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第一話

 目覚まし時計がけたたましく鳴る。

 ピピピピピピ……。

 その音が、まるで現実世界にしがみついているようで、鈴木宏之は眉をひそめながら布団の中でもぞもぞと手を伸ばした。


「……もうちょい……五分だけ……」


 布団の中で小さく呟く。だが、五分が過ぎる前に、さらに騒がしい音が階下から響いてきた。


「宏之ー! 起きなさい! 遅刻するわよー!」


 母、香織の甲高い声だ。宏之は観念して体を起こし、天井を見上げながら深いため息をついた。


「……いつもより三割増しでうるさい……」


 制服に着替え、階段を降りると、キッチンからは味噌汁の香り。食卓には焼き鮭、卵焼き、そして湯気を立てるごはん。日本の朝食の鏡のような布陣が並んでいた。


「やっと来たわね、寝坊助」


 エプロン姿の香織が仁王立ちして睨んでくる。その隣では、父、直人が新聞を読みながら、コーヒーをゆっくり啜っていた。


「朝から家がうるさいのは、我が家の風物詩だな」


 淡々とした口調に、香織がぷっと頬を膨らませる。


「ちょっと直人、なんとか言ってよ。もう高校二年なんだから、ちゃんと自分で起きないとダメでしょ?」


「うん、まあ……それもそうだな。宏之、頑張れ」


「軽っ!」


 そこへ階段を駆け下りてきたのは、妹の恵。中学三年、今どきの女子らしくスマホを片手に、髪をポニーテールに結んでいる。


「お兄、今日もギリギリじゃん。早く食べて行かないと、電車一本逃すよ」


「うるさい、分かってるって……」


 家族の何気ない会話が交錯する朝。

 しかし、この穏やかな時間の中で、宏之は一瞬だけ、胸の奥に奇妙な違和感を覚えた。ほんの一瞬、誰かの泣き声のようなものが、頭の隅に響いた気がしたのだ。


(……シア=ノクス、か)


 昨日の夜、夢とも現実ともつかない場所で見た“あの風景”が、ふっと脳裏をよぎる。けれど、すぐに香織の一言がそれをかき消した。


「ぼーっとしてないで、ほら、ご飯冷めるわよ!」


 宏之は苦笑いを浮かべながら、箸を手に取った。


 まだ、今日という日は始まったばかりだ。



 家を出ると、まだ空気がひんやりとしていた。

 宏之はイヤホンを耳に差し、いつもの通学路を歩き出す。駅までの道は坂が多いが、もう慣れたもので、足取りは軽い。


 スマホでニュースアプリを開くと、見慣れない記事が目に止まった。


《地下鉄で原因不明の騒動。乗客数名が「世界が歪んだ」と証言》


(……またか。なんか、最近こういうニュース多いよな)


 宏之は眉をひそめてスマホを閉じる。

 自分が「シア=ノクス」にジャンプできるようになってから、現実世界でもちょっとした“歪み”が増えている気がする。もちろん、他人にはそれがどれだけ現実的に感じられるかは分からないが――。


 電車に揺られて二十分、最寄りの駅に到着。駅前のコンビニでミネラルウォーターを買い、校門の前に着いた頃には、すでにチャイム五分前。


「よう、またギリギリじゃん。鈴木、マジで時間の感覚ないのか?」


 声をかけてきたのは、クラスメイトの小田切翔太おだぎり しょうた。寝癖が跳ねたままの頭で、今日も元気そうだ。


「うるせーな……そっちこそ、ネクタイ曲がってんぞ」


「あ? マジか! やっべ、田村にまた言われる……」


 二人で冗談を交わしながら、校舎へと歩いていく。

 教室に入ると、すでに半分以上の席は埋まっていた。女子たちの笑い声、男子たちのスマホゲームの音、机の上に広がるプリントの山――いつも通りの、変わらない朝。


「鈴木くん、おはよー」


 柔らかな声に振り向くと、クラス委員の高瀬結菜が、ノートを抱えて立っていた。清楚な雰囲気で、成績もよく、男子からも女子からも好かれている存在だ。


「ああ、おはよう。……そのノートって?」


「昨日の数学のノート。先生が黒板消すの早すぎて、写しきれなかったって言ってたでしょ?」


「おお、ありがとう……助かる」


 差し出されたノートを受け取ったとき、不意に、藤崎の背後の窓の外――校庭の隅に、人影が立っているのが見えた。


 全身黒ずくめの服に、白い仮面。まるで能面のような無表情の顔。


(……誰だ? 教師……じゃないよな)


