第二話
月曜の朝。
宏之はいつも通り制服に袖を通し、トーストをかじりながら玄関を出た。
駅へ向かう道も、乗った電車も、見慣れた景色ばかり――の、はずだった。
だが。
「……え?」
車窓に映った外の景色。
いつも通っているはずの河川敷が、なぜか反転したように逆向きに流れていた。
宏之は一瞬、目をこすって二度見した。
次の瞬間には、川は元通りになっていた。
「……気のせい、か……?」
そう呟いた声が、自分でも少し震えているのに気づく。
学校に着き、教室の扉を開けると、普段通りのにぎやかな空気。
小田切がバカ笑いをしながらスマホを振り回し、江口がそれを冷めた目で見ている。
安心したような気持ちになりかけたそのとき――
「……宏之くん、おはよう」
後ろから、静かに結菜の声が届いた。
彼女の瞳は、朝から冴え渡っていた。
「なにか……変だったでしょ、今朝」
宏之は答えずとも、結菜にはもう伝わっているようだった。
「私は、夢を見た。正確には、“夢の続きを見せられてた”ような感じ。あの劇場、まだ残ってる。扉も、閉じてなかった」
「……俺も、変なもん見た。電車の外、景色が逆流してた」
そんな会話を交わしている間も、教室ではにぎやかな声が続いている。
だけど、宏之にはわかった。何かがズレている。
たとえば――
教室の前の掲示板に貼られている「今週の予定表」が、一日ずれている。
昨日見たときは「英語・数学・現代文」だったはずの今日の時間割が、「理科・体育・芸術」になっていた。
それを指摘しようとしても、誰も気づいていない。
いや、それだけじゃない。
昼休み。廊下の窓の向こう、校庭の隅にまた“仮面の影”が一瞬だけ立っていた。
「結菜……見えたか?」
「……うん。見えた」
二人は視線を交わす。
言葉にせずとも、理解し合っていた。
――この“世界”は、もう静かにはしていない。
翌朝、教室の空気は少しだけおかしかった。
みんな普段通りに喋り、笑い、スマホをいじっている。
でも、空気の“中心”が不自然に空いている。
宏之は気づいた。クラスの一人――三浦翔平の席が、ぽっかりと空いていた。
「おかしいな、昨日は来てたよな?」
後ろの席から聞こえた声に、宏之は反射的に振り返る。
「誰が?」
「……え?」
質問に答えた男子が、一瞬きょとんとした顔をして、首をかしげた。
「……えっと、誰だっけ?……変だな、名前が出てこない……」
その曖昧な反応に、背筋がぞわっとする。
その時だった。
ホームルームの時間になっても担任の田村が現れず、代わりに教室に入ってきたのは、見慣れた副担任の横山先生だった。
しかし、どこか様子がおかしい。
表情は硬直し、目はうつろ。
手には連絡帳を持っているが、立ち尽くしたまま動かない。
そして、次の瞬間――。
「この教室には、“不純物”がいる」
その声が、空気を凍らせた。
クラス中が一斉に彼を見た。
けれど、横山先生はその視線を受けてもなお、ただ“正面”を見つめていた。
「……“扉”を開いた者が、ここにいる」
その声は、横山先生のものではなかった。
宏之は理解した。
(……“仮面の者”が……入り込んでる……!)
