3.本丸襲撃訓練
面影と一期一振は物干しから取り込んだ敷布を畳んでいた。陽気が良かったのでまとめて洗って干していたのだ。
「どうかなさったのですか?」
畳む手をふと止めて、一期が声をかけてきた。
面影も手を止めた。
「いや、なにも。なにか、おかしかっただろうか」
「敷布を畳みながらも、ときどき考え事をしておられるようなので、何か悩みでもあるのかと」
「……悩みと言うほどではないが、どうすれば強くなれるのかと考えていた」
面影の言葉に一期は首を傾げた。
「面影さんはもう十分お強いですが……」
「このあいだ、レンガ窯を修理しているとき、薬研が失った兄弟の話をしてくれた。その話を聞いて、もう誰も失わないように強くなりたいと思った。あれから、そのために何ができるかを考えている。だが、日々の鍛錬以上のことは思いつかない。それが歯がゆい」
一期はうなずきながら聞いている。
「なるほど、良き願いですな。……面影さん、ひとつ、聞きたいのですが」
一期はじっと面影を見つめて言った。
「もう誰も失わないために強くありたいと願う、その『誰も』の中に、あなた自身は入っていますか?」
「! ……私、自身?」
「面影さんが夢の断片に一人残ったこと、あのときはああするしかなかったと、私たちは理解しています。ですが、これから強さを目指すのなら、もう誰も失わないという『誰も』の中に、あなた自身を入れておいてくださいね。……私たちは、もう二度と大切なあなたを失いたくありません」
一期のまなざしはどこまでも優しく、そして悲しそうだった。
「……ああ、心がけよう」
面影は微笑んでうなずいた。一期の心配は素直に嬉しかった。
「以前から不思議に思っていたのだが、なぜ、皆そんなにも私を大切にしてくれるのだろうか」
面影が誰に尋ねるでもなく疑問を口にすると、一期は心底不思議そうな顔をした。
「不思議なことをおっしゃるのですな。あなたも我々を大切に思ってくれているではありませんか。薬研から聞いただけで会ったこともない、私の弟のことにまで胸を痛めてくださった」
「それは……そう、なのか? 特に意識したわけでは……」
「ではあなたは元々、とても優しい方なのでしょうな」
思いがけず褒められて、面影は頬に熱が上ったような気がした。戸惑っていると、一期はいつも鯰尾や薬研に向けているのと同じ微笑みを見せた。
敷布を畳み終えて運ぶとき、一期が空模様を確かめるように見上げた。
一期の表情が固くなったことを見て取った面影は
「一期もなにか、気にかかることがあるのか?」
と尋ねてみた。
「ああ、ふと心配になることがあるんです。杞憂なのかもしれませんが、いずれまた本丸が襲撃されるのではと。この本丸の座標が敵方に知れているのは間違いありません。正確に本丸の上空や敷地内に時空の穴を開けてきたのですから」
一期はいっそう厳しい表情になった。
「どうやってこの本丸の情報が漏れたのかも気になるところです。時の政府に間諜でも居るのか、外部から政府の情報機構に入り込んだのか、あるいはその両方か……」
情報の漏洩なら面影にも思い当たる節があった。単独で先行調査していたときに何度も蟲に襲われたが、蟲は面影を待ち構えているようにしか思えない頻度で現れた。その果てにもう一人の自分を奪われたのだ。
「考えても仕方ない、いざとなれば迎え撃つしかないのは分かっているのですが」
一期は苦笑しながら頭を振った。
その日の夕餉のあと、面影は三日月に声をかけた。
「三日月、少しいいか?相談がある」
「ああ、もちろんだ」
三日月は快くうなずき、面影を居室に招いた。
面影はまっすぐに三日月を見て話した。
「ここもまた夢かもしれない、という不安はまだぬぐいきれていない。だが、私はこの本丸が夢に過ぎなくても、いつかは覚める夢でも、ここを守るために強くありたい。仲間の誰も、自分自身も犠牲にならずに済むように。それで、考えたんだが……」
三日月は静かに聞いている。
「本丸の敷地内で、全体的な戦闘訓練を行いたい」
面影がそう言うと、三日月は少し目を見張った。
「ふむ、戦闘訓練か」