 瞬きして、もう一度見ると、その人影は消えていた。


「……鈴木くん? どうかした?」


「あ、いや……なんでもない」


 宏之は曖昧に笑ってごまかす。

 教室は、いつも通りの日常のはずだった。

 でも、ほんの少しだけ、何かが“ずれている”ような感覚が、彼の中に残っていた。



 チャイムが鳴り響くと同時に、教室のざわめきがすっと静まった。

 一限目は数学。教壇に立つ田村先生は眼鏡を直しながら、ホワイトボードに数式を書き始める。


「昨日の続きからいくぞー。三角関数、しっかりな。期末に出るからなー」


 その言葉に、教室のあちこちから小さなため息が漏れる。

 宏之は教科書を開きつつも、頭の中では数式とは別のことがちらついていた。


(……さっきの“人影”、なんだったんだろ)


 窓の外、校庭の片隅に立っていた白い仮面のような存在。幻覚だったと言い聞かせても、あの違和感だけが胸に残る。


「鈴木、ここ解いてみろ」


 田村の声で現実に引き戻された。

 宏之は焦って教科書のページをめくり直し、前に立つ。黒板の前に立つと、背中にクラスメイトの視線が集まってくる。


「えっと……サイン30度は……1/2で……」


 なんとか式をたどり、答えにたどり着く。


「まあ、よし。戻れ」


 安堵のため息とともに席に戻ると、隣の席からくすっと笑い声が聞こえた。


「ちゃんと正解しててよかったね、鈴木くん」


 微笑みかけてくれたのは、高瀬結菜だった。

 彼女のノートはきっちりとした字で埋められていて、教科書以上に分かりやすい。委員長としてクラスをまとめる一方で、誰に対しても穏やかで優しい空気を持っている。


「あのさ……さっきありがとう。ノート」


「ううん、いいの。困った時はお互い様だし」


 そう言って微笑む彼女の横顔を見ながら、宏之は思った。

 ここは、今この瞬間は、確かに「現実」のはずだ。

 でも、時々――その「現実」がうっすらと揺らいで見える。



 チャイムの音が鳴り終わると同時に、教室のあちこちで椅子が引かれ、昼休みのざわめきが始まった。


「よし、メシ! 今日は絶対屋上な!」


 元気いっぱいに立ち上がったのは、いつもの通り小田切翔太。

 その勢いに押されるように、宏之も弁当を持って立ち上がった。


「相変わらず屋上好きだな、お前」


「だってあそこ、風が気持ちいいじゃん? あと、女子がいない」


「……それが本音かよ」


 苦笑しながら階段を上っていくと、屋上のドアは鍵が開いていた。

 ここは本来立ち入り禁止のはずだが、なぜか翔太は毎回こっそりピッキングしている。


「お前、それマジで捕まるぞ」


「大丈夫大丈夫、見つかっても笑ってごまかす」


「バカだろ……」


 風が吹き抜ける屋上には、すでに何人かの生徒がいた。校舎の屋根の端っこには部活帰りらしき上級生の姿もあるが、宏之たちはいつものベンチに腰を下ろす。


 そこへ、もう一人の仲間がやってきた。


「おー、やっぱ屋上か。いたいた」


 現れたのは江口悠真えぐち ゆうま。眼鏡をかけた文系男子で、少し皮肉屋だが話すと面白いやつだ。

 カバンから取り出したコンビニのおにぎりを見せながら、ベンチに加わった。


「それにしてもさあ……今日の三限、英語で爆睡してたやつ、先生にマークされてるぞ」


「……お前のことじゃねぇか、それ」


「バレたか」


 笑いながら、それぞれ弁当を開く。

 宏之の弁当は、母、香織の手作り。ふわふわの卵焼きと、甘辛い唐揚げが入った、安定の内容だ。


「うわ、それ唐揚げかよ! 一個くれ!」


「……翔太、お前毎回それ言ってるだろ」


「だって、うまそうなんだもん」


「じゃあ一個だけな。代わりにお前のウインナーくれ」


「しぶしぶ……交渉成立だ」


 そんな、くだらないけど妙に和むやりとり。

 屋上には風が吹き、昼の陽射しがまぶしい。


 だけど――ふと、宏之は気づいた。


 校舎の下、グラウンドの片隅に立つ木。その陰に、何か“黒いもの”がじっと動かずにいる。

 いや、正確には“誰か”が、立ってこちらを見ているように思えた。


(また、だ……)


「おい宏之、何見てんの? もしかして……あの女子バレー部の新入生か?」


「は? 違ぇよ、変な勘違いすんな」


 翔太に肘で突かれ、我に返る。

 もう一度グラウンドを見下ろすと、そこには何もなかった。


(気のせい……だよな)