彼の視線はまっすぐ、宏之と結菜の方を向いていた。
結菜が小さく息を呑んだ。
「まさか……現実に、“取り憑いた”の?」
「……そんなこと、今までなかった……!」
クラスの生徒たちはざわざわし始めるが、それが恐怖からなのか、ただの違和感からなのか、誰も口に出せない。
そのとき――。
教室のドアがガタリと開いた。
そこに立っていたのは、制服姿の三浦翔平だった。
だが、その目は焦点が合っておらず、口元はわずかに開き、まるで夢遊病者のように、ゆっくりと歩いていた。
「み……うら……?」
誰かが呟いたが、彼は返事をしない。
教室の中央まで来ると、ふらりと立ち止まり、そして無言のまま、天井を見上げた。
瞬間、照明が明滅し、教室の空気が歪んだ。
窓ガラスが震え、黒板に残されていたチョークの文字が、ぐにゃりと捻じれたように崩れていく。
「結菜!」
「わかってる!」
二人は同時に席を立ち、教室の外へ出ようと動いた。
その瞬間、横山先生の身体が“ひくり”と跳ねて、仮面のような白さに顔色が変わる。
「逃がさない。君たちは、もう“外側”に触れた」
その声に、クラス中がざわめいた。
「なに……!? 今の……誰の声……?」
「先生……どうしたの、顔が……顔が……!」
生徒たちも徐々に異変に気づき始めている。
だが、今は――宏之と結菜だけが、真実に踏み込める者たちだった。
教室の空気が、明らかに異常だった。
照明は明滅を繰り返し、窓の外の景色が“真上”に流れている。
黒板の文字は崩れ落ち、机の脚が音もなく床から浮かび上がる。
三浦翔平は相変わらず天井を見上げたまま、まるで人形のように立ち尽くしている。
そして――横山先生の口元が、異様に裂ける。
「感情は、鍵だ。君の“恐れ”が門を開く」
その言葉に反応するように、隣にいた結菜の瞳が震えた。
「やめて……来ないで……っ!」
震える声が、教室中に響いた。
その瞬間、教室の壁が――バリッと音を立てて裂ける。
床がひっくり返り、天井が沈み、机や椅子がぐにゃりと溶けていく。
宏之は、とっさに結菜の手を握った。
「……ジャンプが、発動してる!? 結菜、制御できないのか――!」
「わからない……止まらない……っ!」
生徒たちの叫び声が、遠ざかっていく。
景色がゆがみ、色彩が反転し、重力が宙ぶらりんになる。
そして――。
現実が、裏返った。
目を開けたとき、宏之と結菜は劇場の舞台の上に立っていた。
だが、観客席には誰もいない。
代わりに、壁や天井に張りついた“目”のようなものが、じっとふたりを見つめていた。
「ここは……」
「私の、“夢の最後”に出てきた場所……」
結菜が震える声で呟いた。
真っ白な床。真っ黒なカーテン。中央にぽつんと置かれた、壊れかけたピアノ。
そして――舞台袖の暗がりに、“それ”はいた。
全身を黒布で覆い、白い仮面をつけた存在。
だが、以前の“観測者”とは違う。
この存在からは、明確な敵意がにじみ出ていた。
仮面の隙間から、かすれた声が漏れる。
「恐れは音となり、音はかたちとなる。見よ、“記憶の叫び”が現実を染めるさまを」
その言葉とともに、舞台の床から“影”がうごめき始めた。
それは形を持たない黒い獣。
目も口もないが、咆哮のような音を発しながら、舞台を這い回る。
「来るぞ、結菜! 下がれ!」
「私のせいで……ごめん、私、制御できなくて……!」
「いいから、今は戦うしかない!」
宏之はポケットから取り出したのは、小さなペンダント――それは、以前ジャンプしたときから、なぜか手元に残った“ノクスの結晶”。
それが淡く光を放つと、彼の手に半透明の“剣のようなもの”が具現化した。