「私はまだ一度も、本丸襲撃という事態に遭遇したことがない。この本丸のどこが自分にとって戦いやすく戦いにくいのか、どういった動線で戦うべきか、見定めたくとも実戦経験がない」
面影の話に三日月は深く納得したようすでうなずいた。
「うむ、面白い。本丸襲撃訓練、やってみようではないか」
早速主の許可を得、翌日から各部隊長が集まって話し合いを重ね、訓練内容の取り決めが行われた。
くじ引きで紅白に分かれて対戦。
組み分けの色の鉢巻きを頭に着け、それを相手方に奪われたら戦線離脱。
訓練用の木刀ではなく、真剣勝負。
訓練中は移動も含め、屋内には入らないこと。理由は単純に後片付けが大変だから、である。
紅組は敷地内の南東、白組は北西を起点に展開する。
くじ引きは訓練開始直前に行われた。
紅組は面影、鶴丸、大倶利伽羅、燭台切、日向、一期、村正、薬研。
白組は三日月、長谷部、蜻蛉切、巴形、歌仙、鯰尾、山姥切、長義。
本丸襲撃という奇襲時の対応が目的であるため作戦会議の時間は特に設けられなかった。それでも各組は開始の合図が上がるわずかばかりの間に起点で簡単な相談はした。
北西を起点とする白組で、山姥切が言う。
「面影は擬態を使ってくるだろうな」
それに歌仙がうなずいた。
「使わない手はないだろうね。厄介だな」
「三日月、遅いじゃないか」
長義が一番最後に遅れてやってきた三日月に文句を言った。
「うむ、ちと用意したいものがあったのでな」
三日月は手に持っている竹製の箱の中身を皆に見せた。
皆キョトンとして箱の中身を覗きこんだ。
「……お手玉?」
一方、南東の紅組では
「三日月が相手方にいるのが面倒だな。あいつは何をしでかしてくるか分からん」
と鶴丸が頭をかいていた。
「白組が面影さんを最初に狙ってくるのは想像にかたくないね」
と燭台切が言う。
「まず間違いなく面影の擬態の能力を警戒するだろうからな」
そう言って薬研も同意した。
「あちらが集中して私を狙ってくるなら」
それまで穏やかだった面影の瞳にぎらりと光が宿った。
「———すべて蹴散らす!」
「その意気だぜ」
鶴丸がにやりと笑う。
ちょうどそのとき、開始の合図が上がった。
白組の長谷部は一人、紅組の起点である南東の方角を目指していた。いったん建屋の角に身をひそめて進行方向を伺う。
同じく一人、ぽつねんとたたずむ面影の後ろ姿を見つけた。面影は右に抜き身の刀をたずさえているが、左の指先でのんきに枝垂桜の枝端に触れている。
長谷部は面影の周囲の庭木や回廊の陰に視線を走らせた。他に誰かが潜んでいる気配はないようだ。
枝垂桜の花は盛りを過ぎ、その枝には薄い緑が芽吹いている。残りわずかとなった花びらが上からはらりはらりとこぼれ、そのひとひらが面影の左の爪先に重なった。
そのとき、面影の後ろからガッと地面を蹴りつける音がした。
振り向きざま面影の刀身がひるがえり、長谷部のそれと激しく打ち合った。
「擬態もせずの一騎打ち、その心意気褒めてやろう!」
交える刃の向こうで長谷部が言う。
擬態して相手方をかく乱することもできるが、時間遡行軍の奇襲を想定しての訓練なのであまり意味がない。むしろ、擬態能力を警戒するであろう相手方をできる限り引きつける方が有効だというのが面影の考えだ。さながら誘蛾灯のように。
面影が刀を振るえば長谷部は短刀のような素早さで懐を狙って突っ込んでくる。身を逸らして避けると、長谷部の切っ先が面影の胸元の房飾りをわずかにかすった。
長谷部は元は大太刀で、かつての主に擦り上げられて打刀となった。そのため大太刀の戦い方を熟知している。手合わせのときも構え方ひとつで面影の太刀筋はほぼ読まれてしまう。鶴丸は三日月を警戒していたが、面影にとって一番厄介な相手が長谷部だった。
面影が体勢を直して長谷部の足元から打ち上げるように刀を振るったとき、長谷部も大きく方向転換して刀を振り下ろした。何度も打ち合いながら面影は徐々に後退していく。
「どうした、そんなものじゃないだろう! 訓練といえどこの俺相手に手加減など許さんぞ!」
狂気じみた笑顔で長谷部が言う。面影が本気を出すときは翠緑色の瞳に菜の花色の横帯がくっきりと浮かび上がるのを長谷部は知っていた。
