
王女であるアリアに対して礼儀はわきまえているが、いつも淡々とアリアに対する義務を果たすだけ。
アリアが公爵夫人として何かしようとしても、いつも「私どもがおこないますので、奥様はご自由にお過ごしください」と仕事を取り上げるような人だった。
今も礼儀と義務として接しているだけ。使用人を紹介したところで、アリアに主導権を握らせるつもりなど、さらさら無いはずだ。
(何もしないと決めたし、必要ないわよね)
使用人の顔と名前は把握しているし、邸宅内も熟知している。静かに暮らすだけなら使用人と関わらなくても不便はない。
「結構よ。私は部屋で読書でもしているわ」
なにごともない日々が続いたある日。執事長は困り果てた顔でクライドの執務室を訪れていた。
「旦那様……。奥様はかれこれ一か月も、お部屋に籠って読書をなさっていますが……」
心配そうな執事長を見て、クライドはため息をついた。
彼女に公爵夫人としての義務を強いるつもりはないと伝えたが、何もするなという意味ではなかった。
彼女の境遇は知っている。だからこそ、これからは自由に生きてほしいと願っている。
しかしこれでは、離宮に幽閉されていたころと変わらない。
「彼女に当てた予算を見せてやれ。自由に使える資金があるとわかれば、それなりに楽しむだろう」
「奥様、少しよろしいでしょうか」
執事長が珍しく尋ねてきたので、アリアは読書していた顔を上げて首をかしげた。
「どうしたの?」
「こちらは、奥様の生活費でございます。毎月、同じ額をご用意させていただく予定でございます」
「そうなの。ありがとう」
アリアはお礼を言うと、すぐに読書へと戻ろうとした。しかし、執事長にしては珍しく、食い下がるように言葉を続ける。
「その……。必要なものを買い揃えてはいかがでしょうか」
「生活用品は公爵様がひと通り揃えてくださいましたので、特に必要なものはないわ」
「では、仕立屋をお呼びいたしましょうか」
「どこにも出かけないのに、ドレスはこれ以上必要ないけれど」
「でしたら宝石商を……」
「アクセサリーをつけて読書をしたら、肩が凝るじゃない」
もっともな理由を並べ立ててみると、執事長は「奥様……」と困ったように眉尻を落とす。
(公爵様に、予算を使わせろと言われたのね)
時間が巻き戻る前は、社交界を牛耳るためにこの予算だけでは足りなくて、これでもかというほどお金を使ってしまった。
流行を自ら作るための、ドレスや宝石。公爵夫人としての立場を誇示するための、豪華なお茶会や夜会。
あまりに派手な買い物をしていたために、国中の商団がアリアに珍しい品物を見せようと、公爵家に列をなしたほどだ。
今にして思えば、あれほど無駄なお金の使い方はなかった。貴族たちの注目を浴びたからといって、なんだというのだ。結局アリアには、なにも残らなかった。
「公爵様に伝えてちょうだい。書庫の本を読みつくしたら、新しい本を買います。と」
「……だそうです。旦那様、このままでは奥様はご病気になってしまわれますよ」
執務室で報告を受けたクライドは、さらに大きなため息をついた。
虐げられて生きてきた者が自由を得れば、してみたいことは山のようにあると考えていた。
それなのにアリアにはもう、欲は残っていないのか。
「だが本人にやる気がないんだ。どうすれば……」
「旦那様がお誘いしたら良いのです。まさか一生、奥様に関わらないおつもりではございませんよね?」
「そんなつもりでは……。俺はただ、貴族の煩わしい義務など気にせずに、自由に生きてほしいだけだ……」
「自由を得たからといって、孤独からも解放されるわけではございませんよ。旦那様は、王女殿下を救って差し上げたかったのですよね」
「救うだなんて、大それたことではない……」
アリアのことは、これまでに何度も目にしていた。離宮の前を通るたびに窓から外を眺めていた少女。その表情はいつも虚ろで、空を飛べなくなった鳥かごの中の鳥のようだった。
国王がアリアの嫁ぎ先を探していると耳にして、クライドは自ら名乗り出た。
彼女を救いたいという、強い意志があったわけではない。ただ、鳥かごの扉を開けるだけのつもりだった。それさえできれば、鳥は喜んで羽ばたくだろうと。
けれど結局この結婚は、鳥かごを大きなものに変えただけに過ぎなかったのか。
アリアが部屋で読書を楽しんでいると、メイドが弾んだ様子で部屋へと入ってきた。
「奥様! 旦那様がお茶に誘ってくださいましたよ」
(今、いいところなのに……)
読書を邪魔されたアリアは、若干むすっとした顔を上げる。
「丁重にお断りしてくださる?」
「そんな。せっかくのお誘いですのに……」
「公爵様は私に、妻としての義務は求めないとおっしゃったわ」
先に宣言したのはそちらだ。それに下手に関わると、また公爵家を不幸に陥れてしまうかもしれない。何もしないのが最善策に決まっている。