 それでも、宏之の胸にはうっすらとしたざわめきが残る。

 この世界の“もう一つの顔”――シア=ノクスの気配が、近づいてきているような気がしてならなかった。



 五限目のチャイムが鳴ると、教室は緩やかに静まり返った。

 午後の授業は現代文。教壇には淡々とした口調で話す遠藤先生が立っており、教科書のページを指示している。


「では、今日の範囲は太宰治の『駆込み訴え』。情緒の描写と内面の独白に注目して読みましょう」


 遠藤先生の声は単調だが、文章に対する熱意は本物で、どこか説得力があった。

 宏之は頬杖をつきながら、教科書に目を落とす。

 文章の間に挟まる読点と改行、そのリズムがまるで心のざわめきを可視化しているかのようだった。


 “私は走って来た”


 最初の一文が、なぜか胸に引っかかった。

 文字を追いながらも、宏之の意識はだんだんと外れていく。気づけば、教室の空気がわずかに揺らいだように思えた。


 ──カツン。


 誰かの靴音が、教室の外の廊下から聞こえた。

 リズミカルではない、不規則な、でも確かにこちらに近づいてくる音。


(……誰か、来てる?)


 宏之はそっと顔を上げた。

 窓の外ではなく、教室のドアのほうを見る。


 しかし、そこには誰もいなかった。


「鈴木。……鈴木」


 名前を呼ばれて、びくりと肩が跳ねた。

 前を見ると、遠藤先生が腕を組み、眉をひそめていた。


「読解の感想を尋ねたんですがね。寝てたかな?」


「……いえ、考えてました」


 クラスのあちこちからクスクスと笑い声が漏れる。

 宏之は居心地悪そうに教科書を見直した。


「『走って来た』という冒頭の言葉が、語り手の焦燥感を強く伝えてると思いました。何かから逃げるような、あるいは、何かに追われるような……」


 我ながら曖昧な言い回しだと思ったが、遠藤先生は「ふむ」とだけ呟いて頷いた。


「追われるような感覚、ね……それは太宰の人生そのものかもしれません。よし、座りなさい」


 席に戻った宏之の中で、先ほどの“靴音”が再びよみがえった。

 たった一度きりの音だったのに、頭の奥に残響のようにこびりついている。


(……まさか、シア=ノクスの干渉?)


 それが現実の歪みなのか、自分の想像にすぎないのか。

 わからない。けれど、確かに、何かが“近づいて”いる。



 午後の授業が終わると、教室には一瞬だけ、ほっと息をつくような空気が満ちた。


「じゃー、最後ホームルームやるぞー」


 担任の田村先生が教室に入ってくる。

 年齢は四十前後、スーツのネクタイが少し緩んでいて、どこか眠そうな顔。けれど、生徒の顔と名前はしっかり把握していて、信頼は厚い。


「まずは連絡事項な。来週の月曜から中間テスト週間に入る。プリント配るから忘れずに持って帰るように」


 ざわつく教室。

「やべー」「もうテストかよ」「マジ無理……」といった嘆きの声が、あちこちから漏れ聞こえる。


 宏之もプリントを受け取りながら、隣の席の高瀬結菜にちらりと目をやる。


 彼女は相変わらず落ち着いた様子で、すでに赤ペンを取り出して重要箇所に印をつけていた。


「……早くない?」


「後で忘れるより、今やっちゃった方が楽だよ」


「いや、正論なんだけどさ……」


 自然と会話が交わせる彼女の存在が、教室の空気に柔らかさを与えている。

 翔太や悠真は後ろの席で「範囲やばくね?」と騒いでいたが、それすら日常の風景の一部に感じられた。


 田村先生は黒板に日直の名前を書きながら、少しだけ声を落とした。


「……ああ、それともう一つ」


 その一言に、教室が再び静まり返る。


「今朝、校内の監視カメラに“不審者”らしき影が映ってたらしい。正門の近くだ。念のため、生徒だけで遅くまで残ったり、変な場所に行かないように。わかったな」


 ざわ……と空気が揺れた。

 一瞬、宏之の脳裏に浮かんだのは――昼休み、屋上から見えた、あの“黒い影”だった。


(……まさか)