「……戦える?」
「わかんないけど、やるしかねえ!」
黒い獣が飛びかかる。
宏之は結菜の前に立ち、剣を構えて、真正面から迎え撃った。
ぶつかった瞬間、空間が光に包まれ、世界が再び“回転”を始めた――
黒い獣が舞台を這う。
その姿は曖昧で、形を持たず、ただ“怒り”と“苦痛”の感情を撒き散らしていた。
牙もないのに、噛みつかれるような恐怖。目もないのに、全身を射抜かれるような圧。
宏之は剣を構え、結菜は無意識に両手を胸元で組むような姿勢を取っていた。
「来るぞ……っ!」
獣が飛びかかる。
宏之は思い切って横から切り払う――剣は確かに手応えを感じ、黒い影の一部を切り裂いた。
けれど。
「……再生してる!?」
切り落としたはずの影が、ぬるりと地に吸い込まれ、すぐに元の姿に戻っていく。
それはまるで、“何度でも蘇る憎悪”そのものだった。
「このままじゃ……!」
「っ……!」
そのとき、結菜の周囲の空気が変わった。
風が巻き、地面が震え、彼女の足元から淡い光が広がっていく。
「やめて……もう……来ないで……っ!」
叫びとともに、その光は爆発した。
光は黒い影を吹き飛ばし、劇場の観客席を“消し飛ばす”ほどの威力を持っていた。
だが。
「やばい、結菜……!」
その力は制御されていない。
彼女の瞳は焦点を失い、髪が風に逆なでられるように宙を揺れる。
「もう誰も……誰も入ってこないで……! 私の場所を、壊さないで……!」
力が暴走していく。
宏之は歯を食いしばり、彼女の腕を強く掴んだ。
「結菜ッ! 戻ってこい!」
彼女の視線が揺れた。
「俺はここにいる! もう一人じゃないって、言ったろ! ここはお前の“檻”じゃない、“舞台”だ!」
――その言葉に。
彼女の力は、ふっと静かに、霧のように収束していった。
黒い獣が、ひとつ、咆哮する。
その声は、もはや怒りではなく、“誰かの涙”のように響いていた。
そのとき――劇場の天井が割れるようにして、“観測者”が降り立った。
黒い外套。白い仮面。
彼は獣の前に立ち、低く告げた。
「これは、“三浦翔平の断片”だ。言葉にできなかった孤独、抑圧された焦燥。誰にも知られたくない記憶の澱が、影として現れた」
「……あれが、三浦……の……」
「否。“彼の一部”だ。今、この空間に具現しているのは、彼の記憶が持つ“形”。それを“見た者”には、影が触れる。記憶は記憶を呼ぶ。そして、破壊する」
観測者はゆっくりと宏之を見た。
「この世界では、“感情こそが力”だ。君たちが恐れるほど、叫ぶほど、世界は形を変えていく」
そして、仮面の奥で、微かに“笑ったような気配”を見せる。
「だが、今日の幕は閉じよう。見届ける者がいる限り、舞台はまだ続く」
観測者の手が空を払うと、空間が崩れ始めた。
劇場が消え、光が収束し――
――教室に戻った。
気がつけば、宏之は自分の席に座っていた。
だが、教室は“完全な静寂”に包まれていた。
誰も話さない。誰も動かない。
生徒たちは全員、その場で静止している。
まるで、“記憶の中の人形”のように。
「……おい、嘘だろ……」
教卓の前、横山先生は白目を剥き、口を半開きにしたまま、微動だにしない。
その横に立っていた三浦もまた、身体だけがそこにある“抜け殻”のようだった。
結菜が震えた声で囁く。
「……彼らは、“触れすぎた”んだ」
そして――。
教室の黒板の端。
先ほどまで何もなかったはずの空間に、小さな“赤い手形”がひとつ、残されていた。
放課後、屋上に上った宏之と結菜は、無言で風を感じていた。
「……あれが、私の中にあったものだった」
結菜の声は、乾いた空の下で小さく響いた。