「なぜだ……」
執事長の報告を聞いたクライドは、頭痛でもしているかのように額に手を当てながらうなだれた。
「奥様は、読書がお好きなようで……」
「……俺より読書を取る女性には、初めて出会ったな」
クライドといえば、国で一番の美丈夫だ。
本人にそこまでの自覚はないが、女性というものは、話しかければ花が咲くように微笑む生き物だと思っている。
そんな可憐な女性の一人であるはずのアリアは、花が咲くどころか蕾ですらない。
女性にこのような寒々しい対応を取られたのは、彼の人生で初めてのことだった。前の彼女は、こんな感じではなかったはずなのに。
「夫人は何を読んでいるんだ?」
「傭兵ロイの冒険シリーズです」
「夫人がまだ読んでいない巻を、すべて回収してこい」
本を読み終えたアリアが書庫へ向かうと、読んでいたシリーズが格納されていたはずの本棚が、ごっそりと空いていることに気がついた。
「あら? 続きがすべて借りられているわ」
これは三十巻を越える大長編の冒険小説。一冊を読むのに三日はかかるような分厚い本を、大量に借りていくなんて。速読ができる者でもいるのだろうか。
そこへ、書庫に執事長がやってきた。
「奥様。旦那様からのお手紙でごさいます」
「手紙……?」
用事があるなら、この執事長に言づけすれば良いものを。人に言えないことでも書いてあるのかと手紙を開いたアリアは、ぐしゃりと手紙を握りしめた。
『続きをお求めでしたら、庭園までお越しください』
仕方なく、お茶会に相応しい身支度を整えてから庭園へ向かうと、東屋にクライドが待ち構えていた。
勝ち誇ったような笑みが憎たらしいくらいに、麗しい。
この美麗な夫を狙う女性は多い。以前はそのような女性たちを夫から遠ざけるためにも奔走していたが、このようなあくどい性格の持ち主だったとは。
夫を取られまいと必死だった過去の自分を、アリアは哀れに感じた。
「招待に応じてくださり、感謝します」
椅子を引いた夫に勧められて席についたアリアは、夫の席に置いてある続きの本を恨めしそうに見つめる。
「脅迫の間違いでは?」
「脅迫だなんて。俺は公爵家の伝統を遂行しているだけです」
「公爵家の伝統……ですか?」
「はい。公爵家では週に一度、夫婦でお茶会をおこなう伝統があります。夫人も読書を堪能されるほど公爵家に馴染んだご様子ですし、そろそろ遂行する時期かと思いまして」
にこりと微笑む夫を、アリアは不審者を見るような目で見つめた。
(そんな伝統なんて、今まで聞いたことがなかったわ)
「閣下は私に、妻としての義務は求めないとおっしゃいましたわ」
「そうですね。ですが『伝統』はお守りいただきたい」
貴族は伝統を重んじる。過去のアリアは無知であったためにそれらの伝統を知らず、恥を掻いたことは何度もあった。
アリアが恥をかけば、また公爵家が嘲笑われる。こればかりは受け入れるしかないようだ。
「……わかりました。伝統は守ります」
「良かった。夫人とはうまくやっていけそうだ」
夫は、伝統があると知らせるために、わざわざこのような小細工までしたようだ。
少しお茶を飲むくらいはたいしたことではない。アリアはぐびっとお茶を飲み干すと「では――」と本を受け取るために手を差し出した。
しかし夫は、本をアリアの手の届かない所へと追いやる。
「そう急がずに。お茶を楽しんだあとに庭園を散歩し、夫人を部屋まで送り届けるまでがお茶会です。本は重いですから、俺が持ちますよ」
(餌は最後に渡すってこと? やっぱりあくどい……)
アリアが不満たっぷりの表情を浮かべると、公爵はくすりと楽しそうな笑みを浮かべる。
「退屈はさせません。こちらのお菓子をどうぞ。主人公が初めてギルドの依頼を受けた際に、依頼人の家で食べたクランベリーパイです」
「本当にこちらが……?」
「食べて確かめてみてください」
半信半疑ながらも勧められるままに、パイを口へと運んだアリアは、瞳を大きく輝かせた。
「わあ。描写のとおりに甘酸っぱくてサクサクしています」
そんな彼女を目にしたクライドも内心、驚きながら彼女を見つめる。
彼女が自由を謳歌する姿を、想像したことはあるけれど。これほど魅力的に瞳を輝かせるとは、想像以上だった。
それから週に一度、お茶会を開くたびに彼は、本に出てくる体験をさせてはアリアを喜ばせた。
次第にお茶会以外でも会う約束をするようになり、本に登場した場所へ二人で一緒に行ってみたりもした。
「公爵様はこの本にとても詳しいのですね」
「そちらは俺の本ですからね」
「そうでしたの」
「俺が幼い頃に、母がプレゼントしてくれたんです。勉強は大切だが、息抜きも必要だと」
彼の母は、クライドが勉強ばかりしないようあえて、この国を舞台にした本を選び、現地へ赴く楽しみを与えたのだとか。