 宏之の胸に、うっすらとした焦りが滲む。

 だが、それを見透かしたかのように、結菜がふと囁いた。


「鈴木くん。さっき、どこか見てたよね。……何か、あった?」


 その声には、心配というよりも、“察している”ような響きがあった。


「いや、別に……なんでもない。ちょっと気のせいかも」


「……そっか。でも、気をつけてね」


 彼女の視線はまっすぐで、少しだけ冷静すぎた。

 まるで、何かを知っているような。


「よし、じゃあ今日のホームルームは終わり! 気をつけて帰れよー」


 田村の声を合図に、生徒たちは椅子を引いて立ち上がり、教室にざわめきが戻る。


 しかし、宏之の中には、ひとつの違和感だけがぽつんと残っていた。

 まるで、現実のこの空間に、別の“レイヤー”が重なり始めているような、そんな感覚。


 そして、その“境界”が――今にも、崩れそうだった。



 教室の窓から夕陽が差し込む頃、ほとんどの生徒は帰路についた。

 残っているのは、部活の準備をする者や、忘れ物を取りに来た数人だけ。


 宏之は鞄をまとめながら、ふと背後からの視線に気づいた。

 振り向くと、まだ席に座っていた結菜が、じっとこちらを見ていた。


「……高瀬?」


「ねえ、鈴木くん。ちょっとだけ、いい?」


 彼女はそう言って、立ち上がり、教室の隅――黒板の横にある掲示板の前に歩いていった。

 宏之も鞄を肩に掛けたまま、後を追う。


「なんか、真面目な顔だな。どうした?」


 結菜はしばらく何も言わず、掲示板の古びた掲示物を指でなぞりながら、ぽつりと口を開いた。


「今日のホームルームで、先生が言ってた“不審者”。……あれ、私も見た気がするの」


「え?」


 宏之の心臓が、一瞬だけ跳ねた。


「昼休みのあと、廊下の窓から外を見たら、体育倉庫の影に……白い仮面みたいなの、見えた。……すぐにいなくなっちゃったけど」


 それは、宏之が昼に見たものと、ほとんど一致していた。


「……気のせいじゃ、ないと思う」


 結菜の声は低く、抑えたようなトーンだった。

 まるで、確信をもっているかのように。


「私ね、最近……変な夢を見るの。世界がぐにゃって歪んだり、見たことない街を歩いてたり。気づいたら空が割れてたり。……それが夢なのか、現実なのか、わからなくなる」


 宏之の背中に、冷たいものが走る。


(……それは、“あっち”のことだ)


 夢でも幻でもない。彼が“ジャンプ”によって行き来する、もう一つの世界――シア=ノクス。

 結菜も、そこを“見ている”のか?


「それで……その夢の中に、誰かが言うの。“目を逸らしちゃダメだ”って」


 結菜がゆっくりと、宏之の顔を見上げる。

 その瞳は、淡く揺れているが、どこか“深いところ”まで見透かしているようだった。


「鈴木くんも……見えてるよね。普通じゃないものが」


「…………」


 言葉が出なかった。

 いや、出せなかった。


「私、ずっと待ってた。……誰か、同じものを見てる人がいるんじゃないかって」


 放課後の教室は静かで、外からは野球部の掛け声だけが遠くに響いていた。

 けれどこの一瞬、宏之の現実は、少しだけ“異なる何か”に触れた気がした。


「……ああ。見えてる。多分、俺も」


 ようやく絞り出したその一言に、結菜はわずかに目を見開いた。

 それから、ふっと微笑んだ。


「……そうなんだ。よかった」



 教室の窓の外には、夕陽が赤く差し込んでいた。

 光が黒板の下に淡く広がり、まるで時の境目をぼかしているかのようだった。


 高瀬結菜は、窓際に歩み寄りながら静かに語り始めた。


「……夢の中なの。そう思うようにしてる。……けど、感触がリアルすぎて、起きてもすぐには現実に戻れない」


 宏之は黙って彼女の声を聞いていた。

 その語りはゆっくりと、まるで記憶を辿るように淡々としていた。


「石畳の道が、延々と続いてるの。空は薄紫で、雲はゆっくり逆回転してて……風が吹くと、なぜか花じゃなくて、“言葉”が散っていくの」


「……言葉?」


「うん。空中に浮かんでる“会話の断片”。“ごめん”とか、“忘れないで”とか、そういう短い言葉が、ふわって舞ってるの。読もうとすると消えるんだけど、どれも誰かの気持ちの欠片みたいで……不思議と、寂しい気持ちになる」


 それは――


(間違いない。シア=ノクスだ)


 宏之は息を呑んだ。

 その風景は、彼が以前“ジャンプ”して辿り着いた場所と、寸分違わぬ描写だった。


 紫の空、記憶の断片が散る風、時間がねじれたような街並み。

 あれは夢なんかじゃない。

 あの世界は存在する。現実と同じように――いや、現実の裏に確かにある。


「それでね。夢の最後には、いつも同じ場所にたどり着くの。誰もいない劇場みたいな場所。真っ白な舞台に、真っ黒なカーテン。誰かが立ってるんだけど、顔が見えなくて……でも、すごく冷たい目で私を見てる気がするの」