「でも、宏之くんがいてくれて……止まってくれた。ありがとう」
「俺も……あのままだったら、自分の影に呑まれてた。だから、これからも……一緒に乗り越えていこう。俺たち、ジャンプできるんだろ? 二人なら、きっと行ける」
結菜はふっと笑い、小さく頷いた。
「……うん。ありがとう。“ひとり”じゃないって、今は信じられる」
シア=ノクスと現実の境界は、すでに崩れかけている。
だが、その境界線の上に立っているのは――彼ら、ふたりだけだった。
朝の光が教室に差し込む。
黒板には今日の日直の名前が、見慣れた文字で書かれていた。
「はいはーい、ホームルーム始めるぞー」
いつものように教壇に立つ田村先生。
その横には、副担任の横山先生も、涼しい顔で立っている。
何もなかったかのように。
(……嘘だろ)
宏之は、心の奥がざわつくのを感じていた。
あの日の出来事。仮面の声、三浦の空っぽの目、あの劇場、暴走――すべて“夢だった”ように扱われている。
三浦翔平は何事もなかったように登校し、スマホをいじりながらクラスメイトと笑っている。
けれど宏之にはわかる。
彼の“何か”は、あの夜で確かに一度“壊れた”。
「……宏之くん、元気ないね。昨日の部活サボったろ?」
小田切翔太が声をかけてくる。
「あー、寝てた。悪い」
「いや別に怒ってないけど。お前、最近ずっとぼーっとしてんじゃん? なんかあった?」
「……いや、何も」
とっさに答えたその瞬間、宏之は気づいた。
翔太の声が、少しだけ“遅れて”聞こえている。
まるで、現実の音と映像が、ほんのわずかに“ずれて”いるかのような感覚。
そのズレは数秒後には消えるが――確かに、感じた。
(ノクスの影……まだ、ここに残ってる)
昼休み。
屋上ではなく、今日は教室の隅でパンをかじる。
「鈴木くん」
声をかけてきたのは、高瀬結菜だった。
トレーにミルクとサンドイッチ。どこか控えめなその昼食も、彼女らしい。
「今日の空、ちょっと変じゃなかった?」
宏之は答える前に窓の外を見た。
青空――のはずだった。けれど、雲のひとつが逆に流れている。
「……見えてるな」
「うん。今のところ“まだ”誰も気づいてないけど……。ノクスが、確実に“こちら側”へ浸透してきてる。私たちが扉を開いたから」
その言葉に、宏之の喉が乾いた。
「それって、俺たちのせいってことか?」
「……“願った”のは、私かもしれない」
「え?」
結菜はうつむいた。
「小さい頃からずっと、どこか“今じゃないどこか”を求めてた。現実が怖くて、でも、夢の中なら、逃げてもいいって思ってた」
沈黙が流れる。
「もしかしたら、その“願い”が、ノクスを招いたのかも。……私が、きっかけだったらって、最近思うの」
「それでも、ひとりじゃないだろ」
宏之は、彼女の手に手を重ねた。
「俺たちはもう、“開いた扉の向こう”を見た。だからこそ、閉じる方法も探せるはずだ」
「……ありがとう」
結菜は小さく笑った。
けれど、その笑みの奥には、まだ“何か”が潜んでいるように思えた。
午後の現代文の授業。
田村先生の声が、教室にゆっくりと響く。
「“夢”とは、現実の裏側にある意識の海だと、心理学では言われています……」
その一文が、妙に現実味を帯びて胸に響いた。
宏之は、ふと気づく。
教室の時計が、ほんの少しだけ“遅れて”いる。
そのズレは数分で修正されたように見える。
でも、昨日も同じことがあった。誰も気づいていない。
だけど確実に、“何かがこの世界に忍び込んでいる”。
現実の中に混じる“ノクスの法則”。
空気、音、時間、感情――そのどれもが、ほんの少しだけ、今までの現実と違ってきている。