それを聞いたアリアは、ずきりと心が痛む。一度目の人生で、クライドの母が亡くなった原因はアリアだから。
アリアが愚行を繰り返したばかりにクライドの母は心労で倒れたのだと、社交界で噂されるほどだった。
そんなことをしてしまったアリアには、この本を楽しむ権利などない。
「……公爵様。さまざまな体験をさせてくださりありがとうございました。これ以上はもう大丈夫ですので……。これからは、一人で楽しみを見つけて生きていきます」
「急にどうしたのですか。なにか気に入りませんでしたか?」
「そうでは……。夫婦として生活するつもりがなかった公爵様のお時間を、随分と奪ってしまっていますので……」
なぜクライドがこのような行動をしているのかについては、何となく気がついている。彼はアリアに、外へ出て何かを楽しんでほしいのだ。
平穏に、楽しい趣味を見つけて。悠々自適な客人生活を送ることを彼は願っている。
だからこそ彼は一度目の人生で、アリアのすることに口出しはしなかったが、公爵夫人として認めてはくれなかったのだろう。
クライドは大きくため息をつく。
「それについては謝罪します。決して妻としてのあなたを否定していたわけではありません。政略結婚である俺など気にせず、人生を謳歌してほしかったのです。けれど、あなたは違いました。公爵家の一員であろうとし続け、誰の協力も得られないまま俺たちを求め続けていました。それなのに、また同じ過ちを繰り返すところでした。もっと早くにこうして交流すべきだったのです」
(え……。それって、一度目の人生の私……)
てっきりアリアは、自分だけが記憶を維持したまま過去へと巻き戻ったのかと思っていたが。
「公爵様も覚えているのですか……?」
「やはりあなたもそうでしたか」
同士に会えたように笑みを浮かべるクライドがわからない。なぜ未来を知りつつ、アリアに優しくできるのか。
「私は公爵家を壊して、お義母様を死に追いやり、あなたまでひどい死に方をさせてしまったのですよ。憎くないのですか……?」
「全ては選択を間違った俺のせいです。それに母はもとから身体が弱かったのであなたのせいではありません」
確かに公爵家がアリアを公爵夫人として受け入れていれば、あそこまでの愚行はしなかったかもしれない。
けれど、客人としてしか受け入れるつもりがなかった相手をなぜ、これほど庇えるのか。
「どうして、そこまでして、私の自由を願うのですか……」
「どうしてでしょう……。今にして思えば、遠くから見つめることしかできないお姫様に恋をしていたのかもしれません」
それからクライドはぽつぽつと思い出を語り出した。
いつも窓から景色を眺めているアリアのことが、気になっていたこと。
次第にアリアに会いたいがために、わざとあの道を通るようにしていたこと。
結婚に際して、クライドが立候補していたことなど、アリアは知りもしていなかった。
父のイメージアップのために、クライドが利用されたわけではなかった。
望まれての結婚だったのだ。
「…………これはあなたが始めた物語ですよ。ちゃんとヒロインをハッピーエンドまで導いてください」
「仰せのままに俺のお姫様。次はどのような展開をお望みですか?」
アリアが一度目の人生で望んだものは、公爵夫人としての立場、王妃に虐められないだけの権力、私生児だと馬鹿にする貴族に対抗できるだけの贅沢な暮らし。
けれどそれらは、アリアの幸せのためには必要ないものばかりだった。
「ハラハラドキドキの展開は、この本だけで十分。子どもを産んで、家族関係が良好ならそれで満足です。――けれど、絵に描いた平凡な幸せこそ、叶えるのが大変なのよね」
今にして思うと、以前の行動は実に滑稽だ。誰にも後ろ指を指されないような幸せを得るために、あれだけの騒ぎを起こしたのだから。
本当はもっと簡単なことで、夫婦の意思疎通が足りなかっただけなのだ。
その意思疎通を拒否してきた夫にはやはり、責任は取ってもらいたいが。
「今度こそ叶えてみせます。次こそはあなたに、幸せな人生だったと思ってもらいたいので」
「やっと私の恋も報われるのね」
かつて離宮の窓から、クライドが通るのを心待ちにしていた日々を思い出しながら、アリアは微笑む。
「はい? 恋をしていたのは俺のほうですよ」
「死ぬまで気づかなかったなんて、鈍感すぎませんか。私があれだけ必死に愚行に走っていたのは、あなたと幸せになりたかったからです。ただの政略結婚相手にそこまで必死にならないでしょう」
「っ…………!」
アリアの気持ちが予想外だったのか、クライドは真っ赤に顔を染める。
女性からの好意を当然のように思っているこの国一番の美丈夫とは思えない、この動揺っぷり。これまでの余裕たっぷりのイメージが台無しだ。
アリアはこれまでの夫に対して、一矢報いた気分になるのだった。
お読みくださりありがとうございました!