 言葉の最後に、結菜の声がかすかに震えた。


「怖い夢なんだけど、不思議と……毎晩、あの世界に“帰ってる”ような気がするの」


 宏之の胸が、重くなる。

 帰ってる――そう言えるほど、彼女はあの場所を知っている。


(彼女も、“向こう側”の人間なんだ)


 ジャンプできるかどうかはわからない。けれど、結菜は間違いなくシア=ノクスの存在を感知している。

 それは偶然ではなく、運命のようなものなのかもしれない。


「鈴木くん……君も、あの世界に行ったことがあるんじゃない?」


 唐突に、核心に触れる問いが投げられた。

 宏之は息を止めた。


「私、ずっと……探してたの。あの世界を“知ってる”人を。もし、本当にいるなら、きっと何かが動き始めるって、そんな気がして」



 教室の中は、もうすっかり夕暮れ色に染まっていた。

 机の影が伸び、窓ガラスには朱色の空が映る。そんな時間帯――。


 宏之は、しばらく黙ったまま立ち尽くしていた。

 結菜の問いかけが、胸の奥で何度もこだまのように響いている。


(あの世界を知ってる人を、探してた――)


 今まで、誰にも話せなかった。

 話したところで信じてもらえるはずがないし、自分ですら最初は“ただの夢”だと信じ込もうとしていた。


 けれど今、目の前にいるこの少女は、確かに“あの世界”を知っている。

 空の色も、風の匂いも、舞う言葉たちも――宏之が実際に見たものと、同じ風景を見ていた。


 だからこそ、宏之は思った。

 ここで黙っていたら、もう二度と“本当のこと”なんて話せなくなる気がした。


「……俺は、“ジャンプ”できるんだ」


 その言葉は、自分の声とは思えないほど静かだった。

 けれど、それは確かに結菜の耳に届いた。


「ジャンプ……?」


 結菜はまばたきもせず、宏之を見つめている。


「自分でもどう説明すればいいかわからないけど……。夜、眠ってる時だけじゃない。昼間でも、突然起きるんだ。目の前がぐにゃって歪んで、次の瞬間には、現実とは違う場所に立ってる」


 言いながら、自分の声が少し震えているのがわかった。


「そこは……君が言ってた場所と同じだと思う。紫の空、逆回転の雲、誰もいない街。そこには“現実じゃない何か”がいる。人の形をしてたり、してなかったり……とにかく、あそこは“もう一つの世界”だ」


 結菜は何も言わずに、ただじっと宏之の話を聞いていた。

 驚いているのか、信じていないのか、それすらも分からなかった。


「……最初は怖かった。でも、だんだん分かってきた。あそこは現実とつながってる。向こうで起きたことが、こっちに影響するし……逆もある。俺が“ジャンプ”した後、こっちの景色がほんの少しだけ違って見えることがあるんだ」


 言葉を重ねながら、宏之はようやく、心の奥に押し込んでいた何かを吐き出すような感覚を覚えていた。

 今までずっと、誰にも言えなかったこと。

 それを、やっと言えた。


 そして――。


 沈黙の中、結菜が小さく呟いた。


「……ありがとう。話してくれて」


 その言葉に、宏之は目を見開いた。


「私、夢の中で何度も“誰か”の気配を感じてた。声は聞こえないのに、隣に誰かが立ってる気がして……でも、その正体がずっとわからなかった」


 結菜の瞳が、夕陽に照らされて揺れている。


「もしかしたら、それ……宏之くんだったのかもしれないね」


 名前を呼ばれたのは初めてだった。

 その響きが、妙に現実味を帯びて胸に残った。


「……君、ずっと怖かったんじゃないか?」


「うん。すごく。でも……今は、ちょっとだけ嬉しい」


 教室の隅で、夕陽が静かに二人を包んでいた。

 異世界に関わる者としての孤独が、ほんの少しだけ――溶けていく。



 その時だった。

 まるで空間が小さく“きしむ”ような音が、教室のどこからともなく聞こえた。


 ギィ……ギィィィ……


「……今の音……」


 宏之が顔を上げた瞬間、教室の窓ガラスが“ゆらっ”と揺れた。

 風でも地震でもない。もっと奇妙な――空間そのものが歪むような感覚。


「……やばい、来る……!」


 宏之はすぐに察した。

 これまでに何度か体験してきた、“ジャンプ”の発動直前に訪れる不協和音。

 でも、今回はいつもと違った。


 誰かが――“こちら側”に干渉してきている。


 教室の扉が、コン……コン……と小さく叩かれた。

 誰もいないはずの放課後の廊下。

 それでも、確かに“何か”が扉の向こうに立っている。


 コン……コン……コン……


 叩く音が、だんだんと強く、そして速くなっていく。


 ガンッ――!!