放課後。廊下には足音が響く。
帰り支度をする生徒たちの中に混じって、宏之と結菜はそっと昇降口へと向かう。
「今日も何も起こらなかったけど……逆にそれが怖い」
「……うん。静かすぎる」
二人は、誰もいない昇降口で立ち止まる。
そして、掲示板に貼られたポスターの端が、風もないのにふわりと揺れた。
ポスターの裏側に、赤い手形がひとつ、滲むように浮かび上がっていた。
その朝は、ひどく静かだった。
校門をくぐった瞬間、宏之の背中に冷たい風が吹いたような気がした。
教室に入ると、見慣れない男子が窓際の席に座っていた。
「あれ……誰?」
翔太が首をかしげる。
「転校生。今日からこっち来たらしいよ。名前……」
「時任蒼真くんだって。」
と、女子が一人答えた。
宏之は、その名前に奇妙な引っかかりを覚えた。
“どこかで聞いた気がする”。でも、思い出せない。
時任は淡々とした様子で自己紹介を終えた。
落ち着いた口調。整った容姿。感情を表に出さないタイプ。
けれど宏之は、彼が一瞬だけ“誰もいない窓の外”を見たその表情に、ぞっとした。
(……あれは、見えてる。ノクスを)
その確信は、昼休みには決定的なものとなった。
屋上で一人、結菜とパンをかじっていたとき――
誰にも見つからないはずの場所に、時任蒼真が現れた。
「お前らも、“向こう側”に行ったことがあるんだろ?」
宏之と結菜が同時に息を呑む。
「俺は……もう何度も見てる。夢じゃない。“記憶の中に閉じ込められた人たち”の世界」
放課後。
時任は二人を学校の外れにある旧校舎へと案内した。
そこは使われていないはずなのに、床には誰かの足跡があった。
「ノクスと現実の“接点”は、場所に残るんだ。ここが、俺の“はじまり”だった」
そして、時任は語る。
ノクスには、“記憶の檻”と呼ばれる空間が存在する。
それは、人が抱えていた強い感情――後悔や怒り、執着や願い――が閉じ込められ、他者からは見えない“記憶の牢”として漂っている領域。
「三浦の影も、そこからにじみ出てたはずだ」
結菜が震える声で言った。
「……私の中にも、“閉じ込めたもの”がある。ずっと、自分でも見ないようにしてた……。でも、それがもし“ノクスに存在してる”ってことなら……」
宏之が問いかける。
「……お前の“願い”、って、なんなんだ?」
結菜は、一瞬、言葉を探すように口を閉ざした。
そして、静かに語り出す。
「私は……誰にも“見つけられない”場所がほしかったの。
誰にも見られず、誰にも気づかれず、ただ眠っていられる場所。……そんな世界が、もしあるなら、そこに行きたかった」
その言葉は、どこかで聞いたことがあるような気がした。
そうだ、“観測者”の言葉。
「願いが、扉を開く」と。
「もしかして……結菜の願いが、“シア=ノクス”を呼んだ?」
時任は頷く。
「シア=ノクスの“核”は、記憶と願いの集合体だ。そこに共鳴した意志が強ければ強いほど、その人物は“適応者”になる。君たちは……呼ばれたんじゃない。“作った”んだ。世界の片割れを」
結菜は、自分の手を見つめた。
その掌が、かすかに震えていた。
「……だったら、責任取らなきゃいけないのかな。私のせいで、三浦くんが……あんなことに」
宏之は、そっと彼女の肩に手を置いた。
「じゃあ一緒に、取り戻そう。“あっち”に閉じ込められたままのものも、現実に引き戻す方法を探そう」
放課後の校舎裏。
使われていない体育倉庫のシャッター前に、三人は立っていた。
「ここが……座標?」
蒼真が頷いた。
彼が指差す地面には、黒い蝶の形をした痕跡が残されていた。