押されているだけなのかそれとも機を伺っているのか、面影の静かな表情に長谷部の挑発に乗る気配はない。
打ち合いの末、長谷部が飛びあがりざま上段に構えたとき、面影の瞳の横帯が濃くなった。
それと同時に面影の背後から白い衣が躍り上がった。鶴丸だ。
面影と鶴丸が背中合わせで同時に放つ斬撃には長谷部も耐え切れずに吹っ飛んだ。地面に投げ出された長谷部の首の両側で、二つの切っ先が地面をうがった。
「お前以外のだぁれも一騎打ちとは言ってないぜ、長谷部」
「鶴丸!」
地面に縫いつけられた長谷部の鼻先で面影の大太刀と鶴丸の太刀が交差している。
「ふん、面影は囮役か。小賢しい」
「強くなるためには手段は選ばない!」
面影の言葉に、長谷部はくつくつと笑った。
「俺の負けだ」
と長谷部が言うと、面影と鶴丸は刀を引いた。長谷部は起き上がって自分の鉢巻きを取り、鶴丸に渡した。
長谷部の鉢巻きを懐にしまいながら鶴丸はいぶかしんだ。
「なんだ、ずいぶんあっさりしてるなぁ。長谷部ならもっと悔しがると思ってたんだが」
「さて、俺は見物に回る。健闘を祈る」
そう言って長谷部はひらひらと手を振り、去っていった。
鶴丸は長谷部の他に誰の姿も見当たらないことを確認し、次の獲物を待ち構えるべく、建屋の影に身を潜めた。
戦線離脱した長谷部は屋根の上を歩いていた。
「三日月、ここにいたのか。屋内不可侵、という取り決めだろう?」
三日月はこちらを振り返りもせず、地上の様子をうかがっている。
「屋根の上は屋内ではないぞ?」
「まったく、この老獪め」
そう言って長谷部は呆れたように笑った。
「はっはは、もっと褒めてくれてもかまわんぞ」
と三日月も笑った。
「こうして俯瞰していると、面影組の手の内がよく見える。我々が面影を真っ先に狙うことを見越して、囮役に置いている。網にかかった者を徐々に奥の角地に誘い込みながら、待ち伏せている者が襲いかかって潰していく算段だろう」
三日月が目線を配った先で、山姥切と鯰尾が面影組の待ち伏せしていそうな場所を順番に探っては目印のお手玉を置いている。緑のお手玉は「いない」赤のお手玉は「いる」の合図。赤のお手玉の数が、隠れているのを確認できた人数。
お手玉は訓練開始前のほんのわずかな間に三日月が用意してきたものである。
山姥切が胸の装飾に太陽光を反射し、何度かきらめかせた。目印設置完了の合図だ。
「なぁ長谷部、覚えているか?かつて黒の面影は、夢は断片のままだ、何ものにもなれない、と言った。だが、俺は違うと思う。現実を動かし、何ものかにするのは人の思いであり、願いであり、祈りであり———つまりは『夢』だ。面影が、ここは仮初めの夢想の世界に過ぎなくとも、その中で強くありたいと願った。ならば、俺たちは全力で応えようではないか」
三日月はぬらりと太刀を抜いた。刀身にわざと太陽光を反射して、山姥切たちに合図を送ると同時に地上の面影たちの視線を奪った。その次の瞬間、三日月は屋根から飛び降りて面影の頭上に太刀を振り下ろした。
面影はすかさず応戦する。面影は三日月と鍔迫り合いしながら歯ぎしりした。
「卑怯だぞ、三日月!」
「強くなるためには手段は選ばない、そうだろう?」
三日月の瞳の色が一瞬深くなり、踏み込んでくることを察した面影は後ろに飛び退った。
そこへ鶴丸が三日月の背後に躍り出、振りかぶった。
「ハハッ! 三日月、長谷部の二の舞か? お前らしくもない」
三日月の太刀が鶴丸の太刀を掬い上げるように受ける。
「そうさなぁ。だが鶴丸、らしくもない、のその先を考えるべきではないかな?」
三日月は鶴丸の太刀を流してそのまま鶴丸の背後に回り込んだ。
鶴丸は紙一重で身体を半回転させて三日月の太刀を避けた。
すかさず三日月の背後から面影の手が伸び、鉢巻きの端をつかもうとする。三日月は後ろにも目が付いているような動きでそれを避けた。
「うむ、惜しいな。そこは斬りかかって来るべきだぞ、面影」
刀を構えたまま二対一で対峙する。面影と鶴丸の二人が厳しい表情なのに対し三日月は涼やかな微笑みを浮かべている。