 扉が、外から叩きつけられるようにして開いた。


「結菜、こっち!」


 宏之は彼女の手を取った。

 その瞬間、視界が焼けるような白に染まった。


 空気がはじけるような音。

 重力が一瞬、方向を失ったような浮遊感。

 教室が、床も壁も、全て“向こう側”に裏返っていく。


 ──ジャンプ、発動。


 彼の足元が、教室のタイルから、黒曜石のように鈍く輝く石畳へと変わる。

 空は、紫。雲は逆流し、空気は静かに、でも確実に狂っている。


「ここが……」


 隣にいた結菜が、手を離さないまま、震える声で呟いた。


「夢の中の場所……本当に……存在したんだ」


 宏之は、ゆっくりと頷いた。


「ここが、“シア=ノクス”。現実の裏にある、もう一つの世界だ」


 振り返ると、教室はもう存在していなかった。

 代わりにそこにあったのは、朽ちた劇場のような建物と、道なき道が浮遊する不安定な都市。

 まるで記憶の断片だけで構成されたような、曖昧で、けれど異様にリアルな風景。


 結菜が震える声で問う。


「……どうして? どうして今、急に?」


「わからない。でも、向こう側から……誰かが“引っ張った”気がする」


 その時だった。

 二人の背後――濃い影の中から、白い仮面の男が現れた。


 その姿は、まるで記憶にこびりついたように明確で、異様だった。


 仮面の口元が、ほんのわずかに開いたように見えた。


 そして、低く、空気を割るような声が落ちた。


「……ようこそ、“扉を開いた者たち”よ」



 風が止んだ。


 紫色の空の下、黒曜石の道に立つ三つの影。

 一つは宏之、一つは結菜。そしてもう一つ――白い仮面の男。


 その姿はまるで人形のように動かず、黒いマントのような布が地面を引きずっている。

 仮面は無表情。目の部分は深い闇に沈んでおり、見る者の表情を映さない。


「……誰だ、お前は」


 宏之の声が、空気を震わせる。

 男はすぐには答えず、首だけをかすかに傾けた。


「名は、記憶とともに棄てた」


 男の声は、どこか空洞のようだった。

 響きの中に温度がなく、まるで遠くから誰かの言葉を“模して”発しているかのようだった。


「けれど、お前たちには“識別”が必要だろう。ならば、こう名乗ろう――〈観測者〉とでも呼べばいい」


 観測者――。


 宏之と結菜は顔を見合わせたが、何かを探るように男を見返した。


「この場所は、選ばれた者にしか開かれない。……だが、扉を叩く音があまりにも“強かった”。その衝撃で、境界が裂けた」


「裂けた……? じゃあ、俺たちは……」


「意図せず、巻き込まれた。それは否定しない。だが、お前たちはすでにこの“構造”に触れてしまった。後戻りは、できない」


 仮面の奥で、視線が動いたような錯覚があった。


「シア=ノクスは“記憶”の海。“現実”の裏にたゆたう、潜在意識の残滓だ。お前たちはその表層に立っているにすぎない。だが――」


 観測者は一歩、こちらへと近づいた。


「いずれ、その奥に“触れた”とき。お前たちは、“自分自身”に問われることになる」


「問われる……?」


 結菜が、不安と疑念の入り混じった声で返す。


「何を問われるの……?」


「お前は、“この現実”を信じるか? それとも、“裏にある真実”を受け入れるか?」


 その問いかけに、結菜の息が止まる。


 宏之の胸にも、ぞわりとした震えが走った。

 仮面の男が語る“真実”が何を指すのか――彼にはまだわからなかった。

 だが、確実にそれは、世界の理そのものに関わる問いだった。


「……それを知るには、どうすればいい?」


 宏之が一歩、前に出て訊ねると、観測者は静かに答えた。


「見ることだ。“見えなかったもの”を、見ること。……ただし、それが“幸福”とは限らない」


 その言葉と同時に、男の体が風に溶けるように崩れはじめた。

 マントが千切れ、仮面が風に舞い、そして――


「待て!」


 宏之が叫ぶよりも早く、男の姿は、完全に霧散した。


 残されたのは、静寂と、無数の“言葉のかけら”が空に舞う音だけ。


「……あれが、“観測者”……」


 結菜が、息を呑みながら呟いた。


「俺たち、もう……戻れないのかもな」


 宏之は、重く沈んだ空を見上げた。


 この世界――シア=ノクス。

 その扉を開けてしまった以上、もう“日常”だけを選ぶことはできない。



 “観測者”が消えたあと、沈黙が二人を包んだ。


 風の音はなく、空は静かに揺れていた。