「この“影蝶”は、記憶の檻が開きかけている兆候。この地点に集中してるってことは、向こう側に“誰かの深層”が漏れてきてる」
宏之と結菜は頷き合い、手を取り合うようにして意識を集中させた。
――ジャンプ、発動。
重力が抜け、世界が反転する。
舞い降りたのは、灰色の教室だった。
机も椅子も、壁の掲示物も、すべてがモノクロ。
唯一、教室の中央にだけ、赤いランドセルを背負った少女がぽつんと座っていた。
「……ここは……」
「記憶の檻」――感情に支配された記憶の深層領域。
この世界のルールは、“記憶の主の認識”がすべてだ。
結菜が、少女の前に歩み寄る。
「……こんにちは」
少女は、顔を上げない。
「どうして、ここにひとりでいるの?」
沈黙。けれど、その周囲に漂う空気が、かすかに色づいた。
「……だって、いなくなっちゃうんだもん。お母さんも、お父さんも。急に、いなくなっちゃう。だったら、最初から、いなければいいんだよ」
その瞬間、空が赤く染まり、教室の壁がぐにゃりと崩れ始めた。
「くるぞ!」
蒼真の声と同時に、壁の隙間から巨大な“影”が現れた。
それは、家族の形を模した異形の集合体――頭のない父親、腕だけの母親、目のない兄妹。
「これは……この子の“喪失”が具現化してる!」
影の群れが、赤い目を光らせてこちらへ迫る。
「蒼真、あいつらの弱点は?」
「“言葉”だ。記憶の檻に閉じ込められた存在は、“否定”じゃなく“肯定”で揺らぐ。つまり、彼女が願っていたものを呼び戻すんだ!」
宏之が叫ぶ。
「君は、本当は家族が――いなくなってほしいなんて、思ってなかったはずだ!」
その声に応じて、少女の周囲に光が差し込む。
結菜がそっと手を差し出す。
「君は、寂しかったんだよね。だから、“覚えていたかった”んだよね。みんながいたってこと」
その瞬間、少女がぽつりと呟いた。
「……うん……忘れたく、なかっただけ……」
空が青く戻る。
影が崩れる。
そして、記憶の檻が――開いた。
三人が目を開けると、もう倉庫の前だった。
風が、心地よく吹いた。
そして――
数日後、校内に変化が現れる。
長らく不登校だった生徒が、久しぶりに教室へ来た。
家庭内で問題を抱えていた友人が、笑って話せるようになった。
「……この場所に、何かいいことが起きた気がする」
それは、誰の口からも語られない“変化”だった。
けれど、確かに世界が、少しだけ優しくなっている。
夕暮れの屋上で、三人は並んでいた。
「……なあ、もしかして俺たちの力って」
「使い方次第で、救えるんだな」
結菜が、風に髪を揺らしながら微笑む。
「……ありがとう。ふたりがいたから、私、ここにいられる」
蒼真も、口元だけで笑う。
「これは始まりだ。“記憶の檻”は、無数にある。でも俺たちなら、届くかもしれない。もっと深く、もっと遠くへ」
ノクスは、まだ危険な世界だ。
だが今――ジャンパーたちは初めて、「その力で人を救える」と信じた。
そして彼らの旅は、次なる“記憶”へと続いていく――。
その“兆し”は、またしても学校の片隅で始まった。
昼休み。結菜が静かにノートをめくる中、宏之は何気なく窓の外を眺めていた。
ふと、渡り廊下の向こう――旧図書館の前に、ひとりの女子生徒が立ち尽くしているのが見えた。
「……あれ、相沢さんだよな。2年D組の」
蒼真がその後ろから現れて言う。
「先週、SNSで誹謗中傷されてたらしい。“笑われたら、学校行けない”って言ってたって」
結菜が顔を上げる。
「じゃあ、あの場所――」
「たぶん、新しい記憶の檻ができかけてる」
ジャンプを発動し、三人はノクスの中に潜る。
舞い降りたのは、大勢の“目”だけが浮かぶ廊下だった。