長谷部は屋根の上から戦闘を見守っていて、三日月が罠の最奥である角地とは逆の方角に面影と鶴丸を誘導しているのを悟った。
長谷部は含み笑いをした。
「ふん、なるほど。面影との戦闘で時間を稼いだのち戦線離脱して高所から全体を見ておけと三日月に言われたが、こういうことか。確かに見えてくる景色が違う」
別の方向から刀を打ち合う音がし始めた。待ち伏せていた面影組の者たちと、その背後を突いた三日月組の者が戦闘を始めたようだ。長谷部が時間を稼いでいる間に三日月組の策略が展開していたことに気づけなかった面影組は、ここから抗戦するしかない。
制限時間に至って、結果は僅差で三日月たち白組の勝ちだった。
「みんなボロボロになってしまいましたな」
一期一振の言う通り、ほとんどの者は戦装束がボロボロになっていた。だが皆、ほがらかに笑っている。
「おなかすいた~~~」
とぼやく鯰尾に、日向はおにぎりを渡した。
「訓練を始める前におにぎりとお味噌汁を用意しておいて良かったね」
日向は早めに鉢巻きを取られて戦線離脱していたので、装束はほとんど乱れていない。
「三日月さんが面影さんと打ち合ったのが、僕たちの注意を引きつけておくための陽動だって気がついたときにはもう遅かったよ。山姥切さんたちに後ろを取られてて、思うように動けなかった」
日向の話を聞いて鶴丸は頭を掻いた。
「三日月を奥に誘い込むのに難儀しているのに待ち伏せている奴の援護が来ない…と思ってたら、待ち伏せ役から潰されてたとはなぁ」
「あなた方の対応も素早かった。俺たちは待ち伏せ役を足止めするのが限界で、結局三日月の援護に回れなかった」
長義が鶴丸にそう返すと、山姥切は黙ってうなずき、同意を示した。
「あ、主がね、次からは屋根の上も禁止です! って。もし屋根の上で戦闘したり走り回ったりして瓦が割れたら、また雨漏りしちゃうもんね……」
と鯰尾が言うと
「ううむ、また別の手を考える必要があるなぁ」
三日月はのんびりした口調で言い、ほうじ茶をすすった。頬には泥がついている。
「どうせまた禁じ手ぎりぎりの策を使うんだろ?」
と鶴丸が口をとがらせる。
「ああ、なにしろ戦場にも驚きが必要だからなぁ」
三日月はそう言って心から楽しそうに笑った。
面影は桜の木の丘に立って本丸を見下ろしていた。
丘の桜はとうに散り終わって葉桜になり、菜の花もほとんどが実をつけ、黄色はまばらになっていた。それと入れ替わるように白や薄紅や赤紫のつつじが本丸のあちこちで咲き始めていた。紋白蝶のほかに揚羽蝶や黒揚羽、蛇之目蝶もよく姿を見せるようになり、空にも色彩が増えた。
丘を長谷部が駆け上がってきた。
「面影! どうした、そんなところで」
心配そうに声をかけてきた長谷部に面影は笑顔を向けた。
「嬉しいんだ。ここに居られるのが」
本丸を一望しながら面影は言った。訓練では勝てなかったが、得るものはあった。誰も失わないという願いに向かって着実に一歩を踏み出せた実感があった。
「もしもここが儚いうたかたの夢でしかなくとも、今、ここに居られるのが嬉しい」
面影の言葉を聞いて、長谷部は微笑んだ。
「三日月が言うには、現実を動かすものは夢なのだそうだ」
「……夢が?」
面影は不思議そうに聞き返した。
「ああ。思い、願い、祈り……つまりは夢が現実を動かす、と。黒の面影は夢が歴史につながる手立てなど存在しないと言った。確かに過去や歴史という現実はもう動かせない。だが、あのときお前が言った『たどり着く明日』なら、きっと変えていけるものなんだろう」
面影は胸に手を当てた。あのとき心から祈るような思いでもう一人の自分に呼び掛けた言葉が、こうして仲間を通して今、自分の許に還ってきた。自分が立っている場所がいまだ夢か現か定まらない中で、ひとつだけ確かな希望の輪がつながったような気がした。
長谷部は面影の肩を叩いた。
「さあ、急いで戻ろう。みんな食事しながら今日の訓練の意見交換をしている。聞いておいて損はない。それに、うかうかしてると食いっぱぐれるぞ」
「ああ」
面影は微笑んでうなずくと、先に行く長谷部を追って緑の丘を降りていった。
《終》