 紫色の空の下には、道の途中で途切れた階段や、空中に浮かぶ建物の影が点在している。

 まるでこの世界そのものが、未完成の夢のようだった。


「……歩こうか」


 宏之が言うと、結菜は小さく頷いた。

 二人は並んで、石畳の道を進み始めた。


 道の両脇には、どこか見覚えのある風景が広がっていた。

 廃れた公園、色あせたブランコ、見たことのあるような路地裏――けれど、細部が微妙に違う。

 現実の“思い出”を誰かが再構築しようとして、失敗したような、そんな街並み。


「……これ、私の家の近くにある公園に似てる」


 結菜がぽつりと呟いた。


「でも、違う。こんな位置にブランコはなかったし……時計塔もない。なんか、子どもの頃の記憶と、今の景色が混ざってるみたい」


「ここって……記憶が具現化する世界、なんだよな」


 宏之も、自分の記憶の中にある風景を探すように周囲を見渡した。

 すると、遠くの広場にぽつんと佇む小さな建物が目に入った。


「……あれ」


 そこには、古びた本屋のような建物があった。

 看板には文字がかすれていて読めなかったが、入口の扉が半開きになっていた。


「行ってみよう」


 そう言って、二人は足を進めた。


 近づくにつれ、建物の前に立つ看板が風に揺れ、“ようこそ おかえりなさい”という言葉が、ゆらりと浮かび上がった。


「……どういう意味……?」


「たぶん、これも記憶の一部なんだ。誰かが、そう言われた記憶……もしくは、言いたかった願望」


 扉を開くと、中は静かだった。

 本棚に並ぶ本は、どれもタイトルがない――代わりに、手書きのような走り書きが表紙に貼られていた。


『忘れたくないこと』

『あのときの声』

『母の背中』

『名前のない人』


 結菜がそっと一冊の本を手に取ると、中のページにこう書かれていた。


「ありがとう」と言えなかった。ずっと、怖くて、言えなかった。でも、本当は、あのとき、伝えたかった。たったそれだけのことなのに。


 ページがめくれ、風もないのに紙がふわりと揺れた。


「……この本、私の記憶かも」


「え?」


「こんなこと……昔、考えてた気がする。……言えなかったこと、たくさんあったから」


 結菜の声は、少しだけかすれていた。

 その瞬間、本棚の奥で“音”が鳴った。


 カチ、カチ……カチ……。


 時計の針のような音が、規則的に続いている。

 二人は顔を見合わせ、さらに奥へと進んだ。


 本屋の裏手には、地下へと続く階段がぽっかりと口を開けていた。


 その先に、何があるのかはわからない。


 けれど、そこに“何か”があることだけは、確かだった。



 石でできた階段は、吸い込まれるように真っ暗だった。

 けれど、不思議と足はすくまなかった。

 奥に“何か”があると、わかっていたからだ。


 宏之と結菜は肩を寄せ合うようにして、そろりそろりと階段を下っていく。

 足音が響くたびに、空間の“密度”が変わる気がした。


 やがて、ふっと空気が広がった。

 そこは、誰もいない教室のような空間だった。


 机と椅子が整然と並んでいて、窓はない。

 黒板には何も書かれていないのに、なぜか“音”だけが響いていた。


 カタ……カタ……


 振り返ると、最後尾の席に誰かが座っていた。


 宏之は思わず足を止めた。

 その後ろ姿は――紛れもなく、“昔の自分”だった。


「……中学の時の……俺だ」


 制服の袖が少し長すぎて、髪も今より伸びている。

 でもその背中には、強い孤独が滲んでいた。


 結菜がそっと宏之の袖を引いた。


「……話しかけてみる?」


「……ああ」


 近づくと、席に座った“中学時代の宏之”は、じっとノートを見つめていた。

 ノートには、ただ一言だけ繰り返し書かれている。


「どうせ、誰もわかってくれない」


「……ああ」


 声が震えた。

 宏之は、当時を思い出していた。

 家では妹の恵に気を使い、学校では友達の輪に入りきれず、家族にも教師にも“それっぽく”振る舞っていたあの頃。

 本音を誰にも言えずに、ただ黙って過ぎていった日々。


「そう思ってた。誰にも言えない、誰にも届かないって……。だから、“あっちの世界”に引かれたのかもな」


 そのとき、席にいた“もう一人の宏之”が、ふっと立ち上がった。

 顔は見えない。だが、まっすぐに結菜を見ていた。


「……君も、そうだったの?」


 問いかけに、結菜は少しだけ顔をこわばらせた。

 そして、教室の隅――黒板の横に、“それ”は立っていた。