無数の瞳が、中央の少女(相沢)を指さしている。
その姿は縮こまり、影の中に隠れている。
「……やめて……笑わないで……見ないで……」
その声が波紋のように空間を歪ませ、“笑い声”が形を持って襲いかかってくる。
「見せ物じゃないッ!」
宏之が前に立ち、剣を振るう。
結菜と蒼真が声を重ねる。
「あなたを笑う人なんて、もうここにはいない」
「ここはもう、記憶の外だ。君が、ここから出ていいって思えば――扉は開く!」
少女が、そっと顔を上げた。
「……本当は、ただ……普通に、友達がほしかっただけ……」
その一言が、空間を優しく包んだ。
“笑い声”が霧のように溶けていき、記憶の檻は――解放された。
次の日。
宏之が廊下を歩いていると、相沢がクラスの子たちと小さく談笑している姿が見えた。
その背中はもう、隠れていなかった。
「昨日のプリント、ありがとうねー」「こっちこそ」
そんな、何気ないやりとりの風景。
だけどそれは、誰かの“救われた証”だった。
帰り道、三人は駅前の公園のベンチに腰を下ろしていた。
「……今日は、なんかあったかくねえか?」
「うん。季節はまだ冬なのに、空気がやわらかい感じする」
結菜が微笑んだ。
「たぶん、“ひとつ”救えたからだよ」
蒼真が小さく頷いた。
「これはまだほんの始まりだ。“記憶の檻”はこの街のどこにでもある。でも、俺たちがいれば、少しずつでも、きっと変えられる」
春の手前、肌寒い夕暮れ。
宏之たちは、校舎裏の花壇に腰を下ろしていた。
風が吹くたびに、小さな木々がカサカサと鳴っている。
「……なあ、あそこ、妙に冷たくないか?」
蒼真が、空気の違和感に気づいた。
風の通り道のように、そこだけ空間の“密度”が違う。
結菜がゆっくり立ち上がり、地面のひとつに触れた。
赤いビー玉のような結晶が、指先に触れた瞬間――
「ここだ。開きかけの“檻”だよ」
指先からすっと冷気が広がる。
そして、三人は再び、記憶の檻の座標へジャンプする。
舞い降りたのは、がらんとしたキッチンだった。
光は白く、硬い。
カレンダーは破れていて、食器棚の扉が半開き。
テーブルの上には、食べかけのまま冷めた味噌汁が置かれていた。
そして、部屋の隅に――ひとりの少年が膝を抱えて座っている。
「……ごはん、作ったのに……帰ってこない。“お前がいるから疲れる”って、言われた……。だったら、俺なんかいらないじゃん……」
その声とともに、天井が“ミシリ”と音を立てた。
その音に応じるように、キッチンの中から、黒く膨張した“親の影”が這い出してくる。
それは、巨大な鍋のような姿をしていた。
中からは、怒鳴り声やため息、割れた食器の音が次々と漏れてくる。
「この影……“記憶の混濁”そのものだ。彼は、“本当は言いたくなかった言葉”と、“言われたくなかった言葉”の両方を抱えてる」
蒼真が前に出る。
鍋の影が口を開くようにして、熱風を吐き出す。
宏之が前へ出て剣を振るい、炎を裂く。
結菜が、少年の前にひざをついた。
「君は、本当は――お父さん、お母さんに、“ありがとう”って言いたかったんじゃない?」
少年が顔を上げる。
「……ごはん、作っても……食べてもらえたとき、嬉しかった。それを、思い出したくなかっただけだった」
その一言とともに、空間の色が変わる。
結菜が手を差し伸べる。
「じゃあ、思い出そう。あたたかい場所。君が笑ってた台所。そこから、やり直そう」
少年がうなずいた瞬間、鍋の影がゆっくりと溶けていき、白い湯気があたたかく漂った。
記憶の檻――解放。
次の日の朝。
宏之が教室に入ると、校内の掲示板にこんな手紙が貼られていた。