 白いワンピースを着た少女。けれど、顔がなかった。


 顔の部分だけが黒く塗りつぶされているようで、口も目もない。

 ただ、頭の中に直接、感情の“圧”だけが伝わってくる。


 悲しみ。焦り。孤独。そして、何より――言葉にならない叫び。


「……これ、私……なの?」


 結菜が呟いた。


「誰にも、本当の気持ちを知られたくなかった。見透かされるのが怖かった。でも――誰かに、ちゃんと気づいてほしかった」


 顔のない少女は、かすかに震えた。

 その体から黒い糸のようなものが伸びて、結菜の足元に絡みつこうとする。


「結菜!」


 宏之は彼女の手を引いて、一歩後ろへ下がった。

 そのとき、“中学時代の宏之”が、少女の前に立った。


 まるで、自分と彼女のあいだに、線を引くように。


 そして、声にならない声で、確かに言った。


「俺たちは、“もう見えてる”。だから、消えない」


 その言葉とともに、少女の輪郭がゆっくりと溶けていった。

 黒い糸も、ふっと風に吹かれるように消えていく。


 静寂が戻る。


 結菜は両手を胸元に当て、深く息を吐いた。


「……ありがとう。鈴木くん」


「いや……俺の記憶も、君がいてくれたから……向き合えたのかもな」


 ふたりは、無言でしばらく立ち尽くした。

 言葉にしなくても、何かが深く繋がったような気がした。



 少女の影が消えたあと、教室の奥にあった黒板が、ゆっくりとスライドして開いた。

 そこには古びた回廊が続いていて、ほのかに青白い光が灯っている。


「……こっちに、何かあるのかも」


 結菜が息を整えながら言った。

 宏之は頷き、先に立って歩き出す。回廊の床は滑らかで、音もなく歩けた。

 その静けさが、逆に耳に痛いほどだった。


 やがて、回廊の先――ぽっかりと開けた空間にたどり着く。


 そこは、ドーム状の広間だった。

 天井はなく、見上げれば紫色の空がゆるやかに流れている。


 そして、正面の壁にぽつんと浮かぶようにして――ひとつの扉があった。


 木製の重たそうな扉。

 表面には“鏡”のように人の姿をぼんやりと映す材質がはめ込まれている。


 その扉の上部には、金属のプレートがあり、こう記されていた。


「現実への帰還は常に一方通行にあらず」


「……帰れる、ってこと……?」


 結菜が小さく呟く。

 だが、宏之はプレートの言葉が気にかかった。


 “常に一方通行にあらず”――つまり、現実とこの世界の行き来は、固定されたものではない。いつでも戻れるとは限らない。


 扉の前に立ち、手を伸ばすと、ほんのわずかに“ざわり”と風が吹いた。

 その瞬間――


 耳元で、声が囁いた。


「──まだ、見ていないだろう。お前の最も深い記憶を。そして……彼女の“願い”を」


「……っ!」


 宏之は、反射的に振り返った。

 だが、そこには誰もいなかった。

 結菜も、今の声を聞いたのか、唇をかすかに震わせている。


「聞こえた……よね、今の」


「……ああ。“願い”って……誰の?」


 二人は扉を前に、答えのない問いを共有する。


 そして、静かに頷き合い、扉に手をかけた。


 その瞬間、紫の空が、かすかに“赤み”を帯びた。


 何かが変わり始めている。

 でも今は、それが“何か”はわからない。


 ――扉が、開いた。


 風が吹き抜ける感覚。

 足元の床が薄く透けていく感触。

 そして、ゆっくりと意識が“こちら側”に引き戻されていく。



 目を開けると、教室だった。


 夕焼けの空がまだ赤く、時計はまだ五時を回ったばかりだった。


 机と椅子は静かに佇み、窓の外では風が木々を揺らしていた。


「……戻ってきた、のかな……?」


 結菜が隣で、まだぼんやりとした表情のまま呟く。


 宏之は、自分の手が汗ばんでいることに気づいた。

 心臓の鼓動も、どこかまだ“向こう”のリズムを引きずっている。


 だが――。


 教室の隅のホワイトボードに、書かれていなかったはずの文字が、残されていた。


「まだ、終わっていない。扉はすでに、開いたままだ」


 文字の色は、赤。

 誰が書いたかはわからない。

 けれど、それが現実のものではないことだけは、宏之も結菜も、直感的に理解していた。


「……見てる。こっちを」


 結菜の言葉に、宏之はゆっくりと頷いた。


 現実とシア=ノクス。

 その境界は、もう完全には閉じていない。

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