「今日のごはん、美味しかった。“いってらっしゃい”って言ってくれて、ありがとう。……今度は僕が、“ただいま”って言うから。」
手紙の差出人は書かれていなかった。
けれど、誰かの記憶が――ちゃんと、戻ってきた。
放課後、三人は川沿いのベンチに座っていた。
風がやわらかく、夕焼けが川面に滲んでいた。
「ノクスって、最初はただの“異世界”だと思ってたけど……」
宏之が呟く。
「こういうふうに、人の気持ちがかたちになって……それをちゃんと“戻せる”って、すごいよな」
「世界を壊す力じゃない。“つなぎ直す”ための力なんだ」
結菜がそう言って、そっと目を細めた。
週末。
午後の陽射しがやわらかくなりかけた頃、宏之のスマホに蒼真から連絡が届いた。
「座標、動いた。駅前の公園。気配あり」
待ち合わせ場所に集まった三人は、夕方の人通りの中、人気のない一角へと向かった。
ベンチの影、遊具のそば、ブランコの奥――
その先に、ぽつんと赤いランドセルが置き去りにされていた。
「誰かの……落とし物?」
結菜がしゃがみこみ、ランドセルの留め具に触れた瞬間――
“カシャン”
空気が鳴った。
「……やっぱり、ここだ。座標の中心」
蒼真の言葉に頷く二人。
次の瞬間、ジャンプの光が空気を引き裂いた。
世界が裏返る。
到着したノクスの中は、誰もいない公園だった。
けれど、空には太陽も月もなく、すべてが淡いグレーに染まっている。
地面はうっすらと滲んでいて、まるで涙の跡のようだった。
遊具のそばに、ランドセルを抱えた少女が立っている。
顔は伏せられ、声は小さく。
「……なくしちゃったの。ずっと大事にしてた、あの子を……」
「“あの子”って?」
結菜が優しく問いかける。
少女は言う。
「ぬいぐるみ。誰にも渡したくなかった。でも、お母さんが勝手に捨てちゃって……。“そんなの子どもっぽいからやめなさい”って……」
その言葉とともに、遊具の影がぐにゃりと広がり、巨大な“ゴミ袋の怪物”が姿を現した。
黒く膨れた袋。中からは、小さな手足やボタンの目が無数に突き出ている。
「これは……記憶の中で“捨てられたもの”の集合体か……!」
蒼真が剣を構える。
宏之が続く。
「でも、なくしたんじゃない。“今もここにある”って、伝えるんだ!」
黒い怪物が襲いかかる。
蒼真と宏之が正面から応戦し、その隙に結菜が少女の前にしゃがみこむ。
「君は、ほんとは“捨てられたくなかった”んだよね? その気持ちは、本物だよ」
「でも……言えなかったの。“私は大人だからもう要らない”って、自分で言っちゃったから……!」
「なら、今、言おう。“やっぱり必要だった”って。それで、あの子はきっと戻ってくる」
少女が泣きながら頷く。
その瞬間、結菜の背後に、小さなぬいぐるみの姿が浮かび上がった。
手足のほつれも、ボタンの目もそのままに。
それは、確かに少女の“たいせつ”だった。
「……いた……! ここにいた……!」
光が溢れる。
怪物は霧のように消え、空は柔らかな金色へと変わった。
記憶の檻――解放。
翌日。
駅前の公園には、ランドセルを背負った少女が戻ってきていた。
ベンチの上には、きれいに洗われた小さなぬいぐるみ。
それを抱いて、嬉しそうに笑う彼女の姿が、春の陽射しに溶けていた。
「……あのぬいぐるみ、ちゃんと戻ったな」
「“捨てた”ことが、すべてじゃない。“覚えてた”ことの方が大事なんだよ」
三人は並んで歩きながら、静かに話す。
ジャンパーの力は、戦うだけじゃない。
それは、“想いを拾い直す”力。
ノクスは、まだ危うい場所かもしれない。
でも今は、その闇の中に――確かに“あたたかい何か”があった。